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「へえ、何だよそこまで知ってたのか。じゃあ俺が何しに来たかもわかるだろ?」
エミールはさも面倒臭さそうに肩をすくめると、初めて視線をランドルフへと向けた。爪が食い込むほど硬く手を握り込んでいなければ、今にもこの男を殴り飛ばしてしまいそうだった。
「せっかく足止めしようとこんな暗い中待ってたってのに、あんたが矢を叩き落としたせいで半分失敗だ。嫌だね、黒獅子自ら足を運んで来るとは大誤算だ」
半分失敗ということは、つまり。
確信を持って視線を飛ばせば、馬は四頭のうち二頭は無事で、馬車から切り離せば十分走ることができそうだ。
なるほど先程の矢は人間を狙ったものでもあったのだろうが、最優先目標は馬だったということか。たった一人で足止めをしなければならない場合、最も有用な手段の一つである事は間違いないだろう。
「なるほど、貴様は優秀な工作員らしい。しかし、愚かだな」
絞り出すように発した声は、自分で思うよりも数段低く響いた。
ルーカスたちが一斉にこちらを振り仰ぐ。彼らの表情に明確な驚きと恐れが浮かんでいるのを見るに、どうやら今の自分は慣れ親しんだ者でも恐怖を感じるほどの凶相を浮かべているらしい。
しかし煮えたぎる怒りを収める気は全く起こらず、ランドルフは抜き身の刃をエミールの喉元にピタリと据えた。
「貴様はこれ以上の成果を望まず撤退すべきだった。たった一人で私の足止めをできると思うなよ」
「そうはいっても、こっちも仕事でね。あんただけはここで始末しなきゃ、計画に支障が出る。悪いが付き合ってもらうぜ」
エミールは黒獅子将軍たるその烈気に怯みはしたが、気丈にも口元を歪めて見せる。
それが合図となった。
短く空気を裂く音がして、ランドルフはそれと同時に小さく身をひねった。常人には見えない速度で投擲されたそれを視界の端で捉えると、どうやら専用に設えられた短いナイフだった。馬車の側面に突き刺さり鈍い音が上がるが、それを確認する暇はない。第二射が放たれるよりも早く、ランドルフは一足飛びにエミールへと肉薄していた
「危ないっ!」
思わず声を上げたのはレオナールであった。何せ相手は暗闇の中で正確に馬を射抜く程の実力を持ち、更には初っ端から暗器を投げ飛ばしてくるような結果至上主義の工作員なのだ。しかも世界でも類を見ないほどの強者相手にたった一人で挑んでくるのだから、何らかの策を練っていると見てまず間違いない。そんな相手の懐に飛び込んでしまっては、何が起きるかわかったものではないはずだった。
しかしレオナールの杞憂はあっさりと覆された。
ランドルフは間髪入れずに剣を一閃する。エミールは腰に差した剣を瞬時に抜き放ち、一撃を防ぐべく前にかざしたが一歩遅かった。凄まじい速さで繰り出されたその攻撃に十分な防御姿勢を取ることも叶わず、圧倒的な力によって後方へと吹き飛ばされてしまったのだ。
しかしエミールもまた手練れであった。彼は空中で姿勢を正すと、何とか受け身をとって地面へと着地して見せた。しかしその隙を逃すランドルフではない。立ち上がるまでのわずかな時間にまたしても距離を詰め、その勢いのまま鋭く突き技を繰り出す。そしてまた、一閃、二閃。エミールもまたその攻撃を受け止め、いなし、時に突きを繰り出す。その攻防は見るものにとっては永遠のように長く感じられたが、実際は数十秒程度の時間だった。しかし最後にランドルフの剣がエミールの肩を切り裂き、達人同士の攻防は終わりを告げた。
怪我を負えば必ず隙が生まれる。ランドルフはその隙を見逃さず、剣を持つ手をめがけて柄を叩き込んだ。その強烈な一撃に、たまらず剣を落としたエミールの負けは誰の目にも明らかだった。
しかし、エミールは怒りに燃える瞳でランドルフを真正面から睨み据えていた。彼はもはや冷静ではなかった。己が負けているという現実を振り払うかのように、激情に押されるまま懐に隠していたナイフを手にすると、ランドルフの胸をめがけて投げつけてきたのだ。
しかしそれは苦し紛れの、今までの彼と比べれば余りにも大味な一撃だった。ランドルフはそのナイフを素手で横合いから掴み取ると、そのまま指先だけの力でへし折って見せた。
「小賢しい!」
裂帛の気合いで発せられた一括に、夜の闇すらも正体をなくして震えるかのようであった。成り行きを見守るしかない三人も、放射状に発せられた衝撃波を幻視して思わず慄いてしまう。それをまともに正面から食らったエミールは、短い時間ではあるものの完全に動きを止めた。
たったそれだけの時間が、勝負を決するには十分に過ぎた。
ランドルフは真っ二つになったナイフを投げ捨てると、大きく一歩踏み込み、そして。
エミールの腹のど真ん中に、己の全筋力を乗せた拳を叩き込んだのだった。
******
自分のあばらが砕ける音というのは、何度聞いても形容しがたい不快さを伴っている。
相対していた男は、敵を戦闘不能に至らしめたというのに全く表情を緩めず、地面に倒れ伏したエミールを見下ろしていた。
——ああくそ、強いな。今まで殺してきた奴らとは格が違うってか。
エミールは内心で毒付いて口元を歪めると、激痛を訴えるあばら骨に意識を奪われてしまった。
*
エミールはアルーディアの王宮で生まれた。母は王宮に勤める下女だったが、その美しさが先々代国王の目に留まったのだ。
妾として取り立てる話もあったらしいが、ある事実が判明して、母子は着の身着のままで王宮から追い出される事となる。
母は赤子のエミールを抱えて冬のリスヴェルを彷徨い、倒れる寸前で何とか狭いアパルトマンを借りることができたらしい。
暮らしは極貧の一言に尽きた。すぐに父王が崩御してフェルナンの治世になったが景気は悪化の一途を辿り、給料はどんどん減っていくのに物価はどんどん上がっていく。
そんな中でも母は笑顔を失わない、強い人だった。エミールは母を助けるために学校には通わず、朝から晩まで働き詰めの日々を送った。
そして十歳を迎えたある日、事件が起こった。
己に倒れかかってくる鉄材の山は、まるでスローモーションのようであった。エミールはその現実とは思えない光景を前に立ち尽くし、そのまま意識を失った。
目を覚ました時、そこには信じられないものを見る目を向ける同僚たちの姿があった。皆で助けてくれたのか、大きな倉庫の中にはそこら中に鉄材が散らばっていたが、自分の体には一つの棒切れも乗っていなかった。
そこで気がつく。自分の服が無残に血まみれになっているのに、怪我一つしていないということに。
しまったと思った時はもう遅かった。ざわざわと水紋が広がるように嫌悪が伝播していくのを感じる。
ついに失敗してしまった。あんなに母さんにハイルングの落とし子であることがバレないようにと言われていたのに。
「おい、まさかこいつ」
「ああ間違いねえ。こいつ、ハイルングの落とし子だよ!」
誰かが叫ぶ。汚らわしい、俺たちを騙しやがって。いままで笑顔で可愛がってくれていた大人たちが侮蔑の目を向けてくる。共に働いてきたはずの少年たちが、まるで汚いものを見るように唾を吐いている。
エミールは難無く自力で立ち上がると、追い立てられるようにして工場を後にした。ひどい疲労感が全身を包んでいたが、それよりも胸の痛みの方がよほど苦しかった。
「母さん!」
アパルトマンに駆け込むと、母は内職の手を止めて驚いた顔をした。
「エミール! 血だらけじゃないか!」
青ざめて駆け寄ってくる母に、エミールは涙ながらにすがりついた。仲間だと思ってた人達に拒絶されたこと、明日からここで生きていけなくなってしまったことが、辛くて申し訳なくて仕方がなかった。
「ごめん、母さん……! 俺、俺……怪我して、すぐ治って。それで、みんなにばれちゃったんだ。本当に、ごめん」
「いいんだよ、そんなことは。それよりお前が無事で良かった」
この世の終わりのように泣き叫ぶエミールに、母は力強く抱きしめて背を撫でてくれた。その穏やかな声に涙が止まらなくなってしまう。エミールのせいで王宮を追い出されたというのに、どこまでも優しい母。
エミールは抱きしめられたまましばらく泣き続けたのだった。
結局、母子は次の日にはリスヴェルを出た。仕事を求めるうちに工業地帯へと進み、たどり着いたのは寒い寒い北の街。
温暖なリスヴェルで育った上にもともとあまり体力の無かった母は、二年の時間をかけて少しずつ、けれど確実に元気をなくしていった。
息を搾り尽くすような咳が聞こえて、エミールはスープをかき混ぜる手を止めて寝室へと走った。
寝室といっても、このアパルトマンには廊下に備え付けられた台所と、たった一つの部屋しかない。ドアを開けた先ではベッドで上半身を起こした母が胸を押さえて咳き込んでいるところで、エミールは締め付けられるように痛む胸を無視してその背を撫でてやる。
「母さん、大丈夫か?」
「げほっ……ふう、大丈夫。心配かけてごめんね」
「今スープを作ってるから、少し食べたら薬を飲もう」
自分自身で発した薬という単語に、エミールは暗い気分になった。
今まではギリギリではあっても薬が買えていた。けれど今日、勤めている炭鉱の賃金が下がることが発表されたのだ。これではもう満足に薬を買うことはできなくなり、このままでは母さんが——。
「ごめんね、ちょっと食欲がないんだよ。もう少し後にしてもらってもいいかい」
「駄目だ、そんなの! ちゃんと一日三回飲まないと!」
「後でちゃんと飲むよ。今は、なんだか横になりたくて」
「……わかった。絶対に後で飲めよな」
母は申し訳なさそうに微笑むと、すぐに寝息を立て始めてしまった。
食欲が出ないなんて大丈夫だろうか。薬が買えなくなるかもしれないという矢先に病状が悪化でもすれば、いよいよ対処が難しくなるのではないか。エミールは不安に押しつぶされそうになる心を奮い立たせるように顔を上げると、スープを仕上げるべく寝室を後にした。
その日の母はそのまま眠ってしまい、結局は薬が飲まれることは無かった。それ以来病状は悪化の一途を辿り始め、食事が取れずに薬も飲めないことが増えていった。
「ねえ、エミール……聞いてくれるかい?」
賃金が下がってから半年。ベッドに横たわったまま微笑む母は、リスヴェルにいた頃とは比べるべくもないほどやつれていた。痩せ細った手を握り込んだエミールは、「何?」と絞り出した自らの声が震えるのを必死で押さえなければならなかった。
「私たちの、ご先祖様が、ハイルング人だというのは知ってるね? ハイルングの消失の時に、取り残されて、しまった人たちなんだって……前に、話したことがあったと思うけど」
途切れ途切れに紡ぎ出される言葉にはもちろん覚えがある。
世間一般的にハイルングの落とし子と言われる存在は、実在したハイルング人の末裔なのだということ。まったく普通の人間と同じ者もいれば、先祖返りして極端に力の強い者が生まれることもあるということ。エミールはまれに見るほどに強い力が顕現しているのだということ。
それらは全部、物心ついた時に教えてもらっていることだった。
「ああ。それが、どうかした?」
「私たちは……隠れて生きて来なければならなかった。何故なら、この国で私たちは、蔑まれているから。けど、ハイルング人達は、いくつかの、掟を持っているんだよ」
「掟?」
「うん。人ならざる力を持ったハイルング人が、人として生きていくための……掟だ。その一つに、絶対に復讐をしない、というものがある」
エミールは驚愕に目を見開いた。今になって母が何故そんなことを言い出すのか、わかってしまったから。
「どれほど理不尽な目にあっても、復讐だけは、だめ。ハイルング人ならば、なんだってできる。だからこそ、悪意に染まっては……きっと、もう人ではいられない」
「母さん、まてよ……そんな話、聞きたくない。俺は、母さんさえいてくれれば、そんなこと考えもしない」
「エミール、約束しておくれ。人を恨んで生きていくことなんて、絶対しないって」
母が白い顔で微笑むから、エミールは泣きそうに顔を歪めて頷くことしかできなかった。
どうして俺は自分の体しか治すことができない? どうして病魔を貰い受けることができない?
ハイルング人といったって、結局この国では生きていくのに邪魔なだけだ。普通の人間として生まれた母さんを王宮からこんな北の果てまで追いやって、結局自分だけは食べ物も必要なくのうのうと生き延びようとしている。
「良かった。ありがとう、エミール……」
母が安心したように眠りについたのを確認し、エミールはカバン一つを掴んで雪の舞う外へと駆け出していた。
エミールは思いつく限りの人に対して、金を貸してもらえないか頼んで回った。しかし同僚も、炭鉱のお偉方も、今は自分が生きていくのに精一杯で、高額な薬を買えるほどの金など工面できるはずもない。
結局すべて空振りに終わり、エミールは重い足を掛かり付け医の元に向けた。
しかし老医師から放たれた一言は、無情だった。
「駄目だ。薬は出せない」
「この通りだ! 金なら、俺が働いて、きっと返す! だから……!」
「……はあ、仕方ないか」
面倒くさそうに口を開いた医師から聞かされた話は、予想だにしないものだった。
「お前の母さんはな、もう長くないんだよ。彼女は余命を知った時点である決断をしたんだ。もう治療を受けない、という決断を。お前のためだよ、お前が必死で稼いだ金を使わずに済むように。しかしお前が納得しないと言ってな、一番安いビタミン剤を処方するように半年前に頼まれたんだ。今たまっている金をかき集めても、お前のいう薬代のせいぜい数日分にしかならんだろうが」
貧乏人を診る余裕はうちにもないんだよ、悪いな。そう言い切った医師の言葉は、椅子を蹴るようにして医院を飛び出したエミールの耳には届かなかった。
悔しさや虚しさ、悲しさばかりが心を満たしていた。視界が滲むのは吐いた途端に白く染まる息のせいか。悲鳴をあげる肺と足を縺れさせようとする雪が煩わしい。今はとにかく早く家に帰らなければいけないのに。
「母さん!」
やっとの思いで寝室の扉を開けると、その声に応えるようにして母はゆっくりと目を開いた。その様子に泣きたいほどの安堵を覚えつつベッドへと歩み寄れば、母は困り顔で微笑んでくれた。
「どうしたんだいそんな顔して。ハイルング人であることが、バレてしまったとか?」
「違うよ、そんなヘマもうしない」
「ふふ。 エミール、私はお前がハイルングの力を持って生まれてくれて、良かったと思っているんだよ」
薬のことを問い詰めようと思っていたのに、エミールは母の言葉に虚を突かれてしまった。そんな、そんなはずはない。だって母さんは、俺の力のせいでこんな目にあっているのに。
「だって、あの事故の時も、生きていてくれた。それにね、お前には、私の病気も移らないもの。お蔭で一緒に居られるんだから」
「……母さん」
「お前はこの先も生きていく。……ねえ、だから、エミール。どうか、幸せに、ね」
吐息のような言葉を最後に、母はゆっくりと目を閉じていった。
表情は眠っているように安らかだったが、その瞳が二度と見られないだろうことを頭の片隅で理解する。
たった一人きりになってしまった世界で、エミールはその現実を受け止めることができずにしばし立ち尽くしていた。
母の死後、重い心持ちのまま棚の中を整理していると、奥の方に金の入った封筒を見つけた。結構な額が入ったそれが、母が命を削って貯めてくれたものだということは一目で理解できた。
なぜだ。なぜ母さんは死ななければならなかったんだ。
そんな事ばかりが脳裏を駆け巡って、頭の中を真っ黒に塗りつぶしていくかのようだった。
母は復讐だけはするなと言った。けれどこのやり場のない怒りをどうしたらいい? 王宮から追いやったアルーディア人至上主義者の狂った王族ども、侮蔑の目を向けてきたリスヴェルの工場の同僚たち、一切助ける素振りを見せないこの町の人々、そして医者。
そんな奴らに足蹴にされて、どんなに働いても金が稼げないこの国で、俺は一体どうすれば良かったんだ。
この国はおかしい。こんな国は滅んでしまえばいい。脆弱なくせに保身にだけは手段を尽くす性根の腐った人間共々、燃やし尽くされて然るべきだ。
黒くとぐろを巻く怨嗟は、しかし思わぬきっかけで昇華されることとなる。
道端で座り込むだけの日々に訪れたのは王宮からの使者であった。
使者が言うことには、今度ハイルングの落とし子を秘密裏に集めて工作員の集団を作ることになったらしい。出自も確かなエミールに、その中心メンバーとなって欲しいとのことだった。
差別するだけでは飽き足らず今度は利用するつもりか。エミールは苦笑を溢したが、同時に脳裏を閃くものがあった。
こうして国の根幹に足を突っ込むことができれば、いつかこの国を潰すチャンスも巡ってくるのではないか。
思い付いてしまえばもうその事しか考えられなくなった。色を失っていた世界が赤く燃え、エミールを奮い立たせていく。
そう、これは復讐などではない。ただ俺がこの腐りきった国が気に入らないから潰したいだけだ。母のためではなく、俺自身が許せないからそうしたいのだ。
熱に浮かされたように二つ返事で頷き返したエミールは、その日のうちに忌まわしき街を後にしたのだった。