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ランドルフの執務室に珍しい客人が訪れたのは、休みが明けて月曜の午前中のことであった。
マイネッケ大佐は相も変わらず慇懃な笑みを浮かべて敬礼してみせる。滅多に表に現れない情報部長の姿に大体の要件を察しつつ、話をするよう促すことにした。
「要件は戴冠式の襲撃事件についてか」
「その通りです。流石ですね」
マイネッケは満足げに笑むと、口頭での報告だけですが、と前置きして話を始めた。
「既にアルーディアの工作員の拠点を壊滅せしめたことはご存知ですね? そして残念ながら、あの事件の実行犯は確保できなかった事も」
「ああ。知っている」
あれは確かこの男と地下牢で会ってからすぐの事だった。娼館を隠れ蓑に築いたアルーディア工作員の拠点は、マイネッケ配下の情報部員達によって一網打尽にされたのである。
「依然として実行犯は逃走中、その足取りは未だ掴むことができていません。しかし、最近になってアルーディアとの国境で複数人の不法入国を許したとの情報が入って来たのですよ」
「何だと?」
ランドルフはピクリと眉を動かすと、鬼も裸足で逃げ出すような形相をしてみせた。しかしマイネッケはどこ吹く風で、やれやれと言わんばかりに肩をすくめている。
「圧政から逃れた移民との見方もあるようですが、そのまま逃走した手腕から工作員の可能性が高いと思われます。まったく、国境警備の見直しをするべきだと思いませんか?」
「くだらん前置きはいい。つまり、その工作員が逃走中の実行犯に接触して支援する可能性があるというわけか。厄介な事態だな」
「ええ、経過日数を考えれば既にブリストルに到達している可能性もあります。よってしばらくは相応の警戒が必要でしょう」
なるほど随分長い間静かにしていたと思ったが、女王様の忍耐も限界ということか。
襲撃事件のようなことは二度と起こさせない。セラフィナだけは一切の傷もつけぬよう、この身に代えても守りきらなくては。
「しかし何故貴官が捜査協力をしただけの私にそのような情報を流す。襲撃事件には直接関係なかろう」
陛下を守れとでも言いたいのか、それとも特別な理由でもあってのことか。セラフィナの出自や彼女が狙われていることについてはこの男に話した覚えはないが、職務上何か掴んでいてもおかしくはない。
マイネッケの底知れない笑みから何も読み取れず、ランドルフは続く言葉を予想して身構えた。しかし彼はへらりと笑うと、何でもないことのように手を振ってみせた。
「いやあ、今回の事件はアイゼンフート少将の奥方様が被害に遭われましたからな。ご不安かと思い、一応の状況報告をしようと思った次第ですよ」
確かに人情としてはおかしくない理由だ。しかし情報部長ともあろう男がその程度の理由で情報を渡すだろうか。ランドルフは鋭い視線でマイネッケを見据えたが、けっきょくその慇懃な笑みを崩すことは出来ずに終わった。
「なぜここにお前がいるんだ、ルーカス」
屋敷の玄関をくぐった途端、妻の隣で笑みを浮かべる弟の姿を見つけ、ランドルフはもはや胡乱げな眼差しを隠しもしなかった。
「いやあ出張でこっちに出てきたので寄らせていただいたんですよ。驚きました?」
「ああ驚いた、何せ一切そんな予定は聞いていなかったからな」
「はは、すみません兄さん。急に決まったものですから」
確かにブリストルに来たら顔を出せと言ったのはこちらだが、陸軍省まですぐなのだから一言くらい伝えられなかったのだろうか。
相変わらず自由奔放な弟に頭痛を覚えるランドルフだったが、彼の突然の訪問にも動じた様子のないセラフィナに、ともかく労いの言葉をかけることにした。
「すまん、なにぶん自由人なのだ。悪気はないので許してやってほしい」
「いいえ。せっかく久しぶりにお出でになったのですから、ゆっくりお話されてはいかがですか?」
セラフィナは嫌な顔一つせず、にこりと笑って提案をくれる。その笑顔はいつもと変わりないようでいて、少し顔色が悪いような気もした。
やはり調子が悪そうに見えるのは気のせいなのだろうか。
表面上はいつも通り振舞っているが、どこか顔色が悪く、時折思い悩むように虚空を見つめているのだ。慣れない乗馬に疲れさせたのかと思ったが、彼女の不調は今日の朝まで続いているように見えた。
無理をさせているのなら良くないが、一度尋ねて大丈夫と言われてしまった手前あまりしつこく聞くのも憚られる。ここは彼女の言葉どおり、やかましい弟を引っ張っていくべきだろう。
「そうだな。夕飯まで久々に飲もうか、ルーカス」
「おっ、いいですね。でも兄さんはザルすぎて面白くないんですよねえ」
「お前は飲みすぎるなよ。ディルク、用意を頼む」
ディルクが恭しく礼をしたのを確認して、ランドルフはルーカスを伴って客間へと向かった。セラフィナは微笑んで見送ってくれていたのだが、やはりその笑顔はどこか寂しそうに見えた。
客間は既に薄暗がりに包まれつつある。ディルクはランプを灯してからウィスキーとグラスを用意して音もなく退室していき、後には応接テーブルに向かい合って座る兄弟が残された。
黄金色の液体を入れたグラスを揺らしつつ、ルーカスはここへ来て初めて真剣な表情を見せた。
「それにしても、戴冠式の夜会では大変な目に合いましたね。お二人がご無事で何よりでした」
「お前にも心配かけたな」
「俺こそ何もお手伝いできず、申し訳ありません。義姉上がお変わりないので安心しましたよ」
「お前が気に病むことではないさ。聞いたかもしれんが見舞いの品を喜んでいたぞ。あちらの林檎はやはりうまい」
それはよかった、とルーカスは微笑んだのだが、その顔にはやり切れなさが滲んでいた。もしかすると直前でアルデリーに帰還した自身の判断を悔いているのかもしれなかったが、そんな影のある表情も一瞬だった。弟はグラスの中身をぐいと飲み干すと、実に楽しそうな笑みを浮かべたのだ。
「そう! 義姉上は、相変わらずお美しい! ……メロメロなんでしょ? 正直なところ」
ちょっと出来上がるにしては早くないか。それともこの男は常からこの調子だっただろうか。
「そんなことはない」
「ええー? 若くて可愛いくて優しい奥さんとか、全世界の男どもが泣いて羨ましがるような憧れの存在ですよお?」
ルーカスは言いつつ手酌でウィスキーを注ぎ、ついでにランドルフのグラスもなみなみにしてしまった。顔は赤くはなかったが何時にも増してご機嫌なこの様子、どうやら酔っていると見て間違いなさそうだ。
「兄さんにビビらない女の子なんて、今までなかなか居なかったでしょ」
「なんだ、言うじゃないか」
「だって本当のことじゃないですか。俺は嬉しいんですよ、兄さんを理解してくれる女性が現れたことが」
ルーカスの言うことは尤もだった。あんな風に人の内面を見ようとしてくれる女性は、もう二度と現れないに違いない。
セラフィナは綺麗だ。外見ももちろんそうだが、透き通るように美しい心を持っている。
一心に国のことを心配して自らの身を犠牲にしようとするその姿は、例えようもないほど気高く、そして儚い。
あんなに美しい人をこんなところに閉じ込めて良いはずがない。優しい彼女はこれ以上利用されることなく、なんのしがらみもない場所で幸せになるべきだ。
「手放したらだめですよ。しっかり守って、幸せにしてあげないと」
「……ルーカス」
自身の心を読まれたような言葉に、ランドルフは思わず目を見張った。やはりこの弟は聡いところがあるのか、はたまた偶然か。ただ、今のルーカスは純粋に兄の幸せを喜んでいるようだった。
「セラフィナとは、いずれ離縁するつもりだ」
だからつい、口を滑らせてしまった。
この時のランドルフは揺らぐ決意を口に出して確認したくて仕方がなかったのだ。それ程にセラフィナと過ごす日々は幸せで、手放しがたいものだったから。
ルーカスはそのままの表情でたっぷり五秒ほど静止したかと思うと、やがてグラスを置いて立ち上がり大声をあげた。
「ちょっと、どういうことですか! いや、無理でしょ? 勅命じゃありませんか!」
「陛下からは許可をいただいている。アルーディアとの関係が回復した暁には、好きにすれば良いと」
納得いかない様子でソファに座りなおしたルーカスは、それでも追及の手を緩めることはない。彼は最近では見たこともないほど険しい表情をしていたが、その瞳は悲しげに揺れているようにも見えた。
「何故ですか? 義姉上と兄さんは仲がいいように思っていたのに!」
「政略結婚だからだ。結婚しなければならない理由がなくなるのなら、もう共にいる意味もない」
「それは、兄さんが望んでいると、そういうことなんですか?」
「そうだ」
ランドルフの頑なな態度に一瞬押し黙ったルーカスだったが、辛抱できないとばかりに頭を掻き毟ると、だん、とテーブルに手をついて思い切り顔を近づけてきた。
近頃は心の内を見せなくなったように思われた弟が、目の中に怒りの炎を宿してこちらを睨みつけているのは、随分と新鮮な光景だった。
「あああ、もう! ほんっとうに不器用ですねえ、あなたは!」
「……なんだ、いきなり」
「だって兄さん、義姉上のこと好きでしょう!?」
それはいつものルーカスの軽口であるようでいて、その真剣な眼差しを見ればあしらう事はできなかった。言葉に詰まるランドルフに、弟は機を得たとばかりに切り込んでくる。
「見てりゃわかるんですよ、んなことくらい! あなたねえ、それを一度でも告げたことがあるんですか? どうして自分で幸せにしてやろうと考えることができないんですか!」
「……私はたまたまセラフィナの夫になっただけの身の上だ。若い彼女には外の世界を知る権利がある。汚い政治に利用されるだけの人生ではあまりに不憫ではないか」
「汚い政治ってやつから兄さんが救ってあげたらいいでしょう!」
「だから救ってから手放すと言っているんだ」
「っだあああああもう!」
ルーカスの追求もここへ来て尽きたらしい。彼は両手で頭を掻きむしって絶叫すると、そのままソファに突っ伏してしまった。
「……俺はもう疲れました。寝ます」
「寝る? おい、ルーカス」
ランドルフはテーブルを回り込み、ルーカスの顔を覗き込む。
果たして自由奔放な弟は、眉をしかめたまま寝息を立てていた。
やたらと絡んでくるとは思ったがこれ程までに酔っていたとは。まったく心配しているのか心配して欲しいのかよくわからん奴だ。
ランドルフはかき乱された心中を誤魔化すように、乱雑な動作で残りのウイスキーを煽るのだった。