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「恐らくセラフィナ様は女王陛下の手の者に拐かされたと考えられます。僕は朝になっても現れなかったセラフィナ様に諦めて帰ろうとしましたが、この屋敷が騒がしくなった事に気付いて、もしやと」
レオナールの話が終わる前に、ランドルフは立ち上がって応接間を出て行こうとした。
しかしそれを制する者が一人。刺すような殺気を漲らせたランドルフに怯む事もなく、その分厚い肩を掴んだのはルーカスだった。
「兄さん、どこに行かれるおつもりですか」
「決まっているだろう。セラフィナを助けに行くんだ」
「お一人で? 無茶ですよ。相手は既にかなりの距離を稼いでいるでしょう。今から行っても追いつきませんし、どの道を辿ったかもわからないんですよ」
ルーカスはやけに冷静だった。いつになく理知的なその瞳を見返したランドルフは、底冷えする程の怒りで弟を睨みつけた。
「知ったことか! ここで手をこまねいているよりはマシだ。こうしている間にも、彼女は」
レオナールによれば、セラフィナは開戦の引き金とする為に、フランシーヌ一派に連れ去られたらしい。
国内の状況や連れ去りという手段に出たことから、恐らくは国民を扇動する檄文を読ませるつもりだろうとのことだった。
相変わらず自国の王女を開戦の引き金にしようとするその卑劣さに腑が煮えくり返るが、まず彼女が危機的状況にあることは間違いなく、どんな目にあっているかと思うといても立ってもいられない。一刻も早く助け出さなければと、その思いだけが今のランドルフを駆り立てていた。
しかし誰しもが凍りつくようなその視線にも堪えた様子のないルーカスは、場違いなほど余裕のある笑みを浮かべて見せる。
「俺に考えがあります。陛下の御前に参りましょう。恐らく兄さんに下す命令をお持ちのはずです」
セラフィナの危機であると同時に、今は国家の危機でもある。早朝ではあるが構うこともなく宮殿へと向かうと、執務室には既にディートヘルムの姿があった。彼はアイゼンフート兄弟をいつもの不敵な笑みで迎えたが、その後に続くレオナールの姿を認めると、意外そうに片眉を上げた。
「発言を許す。面を上げよ」
「は。ご尊顔を拝謁賜り恐悦至極に存じます、陛下。アルーディア国第一王女ベルティーユ様付き近衛騎士、レオナール・ブランシェと申します」
「アルーディアだと? ふむ、しかもルーカスまで一緒か。どうやら相当に厄介なことが起きたらしいな? アイゼンフート侯」
「……は」
正直言って、ランドルフは一刻も早くセラフィナを助けに向かいたい気持ちで一杯だった。しかしルーカスが余りにも真剣だったのと、ディートヘルムに助力を求めるのも必須と自身に思い込ませることによって、何とか走り出そうとする足を押さえつけているのだ。
ランドルフは姿勢を正すと、事の次第を説明した。レオナールの見解も交えつつ簡潔に話していくと、自らの甘さをもう一度見直すことになり、もう頂点に達したと思っていた怒りが更に募っていく。一通りの説明を終えた時には、握りしめた拳から血が滲んでいた。
「状況は理解した。ご苦労だったな、アイゼンフート侯」
「いいえ陛下。私は此度ほど自身の不甲斐なさを痛感したことはありません。陛下から彼女を守れとの命を頂戴していたのにも関わらずこの体たらく、謹んでお詫び申し上げます。事を終えた暁にはどのような処罰もお受けいたします故、今は……!」
「ふむ。アイゼンフート侯、お前は結婚式の時に余に願い出た事を覚えているか? セラフィナの自由のためならどのような戦場にでも立つと言った、あの時のことを」
ディートヘルムの言葉に横の二人が息を飲んだ。もしかすると彼らには極めて愚かな願いに聞こえたのかもしれない。しかしランドルフにとっては自らの心を裏切り、勅命を無下にし、それでもなお叶えてやりたかった唯一の願いだ。それを忘れるはずもない。
「もちろんにございます」
「ならばよし。此度のことはお前だけのせいではない。何を血迷ったかわざわざ安全な屋敷から出たセラフィナにも問題はあろうし、悪いことに敵の手腕が我々の包囲網を上回ったというだけのことよ。まこと不甲斐ないことだな、ルーカス?」
「は。申し開きのしようもございません」
「それは余とて同じことよ」
ディートヘルムとルーカスは目を合わせて苦笑している。二人の間に妙な信頼関係を見て取って、ランドルフは怪訝な顔をしてしまった。
そもそもルーカスはほとんど領地から出てくることはないはずなのに、在位二年の若き皇帝と面識があるものだろうか。それに包囲網を上回られて不甲斐ない、とは一体どういう意味だ。そもそもここへ来たのもルーカスの導きの結果であり、その真剣な表情の理由も解るだろうと思っての事なのだ。
疑問を隠そうともしないランドルフの表情に、ディートヘルムはふと笑ったようだった。
「ルーカス、戸を開けてやれ。恐らくは奴も待機している」
「は」
ルーカスが恭しく扉を開けると、果たしてそこには情報部長マイネッケ大佐の姿があった。彼はいつもの慇懃な笑みを浮かべたまま入室し、膝をついて最敬礼の姿勢をとった。
「相変わらずの地獄耳よな。マイネッケ大佐」
「はい。お呼びかと思い馳せ参じました、陛下」
ランドルフはその流れるような登場にあっけにとられていた。本当にどこまでも神出鬼没な男だが、ディートヘルムが今入室を許したということは、彼はこの件に大いに関わっているという事になる。
「調査はどうなっている」
「粗方調べ尽くしてございます」
「状況は把握しているな?」
「ええ、扉の外で聞いておりましたので」
堂々と盗聴を申告してくるとは、この男は一体どのような神経をしているのだ。
ランドルフは頭痛を覚えて額に手を当てたが、ディートヘルムは全く気にしていない様子で話を進めていく。もしかしてこれがスパイの標準行動なのだろうか。
「ルーカス、依頼していた仕事は」
「は、本日報告に伺う予定でした。情報は既に取得済みでございます」
「ご苦労。良くやってくれた」
「は! 光栄にございます、陛下」
ルーカスは普段の飄々とした調子を打ち消して、軍人らしく敬礼をして見せた。
仕事? 皇帝陛下が、ルーカスに? ランドルフは最早話についていけずにただ呆然と成り行きを見守っていたのだが、しかしこちらを振り返った弟が申し訳なさそうに微笑んでいるのを見て、脳裏に閃くものがあった。
先程の様子からルーカスはマイネッケとも知り合いらしい。つまり、それらの意味するところは。
「ルーカス、まさかお前は……情報部員、なのか?」
それは問いかけではあったが、ほとんど確信に近い響きを持っていた。ルーカスは気まずげに目をそらすと、小さく頷いたのだった。
「はい。俺は歩兵大隊参謀と、陛下直属の情報部員の二つの顔を持っているんです。兄さん、黙っていて申し訳ありませんでした」
やはり本人の口から認められた衝撃は大きかった。何せ可能性を考えたことも無ければ、片鱗に気付くこともできなかったのだ。
驚き以外の感想が出てこないまま押し黙ったランドルフに、しかしディートヘルムは容赦なかった。
「アイゼンフート侯、これで役者は揃ったな。敵国の情報はルーカスとレオナールから、作戦概要はマイネッケ大佐から得ればいい」
ディートヘルムはニヤリと壮絶な笑みを浮かべた。その秀麗な顔がまるで獲物を目前にした悪魔のような表情を形作る様は、いっそ壮観であった。
「お前の願いを果たす時が来たという事だ。この布陣をもってしてアルーディアを攻め落とす。セラフィナを救う手立ては最早それ以外に無い」
それはあまりにも突然の開戦宣言だった。ディートヘルムはゾッとするほど楽しそうな声で告げる。
「お前には最前線に向かってもらうぞ。黒獅子将軍」
*
作戦会議を終えて宮殿を出ると、既に日が天辺に差し掛かる頃になっていた。
レオナールは会議終了後にディートヘルムに残るよう言われて宮殿に残った。
自国を攻め落とす作戦の概要を聞かされた近衛騎士の心境は察して余りあるが、彼はこの計画に乗るときっぱり宣言したのだ。
彼は仕える姫君への忠義を最優先にしているらしく、今は謀反の疑いが掛かったベルティーユがとにかく心配との事で、彼女の命を保証することを条件に寝返ることをを承諾したのである。今頃は現在のアルーディアの状況について細かく話をしている頃だろう。
ランドルフとルーカスは一度屋敷へ帰り、準備をして出発するということになった。馬車に乗ってから無言で情報を整理し続けていたランドルフだったが、ルーカスが気まずげに俯き続けているので声をかけることにする。
「ルーカス」
「……はい」
まるで叱られるのを待つ子供の様な表情だ。ルーカスは低い声で返事をすると、それでも恐る恐る目を合わせてくれた。
「いつから情報部に所属していたんだ」
「二年前、です。陛下の即位と合わせて直属の情報部隊を作ることになったと、マイネッケ大佐から話を頂きまして」
ディートヘルムが私設の情報部隊を有しているのは気付いていたが、まさか弟がそれに属していたとは及びもつかなかった。
戦ごとに関して並々ならぬ感の良さを発揮するランドルフをして気付かせなかったのだから、ルーカスは恐らく優秀な工作員なのだろう。
「そうか。朝から多くの出来事が重なって、処理しきれないが……まあ、驚いたな」
「……すみません」
ルーカスは沈痛な面持ちで膝の上の握りこぶしに視線を落とした。
まったく、やはりこの男も人の良いところがある。仕事なのだから堂々と家族をも欺けば良いのに、心の中では罪悪感を感じていたのだろう。久しぶりに見る弟のしおらしい様子に、ランドルフは思わず苦笑をもらしていた。
「いや、謝るのは私の方だ」
「……兄さん?」
「今まで遊んでばかりいると思っていたが、あれは仕事をしていたんだな。博物館でたまたま会った時も仕事の最中だったんだろう。違うか」
軍の仲間と歓楽街に出かけ、仮面舞踏会に出席しては一夜の恋に興じるルーカス。
もともと遊ぶのが好きな男ではあったが、思えばより派手になったのはちょうどディートヘルムが即位した頃だった。女を取っ替え引っ替えして一度も紹介しようとしないのも遊びゆえかと思っていたのだが、つまりそんな女は初めからいなかったのだろう。
遊びと称して歓楽街で情報を収集し、舞踏会に出席した裏で情報を渡す、それが諜報員の仕事なのだ。
「知りもせず説教をしたりして、悪かった。許せ」
ルーカスはランドルフのまっすぐな視線を受けて、やはり居心地悪そうにしていたが、ややあって苦笑をこぼした。その笑顔は近頃は見ることのなかった弟本来の素直な表情だった。
「そんな、謝ってもらうことなんて何一つありません。俺は楽しくてやってますし、結構性分に合うんです、この仕事。それに、たった一人の弟だから、心配してくれていたんでしょう?」
「……なんだそれは?」
たった一人の弟だから、という下りだけやけに強調した物言いに、ランドルフは含みを感じ取って目を細めた。確かに以前そんなことを言った様な気がする。相手は、たしか。
「義姉上が言っていたんですよ。戴冠記念パレードでのことだったかな。情けないことに俺がちょっと弱音を吐いてしまったんですけど、そしたら、兄さんが俺に仕事を任せられるから助かってると言っていたと教えてくれて。それで、自分には仲の良い兄弟に見える、なんて励ましてくれたんですよ」
今更の真実にランドルフは胸を突かれた。そうだあの時、ルーカスに手紙を出すと言ったら、彼女はとても嬉しそうに笑ったのだ。よほどルーカスと出かけるのが楽しかったのかと思ったのだが、実際は兄弟が仲良くするよう気を利かせてくれていたのか。
「良い子ですよね」
「…ああ。本当に、優しい人だ」
「このまま義姉上を戦争に利用させはしません。俺も微力ながら戦います」
「ああ。必ずセラフィナは救い出すぞ。必ずだ」
兄弟は頷きあうと、その後は無言で馬車に揺られ続けた。これからの戦いに想いを馳せ、大事なものについて振り返る時間は、実際よりもずっと長く感じられたのだった。
屋敷に帰ると、玄関にてエルマが仁王立ちで待ち構えていた。いつもの使用人のお仕着せではなく動きやすそうなワンピースにブーツ、ショルダーバッグという出で立ちの彼女は、ランドルフを認めるや否や猛然と走り寄ってきた。
「申し上げます! 旦那様、私をアルーディアまでお供させて下さい!」
エルマは優雅なカーテシーではなく軍隊式に腰を直角に折り曲げて、決死の覚悟といった様子で嘆願した。
この屋敷にレオナールを入れたことや今までの経緯から、どうやら既にセラフィナがアルーディアに拐われた事を察しているらしい。
四年前の戦では兵士だったという彼女の有能さを見せつけられ、ランドルフはどうしたものかと腕を組んだ。
「エルマ。気持ちはわかるが、此度は戦なのだ。退役した者を連れて行くわけにはいかん」
「兵士としてではなく、奥様の専属使用人としてお供させていただきたいのです。決して足手まといにはなりません。どうしても心配なのです!」
「駄目だ、強行軍になる。女の体力ではついて来れん」
「平気です! 私、戦の折には300kmを一週間で踏破したこともありますから。ですから、何卒!」
「え、何々? エルマは俺のことが心配で仕方ないって?」
押問答をする主従に割り込んで来たのは、既にいつもの調子を取り戻したルーカスだった。エルマはパッと顔を上げると、あからさまに迷惑そうな顔をした。
「これは参ったな。そんなに愛されていたとは知らなかったよ、エルマ」
「奥様のことが心配なんです。ルーカス様のことはどうでもいいです」
「照れなくてもいいんだよ。今なら君のこともっと教えてくれるのかな?」
「照れてませんし教えません」
ランドルフはこの二人が会話しているところを初めて見たのだが、エルマは迷惑がっているものの、随分と打ち解けているようである。まさか我が家の使用人にまで手を出していたとは、と一瞬思ったが、女遊びはカモフラージュであることが先程判明したばかりだ。ということは、つまり。
「またまた。でもアルーディアまで来てくれるなら、ずっと一緒に居られるね?」
そこでエルマは今初めて気付いたと言わんばかりに目を見開いた。一気に顔を青ざめさせた彼女は、錆びた音がしそうな動きでランドルフへと顔を向ける。
「だ、旦那様。ルーカス様も、ご一緒なのですか?」
「ああ」
短く答えてやると、エルマは強く息を飲んで何かと葛藤するように目を瞑った。ランドルフには彼女の中のせめぎ合いが手に取るようにわかる気がした。
「大丈夫、俺が君を守ってあげるから」
目つきを見るにエルマはお前のことを一番警戒していると思うが。
「君がいてくれたら心強いよ。俺もいつも以上の力が出せそうだ」
青ざめた顔色を見るにエルマの力は100%減退しそうだが。
「エルマ。やめておいたらどうなんだ?」
「い、いいえ! このようなことで揺らぐ覚悟ではありません!」
このようなこと呼ばわりされたルーカスは気の毒だが、それにしてもエルマは強情だった。顔色が悪いものの一歩も引く気は無いといった様子に、ランドルフは思わず感心してしまう。セラフィナに対してここまでの忠誠心を抱いていたとは若いのに大したものだ。
「仕方がない。少しでも遅れたら帰ってもらう。いいな」
「はい! 旦那様、誠にありがとう存じます!」
エルマはまたしても腰を直角に折り曲げると、後ろで事の成り行きを見守っていたディルクに報告をすべく駆けて行った。ディルクの視線に頷いて返してから、ランドルフも自身の身支度を整えるべく歩き始める。
だからこそ、背後で弟が苦笑気味に嘆息したことなど、知りようがなかったのだ。