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妖精と黒獅子  作者: 水仙あきら
第三章 あの日の約束に真実の夢を見る
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 ランドルフは息一つ乱さないまま、意識を失って倒れたエミールを見下ろしていた。

 戦っている間にこの男が見せた燃えたぎるような怒り。それはただ任務に従事する工作員にしては、異質すぎるほどの熱を放っていた。

 しかしその熱の正体などどうでも良い。

 この男がセラフィナを傷付けた。そして恐らくは彼女を攫った。この事実さえあれば十分だ。

 ランドルフは切っ先をエミールの胸に据えた。そして剣を持つ手を大きく引き、容赦なく突き立てようとしたところで、誰かがその腕に触れた。

 強い力ではない。しかしランドルフは思わず動きを止めてその手の持ち主を視界に収めた。すると、やはりルーカスが苦笑気味にこちらを見据えている。

 考えてみれば近頃になって何度この弟に正気に引き戻してもらったことだろう。以前はこちらが彼の浅短を諌めるばかりだったのに。


 ダメですよ。兄さんが私情で人を殺すことを、義姉上が望むと思いますか?


 彼は何も言わなかった。それなのに、グレーの瞳がそんな事を語りかけているような気がして、ふと腕の力が緩んでしまう。

 それがいけなかった。

 あまりにも一瞬のこと。音もなく体を起こしたエミールが、目にも留まらぬ速さでランドルフの横を駆け抜けていく。およそ大怪我を負っているとは思えないその動きに誰もがあっけにとられているうちに、エミールのナイフがルーカスの首を捉えていた。


「全員動くな。動くとこいつの首を切る」


 冷え切ったその声に、全員がその場で硬直した。

 してやられた。何せ肩に深手を負い、あばらを砕かれた男がその場で復活するなんて普通は思わない。ランドルフは先ほど切り裂いたはずのエミールの肩を見遣り、そしてその重大な事実を悟った。


「ハイルングの落とし子……いや、ハイルング人の末裔か」


 唸るように絞り出した言葉に、美しき工作員は壮絶な笑みを浮かべて見せた。

 つまりこの人数にたった一人で挑んできたのも、怪我がすぐ治るからこそというわけだ。

 しかもこの男はセラフィナよりも遥かに傷の治りが早く、更には判断の早さも一級品ときている。ランドルフは無理でもルーカスなら拘束できるという彼の読みは正確で、両者の実力を肌で感じた経験を持つランドルフにとっても納得の結果だった。


「話が早くて助かるぜ。そう、だからこそこの作戦にも勝算があった。けど黒獅子将軍、あんたがやって来ることも、ましてや勝つ事なんて想定していなかったし、実際無理だった。だから今の俺が望むのはささやかな願いだけだよ」

「……言ってみろ」

「残りの馬を始末しろ。それだけで、一応俺の任務は終了だ。ええと、あんたの弟なんだよな?こいつも無傷で離してやるよ」


 馬を失えば作戦の遅延は免れない。ランドルフたちの目的をエミールがどこまで察知しているのかわからないが、フランシーヌとしては追っ手という追っ手を潰さなければ気が済まないということなのだろう。

 一刻を争うこの時に徒歩で次の街へ行くのはもどかしいが、その為にルーカスを犠牲にするわけにもいかない。ランドルフは殆ど考える時間も取らずに頷こうとしたのだが、ふと捕われた弟と視線を合わせてしまった。

 こんな状況だというのに、ルーカスはいつもの微笑みを浮かべていた。一連の事件でずいぶんと近しくなったその笑みを正面から見つめていると、グレーの瞳に確かな決意の色を感じ取って体が動かなくなる。


「兄さん。義姉上を助けたら、今度こそ正面からぶつかってくださいね」


 約束ですよ。そう締めくくって目を細める彼が何をするつもりなのか判断がつかず、前へ踏み出そうとする足が遅れた。

 ルーカスの体が背後に傾いでいく。背景に広がる暗闇は深く、だからこそそこに何があるのか気付く事ができなかった。それはエミールも同じだったのだろう。突如として後ろに引っ張られたことによってバランスを崩した彼は、ルーカスと同時に倒れ込み——そして、二人の姿が消えた。


「ルーカスっ!」

 

 その刹那、何が起こったのかを理解したランドルフは、二人がいたはずの場所へと猛然と駆け寄った。そしてそこに広がる崖を目の当たりにし、目の前が真っ白になる感覚を味わうことになる。

 崖は下が見通せないほど高く、人間を拒むかのように尖った岩肌を見せつけていた。先程までそこで息をしていたはずの弟がこの底暗い闇へと吸い込まれたという現実は、すぐに受け止めるにはあまりにも突然で、あまりにも残酷だった。



 ******



 おお、胃が浮いてるみたいだ。

 崖へと身を躍らせた瞬間、ルーカスは呑気にそんなことを思った。

 目前に位置する細面が驚愕の眼差しをこちらへ向けている。男と心中なんて冗談ではないが、散々煮え湯を飲まされた相手にこんな顔をさせることが出来たのならそれも悪くない。

 まあ心中とはいっても、先程一瞬にして回復してみせたその力を見るに、エミールは崖から落ちたくらいで死にはしないのかもしれない。

 けれどそれでも良かった。あのまま馬を始末してこの男を取り逃がしたとしたら、また襲ってくるのは想像に難くないし、そもそもこちらの作戦が遅れるのは絶対に避けたい。いくらエミールが怪我から回復してもこの崖を登るのは簡単な事では無いので、今はそれだけの時間があれば兄達もアルデリーに到着できるはず。

 

 残念ながらどうやら俺はここまでみたいだけど。自嘲しつつ内心で呟けば、脳裏にいくつもの人影が通り過ぎていった。やけに明確な像を結んでルーカスに語りかけてくるそれらは、どうやら過去の記憶がそのまま再生されたものらしい。

 なるほど、これが走馬灯ってやつか。死ぬ間際に過去を振り返るのも悪くないかな。

 色褪せた記憶の奔流を眺めようと、ルーカスはゆるく目を閉じた。


 *


 キン、と軽やかな音が鳴って、夏空に輝く銀色が放物線を描いていく。

 自らの手から弾き飛ばされた剣がややあって地面に突き刺さったのを確認して、ルーカスは地面に大の字になって倒れ込んだ。


「っだーーー!また負けたあ!」


 口に出してみると余計に悔しさが湧いてきて、額から滴る汗も気にならずに歯噛みする。すると頭上から低い笑い声が降ってきたので、ルーカスは仕方なく上半身を起こした。

 弟をあっさりと打ち負かしたランドルフは、軽快に笑いつつ剣を鞘に収めたところだった。


 士官学校の夏期休暇で実家へと帰省した兄に、間髪入れずに手合わせを挑んだのはルーカスであった。疲れているだろうに快く応じてくれたのだが、力強さと柔軟さを併せ持った豪剣振りは相変わらずで、一切歯が立たないままにとどめを刺されてしまった。


「しばらく見ないうちに強くなったじゃないか、ルーカス」

「けどやっぱり兄さんには敵いませんね。この半年で鍛錬を積んだつもりだったんだけどなあ…」

「なに、その年ならば十分な実力だ」


 この世に生まれて十二年、ルーカスは一度として兄に勝てたためしが無い。

 六歳も離れているのだから当然だとかそんな話ではなく、ランドルフは何事に関してもとにかく優秀な男だった。

 学校の成績は常に一番、運動能力は抜きん出て高く、士官学校にも主席入学。しかもリーダーシップがあって性格も誠実極まり、欠点といえば強面である事くらい。面倒見の良い兄は、さして出来の良くない弟のこともこうして昔から良く可愛がってくれていた。

 ここまで完璧な兄がいたら捻くれてしまいそうなものだが、ルーカスはそれなりに真っ直ぐ育った。何故なら、ルーカスを産んですぐに亡くなった母に代わって、軍人である父は兄弟に対して公平な愛情を注いでくれていたから。

 それに兄の大きな背中を見つめていると、どうしても追いかけたくなってしまう。口に出したことは無いが、ルーカスはランドルフの事を心から尊敬していたのだ。


「ほら、今日はもう終わりにしよう。立てるか?」

「はい。ありがとうございます」


 差し出された手につかまると、その大きさとまめの硬さが懐かしかった。士官学校に入学してから一層逞しくなったように見える兄を眩しく見上げながら、ルーカスはより一層精進することを誓うのだった。




 ルーカスが士官学校に入って一年経った頃、隣国のモルギス帝国との戦争が始まった。まだ当時中尉だったランドルフも最前線で戦うこととなり、その評判は遠く首都へも聞こえてくるほどだった。


「ルーカス、聞いたぜ?アイゼンフート中尉、物凄い戦績を上げているらしいな」

「まあね。ほんと、自慢の兄さんなんだ」

「いいよな〜かっこいい兄さんがいてさ。俺の兄貴なんかしがない靴屋の跡取りで、小柄でひょろひょろしかも気弱でさ。あれじゃ頼りなくて心配なんだよな」

「いいじゃない、優しいお兄さんで」


 友人と廊下で軽口を交わしつつ、ルーカスは内心で嘆息した。兄のことは相変わらず心から尊敬しているけれど、近頃は少し辛い。

 輝かしい戦功を次々と打ち立てる兄と違って、ルーカスはといえば成績はせいぜい中の上、何かに突出した才能を発揮するでもない。次第に周囲は期待を薄れさせてゆき、自身もまた徐々に遠くなる大きな背中を追うのに無理を感じ始めていた。

 

 ルーカスが士官学校を卒業する頃には、ランドルフは数々の手柄を立てて少佐に昇進していた。

 ルーカスは砲兵少尉として前線へと送られ、戦場での日々が始まった。要塞で兄とすれ違うこともあったが、既に黒獅子の異名を取り一目置かれる兄は、なんだか遠い存在に感じられた。本人はその異名を良く思っていないようだったけれど。

 そして戦争が終わる決め手となった大会戦で、ランドルフは戦況を決定付ける大手柄を挙げた。

 父が戦死したという一報がもたらされたのは、大会戦が集結したのと同時のことだった。


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