7
まるで砂の中にいるように体が重い。この体調の悪さはまさしく力を使った後の後遺症だ。そう、たしかバルコニーから飛び降りて骨を痛め、さらにはエミールに腹を殴打されて。
そこまで思い出したセラフィナは、驚きに突き動かされるようにして目を開けた。するとそこに今しがた思い描いたばかりの人物を見つけて、注意深く声をかける。
「エミール、様……?」
久しぶりに見るエミールは相変わらず線が細く美しい面立ちをしていた。片膝を立ててその上に腕を乗せ、片足を投げ出す形で座り込むその姿勢は、美しいがどこか粗野な雰囲気のある彼にはよく似合っている。
「よく眠ってたな、あんた。みぞおちが効くのはハイルング人でも一緒らしい」
エミールは口元を歪めて笑う。どこか沈んで見えるその笑顔に、セラフィナは場違いにも「昔は笑うことなど一度も無かったのに」などと思ってしまった。最大の秘密が既に知られているという事にも今は危機感を抱けず、周囲を見渡して震える口を開く。
「この状況は一体……ここは何処ですか?」
どうやらここは幌馬車の中のようだった。座席などはなく、セラフィナは後ろ手に縛られてざらつく床に転がされている。細かな振動からはこの馬車がそれなりのスピードで走っているらしいことが読み取れた。
「さあな、街道だよ。そろそろ次の街で馬を交換する」
「街道……!?」
確かに木目の隙間から見える景色は森一辺倒で、どうやらブリストルから随分離れてしまったことが察せられた。セラフィナは青ざめ、自由にならない体をくねらせてなんとか座ることに成功する。エミールはその間も冷ややかな瞳でこちらを見下ろしていた。
「エミール様、どういうことですか? 何故こんな事を!」
セラフィナの至極真っ当な問いにも顔色一つ変えることなく、エミールはめんどくさそうにため息をついた。
「説明しなきゃしょうがねえか。お姫様、あんたはアルーディアに帰ってきてもらう。ヴェーグラントでひどい目にあって出戻ってきた、お気の毒な王女サマとしてな」
「な、何ですか? 意味が、よく」
「解んねえのかよ? 最初から言わないとダメらしいな。めんどくせえ」
エミールが何を言っているのかわからず、セラフィナは眉を下げる。その様子に彼は苛立ちを隠そうともせずに髪の毛をかき混ぜると、予想だにしない言葉を口にした。
「俺はフランシーヌのスパイなんだよ。あんたの護衛を務めてた、あの頃からな」
スパイ。彼が? まさか。
冗談のような台詞はセラフィナの頭の中を素通りして行ったのだが、エミールは容赦がなかった。
「おめでたい王女様のお守りなんざ俺の仕事じゃねえってのに、フランシーヌが監視しろって言うからな。ほんと、あんたの偽善者ヅラには虫酸が走ったもんだぜ」
エミールは心底吐き気がするとばかりにセラフィナを睨みつけている。
アルーディアにいた頃、彼は厳しい態度を取りつつも理不尽なことは一度も言わなかった。嫌われているのは知っていたけれど、その瞳がまっすぐである事は間違いないと思っていた。信じていたのだ。
「フランシーヌはヴェーグラントとの開戦を望んでる。俺はあんたをわざわざ刺しに行ったりして、随分骨を折ったんだぜ?」
「刺し、に? ……あ!」
セラフィナの脳裏に戴冠式の夜のことが鮮明に蘇った。そうだ、倒れる直前、犯人の男の顔に既視感を覚えたのだ。言われてみれば薄ぼんやりとしたその印象は目の前の男に合致する。それにしてもあれがまさかエミールだったなんて、どうして気が付かなかったのだろう。
「変装してたんだよ。目の形も糊やなんかで変えられる」
「で、ですが……わざわざ刺しに、とは、どういう」
「皇帝夫妻を襲えばあんたは必ず庇う。そしたらあんたがハイルング人だということが露見して、アルーディアとヴェーグラントの関係は必然的に悪化する。開戦の火種には十分だ」
エミールが意志を持って自分を刺した。その事実は思ったよりもセラフィナに衝撃と恐怖をもたらしていた。
ジリジリと後退するセラフィナに、エミールは暗く笑う。その酷薄な笑みは今まで一切目にしたことのないものだった。
「今回の計画は随分と面倒で強引なものだが、成功すれば効果はでかい」
「強引な、計画……?」
「ああ。可哀想な出戻りのあんたが、アルーディア国民に向かってスピーチするのさ。『私を酷い目に合わせたヴェーグラントを、コテンパンにぶちのめしちゃって!』ってな」
「な……!?」
まさか、そのために自分を攫ったというのか。わざわざスパイを密入国させ、馬と物資と人員を整え、時期を見定めて。それはもはや、狂気だ。フランシーヌはどうしてそこまで。
「あんた人気だけはあるからな。いまも国民の間じゃあんたへの同情の声で溢れてる。美しくお優しいお姫様が皇帝ディートヘルムに蔑ろにされて悪逆非道の黒獅子将軍に嫁いだってのは、もはや定番の噂話だぜ?」
「そんな、どうしてそんなことに? 私は酷い目になんてあってません! むしろ良くしていただいていて」
「事実なんて関係ねえよ。これは開戦の火種にするために女王がばら撒いた噂なんだからな」
「何て事を……! で、ですが、私はそんなスピーチなどしません! どれだけ殴られ脅されようと、私は一言も口をききませんから!」
「……へえ?」
エミールは一瞬、さも愉快そうに口元を歪めたようだった。しかしセラフィナにはなぜかその表情が泣きそうに見えて、どうしてそんな事を感じたのかわからず動揺してしまう。だから次に彼が取った行動には、咄嗟の反応すらできなかった。
肩を乱暴に押されて後頭部を床に打ち付けた痛みに呻いた時には、既にエミールに馬乗りにのし掛かられていた。至近距離にある藍色の瞳を見つめ、そこから感じ取れる明確な怒りに息を飲む。
「だったら、ここはあんたの女としての尊厳に訴えかけるのが一番かな」
「何を……」
「まあそりゃ、ハイルング人だったら怪我なんかどうでもいいよなあ? けど無理矢理犯されるとしたら……どうする?」
エミールは一切揺らぐことのない無表情のまま、セラフィナの胸元のリボンに手をかけて引き抜いてしまった。後ろ手に縛られたままでは何もできず、何よりもこの信じ難い状況についていけない頭が拒絶反応を起こし、体を動かす事をやめてしまったかのようだった。
ボタンも外され、胸元を覆うものが下着だけになった段階で、セラフィナはようやく我に返って鋭い声で叫んだ。
「エ、エミール様っ! おやめください!」
「だったら国民に向けた檄文を読むと誓え」
「嫌です!」
「な…っ」
セラフィナが間髪入れずに即答するので、エミールは面食らったように動きを止めた。
そうだ、戦争の引き金なんかにならない。それこそどんなに屈辱的な扱いを受けても、絶対にそれだけはしない。
何故なら、二つの国には大事な人たちがいる。多くの国民がいる。そして、戦争が起これば真っ先にその身を前線へと向かわせる、心から愛した人がいるのだ。
一番最善と思って選んだ道が結局はこんな結果になってしまうなんて。レオナールはがっかりしてそのまま帰ってしまっただろうか。姉上は無事だろうか。屋敷に残してきた人たちは——ランドルフ様は、私のことを心配しているだろうか。いや、そんなわけない。私は勝手に出て行ったのだから。
セラフィナの脳裏に大好きな笑顔が浮かぶ。
戦争の引き金になるのは絶対に嫌だが、今から起こるであろう事も到底受け入れられるものではなかった。だって、迷惑がられていたと知ってなお、ランドルフのことを愛しているから。
怖い。怖くて怖くて仕方がない。さっきから肌が粟立って寒気すら感じるし、みっともなく体が震えているのもわかっている。けど、それでも。
「私の覚悟は変わりません。どのようなことをなさっても無駄ですが……あなたがそうしなければならないのならどうぞご自由に」
挑むように言い切ってからしばし、エミールはセラフィナを親の仇でも見るような顔で睨みつけていた。
しかしやがてめんどくさそうに舌打ちすると、腕一本でセラフィナを引き起こし、適当な手付きでボタンとリボンを締めなおしていく。
「つまんねえ女。萎えたわ」
そう言い捨てたエミールは、やはりどこか泣きそうな顔をしたように見えた。
傷つけられたのは間違いなくセラフィナの方なのに、なぜそんな苦しそうな顔をするのだろう。彼が何を考えているのか見当もつかないが、やはり言動以上の何かを抱えているような気がしてならなかった。
「もう街に着いたらしい。あんたはその阿呆ヅラを引き締めておけ」
言われてみれば確かに馬車は減速を始めていた。外を確かめる前に馬車は動きを止め、二人の男が幌を持ち上げて顔を覗かせる。彼らは一様に隙のない目つきをしていて、恐らくはエミールの同僚だろうと思われた。二人のうちの一人が幌の内部を見渡し、エミールに事務的な響きでもって声をかける。
「アンディゴ、お前も食事を取ってこい。今は俺が見ておく」
「ああ、頼むぞ」
一瞬誰に話しているのかと思ったが、エミールが何の違和感もなく答えたのを見て首を傾げる。アンディゴ、ではなく、彼はエミール・ペルグランという名前だったはずなのに。
「エミール様? アンディゴ、とは」
「俺のスパイとしての呼び名だよ」
エミールは忌々しそうにセラフィナを睨みつけつつも、一応答えは返してくれた。アンディゴとは藍色のことだから、恐らくは彼の瞳の色から取ったのだろう。
「で、では……エミール、というのは、本名ですか……?」
「俺に本名なんて無い。潜入用の偽名に決まってる」
エミールの藍色の瞳はどこまでも冷え切っていた。彼は最早興味もないと言わんばかりに目をそらすと、そのまま幌を出て行ってしまう。
彼がいなくなった途端、今まで信じていたものが崩れ去る気分を味わって、セラフィナは俯いたきり顔を上げる気力も無くなってしまった。
こういうのを裏切りというのかもしれないが、彼はそもそも味方などでは無かったのだし、責めるのもお門違いなのだろう。けれどあの頃の思い出が全部嘘だと言われてしまったら、やはり悲しまずにはいられないのだった。




