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妖精と黒獅子  作者: 水仙あきら
第三章 あの日の約束に真実の夢を見る
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9

 幌の隙間に流れ去る景色は相変わらず緑一色であった。

 いったいどこまで来てしまったのだろうか。セラフィナは代わり映えしないその色を見て、一つ嘆息を零した。

 連れ去られてから既に五日が経過した。

 その間ずっと車体を変え馬を変え、夜を徹して走り続けているのだ。ずっと馬車の中にいるセラフィナはまだ良いが、交代で御者を務める彼らの疲労は並ではないだろう。疲れないのか聞いてみたら、エミールには思い切り睨まれてしまったのだが。

 五日もの間、セラフィナは脱走することができずにいた。何せ監視の目が厳しいのだ。関所を通る際は猿轡を咬まされて木箱の間に押し込まれ、馬の交換の時は絶対に一人が見張りにつく。トイレは許可が出た場所でしか利用できず、どれも窓のない造りをしていたのには思わず閉口した。

 どうやら一見大胆なこの計画は、かなり緻密な計算と調査をもって実行に移されたらしい。そう気付くと同時にフランシーヌの執念が浮き彫りになった気がして、セラフィナは一人暗澹たる思いを抱えるのだった。


「エミール様、今はどの辺りまで来ているのですか?」

「ほんの少しで国境というところだ」


 エミールはちらりとこちらを見ると、また直ぐに視線を逸らしてしまった。彼ら三人の工作員達は優秀で、疲労の色も見せなければ余計な口も一切きかない。エミールもまたあの一件以来特に絡んでくることも無く、セラフィナを殆ど空気のように扱っているのだった。

 それにしてももう国境まで来てしまったとは。確かアルーディアから嫁いでくる際はヴェーグラントに入国してから十日程度かかったはずだから、ここまでの速さとなると追っ手が掛かっていたとしても、追いつくことは至難だろう。


「エミール様もこのまま一緒にアルーディアまで行かれるのですよね」

「行かない」


 セラフィナとしては他愛のない話題のつもりだったので、首を横に振られて驚いてしまった。彼はまだヴェーグラントでの仕事が残っているのだろうか。


「では、どうなさるのです」

「……はあ。そんなことあんたに言ってどうなるんだよ? いいからアルーディアに帰った後の事でも心配しとけ」

「そういうわけにもいきません。エミール様、ずっと苦しそうにしていらっしゃいますから」


 セラフィナの指摘は図星だったらしい。エミールはキッと眦を吊り上げると、繊細な容貌を怒りに染めてみせた。


「あんた、大概おめでたい奴だな。普通自分のこと犯そうとした奴を心配するか?」

「それとこれとは関係ありません。私はただ昔お世話になったエミール様の心配をしたいだけです」

「……いい加減にしろよ」


 その押し殺した怒声には、明らかに悲痛な色が混じっていた。怒り心頭という表情をしているのに、その藍の瞳が悲しみを映しているように見えるのは何故なのだろうか。


「あんたはただ開戦の火種になりさえすりゃそれでいいんだ。なんでそんなに他人の心配ばっかしてんだよ? あんたもアルーディアでは虐げられて来たんだろ。だったらあんな国、滅んだほうがいいって、思っ」


 エミールは喋りすぎたと言わんばかりに口を手で抑えた。セラフィナは今彼から溢れ出た言葉を反芻し、違和感に突き当たる。


「あんたも、と仰いましたか?」

「……察しがいいのも困る」


 エミールは忌々しげに目をそらすと、諦めたように体から力を抜いたようだった。その目に先程までの敵意は無く、彼は投げやりとも取れる視線でセラフィナを見遣る。


「そうだよ、俺はアルーディアが大嫌いだ。王族、貴族、平民、そして国家制度そのもの。あの国の全部がな。だから戦争に持ち込んで、滅んじまえば良いと思ってんだ。その機会を伺うために、スパイにまでなってな」

「滅べば、いい……?」


 ガラス玉のように空虚な藍色がこちらを見据えている。その瞳に破滅の色を感じ取って、セラフィナの背筋を冷たい汗が流れ落ちた。


「今のあの国の惨状を知ってるか? 戦争ばっか繰り返して国庫はすかすか、狂信者の女王とその一派に国民全員が振り回されてる。街は失業者で溢れ、行き倒れが裏路地に転がっててさ。そんな状態でも女王は戦争に勝てると思ってんだから、やっぱどっかいかれてんだろうな。俺はそんな有様を見て、ザマーミロと思っちまうんだ」

「どうして、そんなこと」

「嫌いだからって言ってるだろ。貴族、商人、労働者……自分の事しか頭にない連中ばっかりで、弱い者から死んでいく。圧政に抵抗もせず手の届く範囲で貶め合い、私腹を肥やした連中のところにだけ金が集まってくる。そんな国、失くなったほうが良いと思わないか」


 エミールはただこの国が嫌いなのだと言う。しかし、そう思うに至るには何か悲しい出来事があったのではないか。セラフィナにはそう思えてならなかった。

 エミールが抱える闇が諭したくらいで消えるような生半可なものでは無いことは、目を見れば十分に伝わってくる。その底知れなさはセラフィナに恐怖をもたらしたが、同時に胸を締め付けるような苦しみを味わうことになった。

 彼が昔からセラフィナの活動を心良く思っていなかった理由を、理解できてしまったから。


「アルーディアがお嫌い、ですか。それでは、私の公務の様子はさぞかし空々しくお見えだったのでしょうね」

「ああ、本当にな。あんたのしてる事はあの腐った国を変えるには至らない。嫁ぐまでしか続かない、ただのその場しのぎに過ぎないんだよ」

「ええ、おっしゃる通りです」

「だから、わからない」


 押し殺したような掠れ声に顔を上げると、エミールは苦しげに眉を寄せて藍色の瞳を揺らしていた。睨みつけるような強さは無くただ問いかけるようなその視線に、セラフィナは自身の胸が軋む音を聞いた気がした。


「なんであんたはそんなに優しくいられるんだ? あんたは前国王とフランシーヌのせいで散々な目にあったじゃないか。王族なんて、貴族なんて全員死んじまえって、何で思わないんだよ? 戦争が起こって民が死ぬとあんたになんか不都合があるのか? あんたが体を差し出してまで守る価値なんて、あのクソみたいな国にあるのかよ……!」


 その言葉はまさしく慟哭であった。

 昔からずっと不機嫌な表情しか見せなかった彼の心内に今ようやく触れたような気がして、セラフィナはその悲痛さに縛られた手を握り込む。


「私は、ただ恵まれていただけですよ。本当にそれだけなんです」


 たしかに疎まれていたし、離宮に閉じ込められ、陰口を叩かれ、両親の死に目にすら会えなかったとなると、人からすれば酷い人生に見えるのかもしれない。

 けれど、きちんと衣食住があって、何よりも助けてくれる人たちがいた。ベルティーユにレオナール、街人たちに、そしてエミールも。その一つ一つの出会いが今のセラフィナを形作っているのだ。


「私にはアルーディアにも大切な思い出があります。確かに許せないこともありますが、その思い出ごと焼き払ってしまえばいいだなんて、そんな事を思えるはずがありません」


 エミールの言っている事は、必死で善良に生き続ける人を無視した考えだ。いくらアルーディアに対して憎しみを抱いていたとして、その全てを滅ぼして良いはずがない。強い意志を持って言い切ると、彼は呆れたように笑った。


「そうかい。やっぱあんたはおめでたくて、お優しいな」

「あと、いくら私をお嫌いとはいえ、エミール様がそんな事をする方とは思えませんでしたから」

「あんた、そんなんで今までよく生きてたな」

「たくさんの方に助けていただいたお陰ですね。エミール様には本当に無いのですか? 今まで生きてきた中で、優しい思い出の一つも」

「さあな、忘れちまった。けどわかったことがある」


 エミールは自嘲を一つ零すと、揺れ動く馬車の中ですっと立ち上がった。

 その藍色の瞳に決意の色を感じ取って、何をするつもりかと思わず立ち上がろうとしたが、後ろ手に縛られていては無理なことだったらしい。力なく床に膝をついたセラフィナは、それでも彼を必死で見上げた。


「結局、俺は運の悪いかわいそうなやつなんだろうな。でも、なんでかな。あんたが俺の立場だったら、それでもまっすぐ生きていった気がするんだ。そこまでわかっていて、俺は今まで積み上げて来たことを捨てられない。目的を遂げるまでやめられないんだ」

「エミール様?」

「じゃあなお姫様。せいぜい頑張れよ」


 それは一瞬の出来事だった。エミールは今までで一番優しげな笑みを残して、馬車の外へと体を躍らせたのである。

 慌てて彼が消えた幌の隙間まで体を寄せて、肩で捻るように隙間を大きくして外を見る。そこには既に彼の痕跡はなく、どうやら仕事に向かったことが察せられた。

 

 この馬車は間も無く国境へと辿り着く。アルーディアに入ってしまえばもう助けは期待できない。

 ここからは本当にたった一人だ。それでも絶対に屈しはしない。

 セラフィナは決意も新たに両手を握り締めるのだった。


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