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「奥様はすでにお眠りになっておられました」
「そうか、ご苦労だった」
「はい。失礼いたします」
エルマが静かに一礼して退室していくのを待って、ランドルフはソファに深々と座り込んで溜息をついた。
静かな自室で一人黙り込んでいると、やはり思い出されるのは先程のセラフィナの様子。思えば彼女から拒絶されたのは初めてのことだった。女子供には怯えられるのが常のランドルフにとってはあのような態度こそが当たり前で、他の誰に疎まれても何も感じなかったはずなのに。
払われた右手をぼんやりと眺める。物理的には何の力もなかったはずのそれは、銃弾を食らったのかと思うほどの痛みとなって心臓を貫いていた。
「大概女々しいな、私も」
口に出してみると思ったよりも自嘲的な響きになってしまい、ランドルフは再度嘆息した。また拒絶されたらと思うと怖くなり、結局エルマに様子を見に行かせるなど、泣く子も黙る黒獅子将軍のすることではない。
ランドルフは頭を横に振ると、緩慢な動作で立ち上がってベッドに横たわった。
やはりセラフィナの様子は明らかにおかしかった。何かしてしまったのなら謝らなければならないし、明日も体調不良が続く場合はベルヒリンゲンに診てもらったほうがいいだろう。今夜はとりあえず寝て、明日の朝一番で様子を見に行かなくては。
目を閉じると、最後に見たセラフィナの顔が脳裏に浮かんでくる。手を払った後、彼女がひどく傷付いた表情をした様に見えたのは、自分に都合のいい気のせいだったのだろう。
自室で眠るのは随分と久しぶりだ。セラフィナに触れないように血を吐くような我慢を重ねてきたにも関わらず、こうしていざ一人寝を試みると空虚さばかりがまとわりついて、しばらく寝付くことができなかった。
ざわざわと騒がしい庭からの音で目を覚ました。
見れば時刻は午前五時半、暗闇も明けきらない時間帯である。尋常ではないその気配にランドルフは素早く普段着に着替え、部屋を出ようとしたところでドアが激しくノックされた。
「旦那様、ディルクでございます!」
「入れ」
ディルクは血相を変えて飛び込んできた。彼は寝巻きにガウンを羽織っただけの姿で、なにやら相当慌てているようだ。
「だ、旦那様大変でございます! 裏口を守っていた警備兵が昏倒した状態で発見されました……!」
「何だと!?」
その報告に、ランドルフは色をなくした。兵が倒されたということは、この屋敷に何者かが侵入した可能性があるということになる。それは、つまり。
殆ど反射的に部屋を飛び出していた。後ろからディルクの驚きの声が聞こえてきたが構うことではない。短い距離を疾走したランドルフは、目的の扉にたどり着くと、ノックもせずに勢いよく開け放った。
セラフィナの部屋はしんと静まり返っていた。ベッドに身を休めているはずの妻の姿が無いことを確認し、目の前が真っ暗になる気分を味わうこととなる。
「セラフィナ! いないのか!?」
後から追いついてきたディルクも事態を察したのか、青ざめたままふらりと部屋に入ってくる。ランドルフは突き動かされるようにしてセラフィナの姿を探した。風呂場、バルコニー、隣の寝室、果てはクローゼットの中まで。しかし彼女の姿はどこにもなく、確かめるように触れたベッドは冷え切っていた。
「ディルク、皆を起こしてこい! 屋敷中を探す必要がある!」
「は、はい! 畏まりましたぞ!」
ディルクは泡を食って部屋を出て行き、ランドルフも後に続いて飛び出そうとした。
しかしふと机の上に置かれた手紙の存在に気付く。薄暗がりに存在を主張する白の上、見覚えのある指輪が置かれているのを見て、ランドルフは全身の血が下がっていくのを感じた。
嫌な予感に追い立てられるようにして手紙を手に取る。封筒には見慣れた美しい字で「ランドルフ・クルツ・アイゼンフート侯爵様へ」と書かれていた。
そしてその手紙の内容に、ランドルフは今まで一度も感じたことのないほどの衝撃を受けることになった。
ランドルフ・クルツ・アイゼンフート侯爵様
最後のお別れをと思いペンを取っています。
姉の迎えが参りましたので、私はアルーディアに帰ることにいたしました。
今はただ、あなた様にこれ以上の迷惑をかけなくて済むのだという事実に安堵する気持ちです。
今までこれ以上ないほど良くしてくださって、本当にありがとうございました。ここでの暮らしは私にとって身に余るほどの幸せでございました。何一つお返しできないまま立ち去る私を、どうかお許しください。
最後になりましたが、貴方様に幸多からんことを遠方よりお祈り申しあげております。
セラフィナより
読み終えた瞬間、ランドルフは手紙を握りしめたまま駆け出していた。
途中で起き出してきた使用人達とすれ違ったが今はどうでも良く、無我夢中で廊下を走り抜けていく。
何故。その思いだけが脳内を巡り、頭が爆発しそうだった。
セラフィナ、お前は。やはりここでの暮らしより選びたいものがあったのか。ずっとずっと、その何かに焦がれていたのか。出ていくことを相談できないほどに、私は信用に値しない存在だったのか。
手放すことを前提としていたのにも関わらず、いざ失ってみればこんなに狼狽するとは情けない話だが、今は自分のみっともない思考にすら考えが及ばなかった。ランドルフは鍵を開ける時間すらもどかしく玄関を飛び出し、今度は前庭をまっすぐ走る。
そのまま目にも留まらぬ速さで門を抜け、そこでようやく足を止めた。朝日に染まりつつある街の中、そこにセラフィナの足取りを感じ取れるものはどこにもない。
当然だ、彼女は自ら出て行ったのだから。途方にくれるとはまさにこのことだった。突然すぎる別れに最早悲しみすら湧いてこない。
何も考えられないまま立ち尽くす。しかししばしの間をおいて、通りの向こうから一人の男が歩いてくることに気付いて、ランドルフは警戒して目を細めた。
こんな朝早くに貴族の邸宅が立ち並ぶこの界隈を一人歩きする者などそうはいない。何よりその男はどうやらこちらを注視しているようだ。
近付いてくるにつれ男の姿形が明らかになってきた。乱れた焦げ茶色の髪、ハの字に下がった眉。年の頃は二十代半ばといったところか。細身ながら鍛えられた体つきと隙のない歩き方からは、何かしらの武芸を身につけていることが見て取れた。
「何者だ」
低く唸ると、男はびくりと身をすくませて疲れ切った顔を更に白くした。いかにも気弱そうな反応に、今は気を使えるほどの余裕が無い。ランドルフはますますをもって表情を険しくすると、それでも男が答えるのを待って腕を組んだ。
「わ、私はレオナール・ブランシェと申します。アルーディア国第一王女ベルティーユ様付きの近衛騎士を務めております」
震える声で述べられた言葉は、ランドルフの冷静さを奪うに十分なものだった。問答無用でレオナールの胸倉を掴みあげると、地を這うような低音で問い詰める。
「どういうことだ。貴様らがセラフィナを連れ出したはず。それがなぜ未だにこんなところに留まり、のこのこと私の前に姿を現す」
「ひえ……っ! も、もうしわけ、ありませえええん!」
「私は謝罪を聞きたいのではない。どうしてなのかと聞いているんだ」
「うぐっ、す、ませ、息が……僕は、話を……」
「はいストップ」
場の空気をぶち壊す陽気な声がして、レオナールの胸倉を掴みあげる腕に誰かの手が置かれた。問い質す視線そのままにその手の持ち主を見やれば、そこには苦笑顔のルーカスがいた。
「おお怖。兄さん、これじゃ声も出ませんよ。放してあげたらどうです?」
そう言われてやっとレオナールの足が宙を浮いていることに気付く。手の力を緩めると、彼は地面に落ちるようにうずくまって、胸を押さえて咳き込んでしまった。
「冷静じゃありませんね。兄さんらしくもない」
ルーカスの指摘は尤もだった。確かに今の自分が冷静で無いことは重々承知している。
しかしそれがどうしたというのか。セラフィナがいなくなったのだ。状況すら把握できない今、落ち着く方がどうかしている。
「レオナールといったか」
「げほっ、は、はい」
「入れ。貴様の話を聞いてやる」
ランドルフは短く吐き捨てると、レオナールの返事も聞かずに屋敷へと歩き出した。それにルーカスが続き、最後にレオナールがふらつきつつも立ち上がって後を追う。
太陽は既に家々の上へと登り、三人分の影を作り出していた。