5
「セラフィナとは、いずれ離縁するつもりだ」
漏れ聞こえてきた重低音に、セラフィナは客間のドアノブにかけていた手を硬直させた。
聞きたくない、とっさにそう思った。しかし足は縫いとめられたように動かず、その間にも会話は進展していく。
「ちょっと、どういうことですか! いや、無理でしょ? 勅命じゃありませんか!」
「陛下からは許可をいただいている。アルーディアとの関係が回復した暁には、好きにすれば良いと」
「何故ですか? 義姉上と兄さんは仲がいいように思っていたのに!」
「政略結婚だからだ。結婚しなければならない理由がなくなるのなら、もう共にいる意味もない」
「それは、兄さんが望んでいると、そういうことなんですか?」
「そうだ」
これ以上聞いてはいけないという思いが、石のように固まる足に力を与えた。セラフィナはそろりと後ずさると、差し入れに持ってきたウイスキーを抱えたまま廊下を歩き出す。
頭が真っ白になって何も考えられなかった。幽鬼のような足取りで酒庫への道を歩いていると、ちょうどエルマと遭遇してしまう。彼女はセラフィナの姿を認めるや目を見開き、血相を変えて走り寄ってきた。
「奥様!? お顔のお色が悪うございます!」
「エルマ……」
「お酒を抱えてどうなさったのです? こちらは私がお持ちいたします。ああ、手も冷え切っていらっしゃるではありませんか」
今は彼女の優しさが苦しかった。セラフィナはこれ以上自分を取り繕うことができずに、青い顔のまま呟くように告げる。
「この前頂いた良いお酒があったのを思い出して、お持ちしようかと思ったのですが……途中で気分が悪くなってしまって」
「ご気分が…!? とにかくすぐにお部屋に参りましょう。横になって頂かなくては」
エルマは問答無用でセラフィナの肩を支えると、そのまま自室へと連れて行ってくれた。促されるままにベッドへ横になると、春にしては多すぎる枚数の布団が掛けられていく。
「お医者様はお呼びしても?」
エルマはセラフィナがハイルング人であることを知っているから、無闇に医者に頼ることはできないことを踏まえて質問してくれたのだろう。彼女の聡明さと心遣いに感謝しつつ、セラフィナはゆっくりと首を振った。
「いいえ。寝ていれば治りますから」
「本当ですか……?」
「大丈夫ですよ。ありがとうございます、エルマ」
「……畏まりました。旦那様には私からお伝えしますから、ごゆっくりお休みください」
ちゃんと笑えていたのかはわからないが、エルマは心配そうに歪めていた顔をふと楽にしたようだったから、一応は成功していたのだろう。彼女は一礼すると静かに部屋を出て行った。
天井の細かな模様を意味もなく眺める。しんと静まり返る部屋に一人となった今、脳裏に浮かぶのは先程の会話だった。
——セラフィナとは、いずれ離縁するつもりだ——
そう、そうか。そうだったのか。あの方はやはり、この結婚を迷惑に思っていたのだ。
そんな事は重々承知していたはずだった。セラフィナは押し付けられた妻で、触れる気にもならないほど興味の持てない存在。それも危なっかしくて面倒な政治の駒。優しくしてくれるのは彼の責任感あってのことだと、わかっていたのに。
それでも側にいたかった。なのに彼の口から本音を聞いたくらいで今更ショックを受けるなんて。
「私は、馬鹿ですね……」
ポツリとこぼした言葉は夕闇に沈む部屋に溶けていった。セラフィナは思わず自嘲して顔を両手で覆う。
本当になんて愚かなんだろう。彼は迷惑しているというのに、好きだから離れたくないなんて身勝手にも程がある。できることなら彼の側にいることを選びたいなどと、アルーディアに帰ることを躊躇ったりするなんて。
あまりにも愚かで、そして滑稽だ。
守ると言ってくださった。勝手に怪我を負った私を、それでも守ると。けれど、もう——。
突然ノックの音が響いて、セラフィナは反射的に返事をしながら上半身を起こした。ドアが開いた先には、今まさに思い浮かべていた人の姿があった。
「体調が悪いと聞いた。大丈夫か」
ランドルフは大股でベッドに歩み寄ると、青ざめたセラフィナの顔を見て眉をしかめたようだった。
「やはり具合が悪かったんだな? 何故言わない。遠慮をするなといつも言っているだろう」
「……大丈夫、です」
「大丈夫って……貴女は病気にもそうはかからないんだろう? なら尚更おかしいではないか。私はベルヒリンゲン閣下をお呼びするべきと思うが」
「そんな、先生においでいただくなんて」
もう良いのです。セラフィナはもう少しでそうこぼしそうになった。
そんなに優しくして下さらなくても良いのです。負担ばかりかけて、気を遣わせて、本当にごめんなさい。
ランドルフの優しさが今はただ苦しくて仕方がなかった。セラフィナはたまらなくなって、心配そうに細められた金の瞳から目をそらして顔を俯ける。
「セラフィナ……? 頭でも痛むのか。それとも」
それは無意識の反応だった。そっと伸びてくる彼の手が、その気遣いが、どうしても辛く感じられて。
セラフィナは思わず、その手を払ってしまったのだ。
ぱしん、と乾いた音が室内に響く。後悔した時には、ランドルフは手を伸ばした姿勢のまま呆然と目を見開いていた。
——ああ、私は。ただ心配して下さったこの方に、何てことを。
「ご、ごめんなさい……!」
何か言わなければと焦れば焦るほど、思考は空回りして何の言葉も生み出してくれない。セラフィナは青い顔を白に塗り替えて気まずい沈黙を漂った。それは実際にはごく僅かな時間だったのだが、何故だか永遠のように長く感じられた。
「すまない、驚かせたな。貴女が大丈夫と言うならそれで良いんだ。ゆっくり寝ているといい」
ランドルフはぎこちなく笑うと、踵を返してそのまま部屋を出て行った。彼が立ち去ってしばらく、セラフィナは何も考えられずにいたのだが、やがて膝を抱え込むようにして丸くなった。
消えてしまいたい程悲しいのに、膝に顔を押し付けてみても涙は出ない。あまりにも我慢をしすぎると、涙とは出なくなるもなのだろうか。
完全に部屋が夜の闇に沈むまでそうして座っていた。やがて顔を上げた時には、既にセラフィナは前を向き、取るべき行動を決めていたのである。
今夜この屋敷を出て祖国に帰るのだと。
屋敷の者が全員寝静まった深夜、セラフィナはそっとベッドを抜け出した。
机の引き出しを開けると、そこにはたった二つの宝物が収められている。一つはアウラがくれたお守り。そしてもう一つは、ランドルフがくれた青いリボンだった。
お守りはもともと自分の物だから持っていくとして、問題になるのがリボンをどうするかということだった。
幾度となく髪を結わえたにも関わらず、その青は変わらぬ光沢を放っている。初めてつけた時に似合うと褒めてくれた事を思い出してしまい、セラフィナは苦しさに耐えるようにぐっと両手を握り合わせた。
考えた末、結局リボンもお守りと一緒に懐に入れた。残されても誰が使うわけでもないし、図々しい事はわかっていたけれど、どうしても持っていたかったのだ。
これは初めて愛した人が初めて選んでくれた贈り物だから。この青を見るたびここでの暮らしに想いを馳せ、つかの間の幸せを得ることができるだろうから。
そして最後、先ほどしたためた手紙の上に、アイゼンフート家の家宝である結婚指輪を置く。
別れの準備は呆気なく済んでしまった。
セラフィナは外套を着込むと、迷いのない足取りでバルコニーへと出た。もたつきつつも手すりを乗り越え、狭いスペースに腰掛けた状態で一つ深呼吸をする。
そして、下を見ないよう硬く目をつぶったまま空中にその身を躍らせた。
一瞬の浮遊感の後、ずんと鈍い音がして右足に衝撃が走る。芯に響くような痛みに思わず低い呻きを漏らしたが、骨が折れていようと何の問題もなかった。どうせすぐに治るし、片足だけなら引きずってでも歩くことはできる。
立ち上がってみてもやはり右足首に痛みがあった。表門には警備が立っているはずだから、人気の少ない裏へと回り込む。右足を引きずったまま構うことなく歩き続け、使用人用の勝手口に到達したところでふと後ろを振り返った。
屋敷はしんと静まり返り、挨拶もなく出て行くセラフィナを責めるかのように無言でそこに佇んでいた。
ここはたくさんの優しい思い出が詰まった場所。体力があって頼もしいエルマに、飄々となんでもこなしてしまうディルク、感動屋のネリー、気の良い使用人達、そして心の底から愛したただ一人の人が住まう場所だ。
セラフィナにとって人生で一番幸せな時を過ごしたこの屋敷には、きっともう二度と戻ることはないだろう。
「本当に、今までお世話になりました」
セラフィナはともすれば部屋に戻りそうになる足を叱咤し、深々と頭を下げた。
直接別れを告げることもできない無礼をお許しください。申し訳なくて、情けなくて、セラフィナはしばらく顔を上げることができなかった。
きっとランドルフなら理由を話して相談すれば、守るからここに居ればいいと言ってくれるのだろう。そんなことを言われたらその優しさに甘えてしまうだろうから、黙って出て行く必要があった。
最後に見た彼のぎこちない笑顔を思い出す。手を払うだなんて、なんて失礼で恩知らずなことをしてしまったのだろう。彼は腹を立てているだろうか。あのときちゃんと謝れなかったこと、それだけが今の心残りだ。
セラフィナはゆっくりと顔を上げると、そのまま踵を返した。
勝手口に取り付けられた錠前が、つい先日錆びて使い物にならなくなったという話は聞いている。確かに鍵はついておらず、扉は難なく開いた。
しかし扉を出てすぐに男が二人立っていて、セラフィナはもう少しで声をあげてしまいそうになった。
彼らはもちろんセラフィナの登場に気付いて、驚き顔でこちらを見つめている。
裏にまで警備を配置していたなんて。早くに訪れた絶望的な状況に自分の迂闊さを呪いつつ、セラフィナはどう言い訳をしようものか考える。
まったく纏まらないまま口を開こうとしたところで、突如として男達の背後で黒い影が踊った。
影は目にも止まらぬ速さで二人の警備兵を打ち倒してしまった。黒い外套をまとって布を顔に巻いたその姿は闇に溶け込んでおり、性別すら判断できない。それでもその人物がこちらをじっと見ているのがわかって、セラフィナはその藍色の瞳を見返した。
あまりのことに停止しかけた思考回路がその色を見た途端に動き出す。
そうだこの瞳は。アルーディアにいた頃に最もよく関わった人々の一人である、彼のものだ。
「エミール、さ」
名前を呼び終えないうちに腹に重い衝撃を感じて、セラフィナはその場に崩れ落ちる。殴られたのだととっさに理解しつつ見上げれば、彼はちょうど顔の布を取り去ったところだった。
久しぶりに見るエミールの細面は、しかし苦々しい笑みに彩られて元の面影を失っていた。何一つ状況が理解できないまま、セラフィナは意識を闇へと沈めたのだった。