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「セラフィナ様、良くぞご無事でいらっしゃいました……!」
レオナールはどうやら中身も全く変わっていないらしく、感無量とばかりに肩を震わせている。突然の再会に驚くセラフィナは、彼がもうちょっとで泣きそうに顔を歪めているのを呆然と眺めていたのだが、やがて正気を取り戻すと疑問に背を押されるようにして口を開いた。
「レオナール、どうしてここに? もしかして、何かあったのですか!?」
「……はっ! 失礼しました。セラフィナ様、僕は姫様の命で参ったのです」
「姉上の?」
「はい。姫様が万事整えられました。今なら貴女を内密にアルーディアまでお連れすることができます。セラフィナ様、ご決断を。両国は今ほとんど開戦の一歩手前まで来ているのです」
それは予想し得る出来事の中でも最悪の結末だった。
戦争が起こる。それだけは回避しなければならないと常に念頭に置いていたのに、自らの行動は意味を成さなかったのか。
それに今、レオナールはとんでもない事をもう一つ言った。両国の関係を無視し、役目を放棄するという提案を。
ベルティーユが本当に約束を果たしてくれたこと、それはとても嬉しい。どれほど感謝しても足りない程だ。けれどセラフィナはその提案に頷くわけにはいかなかった。
「レオナール、私はそのようなことはできません。私一人だけ逃げるようなこと」
「逃げるのではなく、これは必要なことなのです。戴冠式でお怪我をなさったこと、これは女王陛下の計略によるもの。貴女の正体を暴きヴェーグラントの反アルーディア感情を煽ろうとしたのですよ」
彼の言葉がもたらした衝撃は、その内容の割に容易に受け止めることができた。
ヴェーグラントへ来て二年、自分という手駒を有効活用するなら、放置するにはあまりに長い時間だ。
おかしいと不安を抱きつつも平穏に暮らしていたのだが、知らないところで既に計画は動いていた。ただそれが未然に防がれたというだけで、やはりフランシーヌは虎視眈々と開戦を狙い続けていたのだ。
今までどうして気が付かなかったのかと愕然とするセラフィナだが、同時にとある可能性に思い至って色をなくした。
もしかするとランドルフは、この事実に気付いていたのではないか。
地位と実力、そして人望も兼ね備えた彼ほどの人物が、大事件の裏側を把握していないはずがない。つまり知っていてなお、セラフィナが心を痛めないよう黙っていてくれたのではないか。
セラフィナは目の前が揺れ、足元が崩れていくような感覚を覚えた。
「なんて、こと…」
「おそらく、女王陛下は近いうちにもう一度仕掛けてくるはずです。その前に姿を隠せば、その計略も阻止することができるでしょう」
「ですが、あなたと姉上は? こんなことをしてはただでは済みません。最悪謀反人として捕らえられるかも」
「戦争になるよりは幾分マシです。貴女が思うより、今のアルーディアは厳しい状況なのですよ。ヴェーグラントなどという大国とぶつかれば、ほぼ勝ち目はないでしょう」
「では、どうして女王陛下は戦争など?」
「フランシーヌ様にはアルーディアを頂点に押し上げるという理想がおありです。周辺の小国を併合し、次にヴェーグラントを傘下に置くことで足がかりにしようとお考えなのでしょう。疲弊しきった国民のことなどは、もはやあの方の眼中にはありません」
レオナールは相変わらず眉を垂れさせてはいるものの、とても強い瞳でセラフィナを見つめている。
アルーディアにいた頃、彼はいつもベルティーユに振り回されては、困った笑みを浮かべて望みを叶えようとする真面目な騎士様だった。セラフィナたち親子にすら丁寧に接してくれる、とても優しい人。
それなのに今の彼は怖いくらいに真剣だった。
そんなに状況は悪いのだろうか。ベルティーユや、街の皆はどうしているのだろうか。聞きたいことはたくさんあるのに喉に張り付いたように出てこない。
「セラフィナ様のことは必ず僕がお守りします。貴女をお救いすることは姫様の悲願でもあるのです。聞けば貴女は、このヴェーグラントであまりにも酷い扱いを受けておられるとか」
「レオナール……いったい、何を」
「アルーディアの国民の間でも噂になっていることです。皇帝陛下は貴女を蔑ろにし、あろうことか臣下にお引き渡しなさった。しかも冷酷非道、人を人とも思わぬ戦いぶりで知られる『血戦の黒獅子』に——」
「レオナール!」
思わずセラフィナは目の前の男の名を叫んでいた。衝動に導かれるまま瞳に決意を込めて彼を見据えれば、彼は驚いたような顔をしてこちらを凝視している。
彼に非が無いことは解っていても、それでも我慢ならなかった。
「あの方を侮辱することは、いくらあなたでも許すことはできません。私が今ここにいるのは、すべてランドルフ様のお力によるものなのです。よく知りもせず噂だけで決めつけるのはやめてください」
静かな怒りの炎を宿した青い瞳を、レオナールは驚愕の眼差しで見つめ返していた。しかしすぐに恥じるように目を伏せると、申し訳ありません、と震える声を絞り出す。
「ご心配申し上げるあまりに、勝手なことを。お許しください」
「いいえ。私こそ申し訳ありませんでした」
「そのような! ……セラフィナ様、変わられましたね」
「私が? そうでしょうか」
「はい。より一層お強くなられました」
レオナールは昔のままの笑顔を浮かべている。幼い頃からずっと、まるで兄のように慈しんでくれたことを思い出す。
優しく気の弱いところのある彼は、きっとここまで来るのにも多くの苦労をしたに違いない。ベルティーユの命とはいえそこまでしてもらったことに、セラフィナは申し訳なさで一杯になってしまった。
「さて、貴女様ももう戻らねばならない頃でしょう。今日はこれで失礼します」
「そんな、聞きたいことがたくさんあるのに……!」
「お会いできるのは明日の夜です。屋敷の前の道を少し進んだ右の路地で、日が登るまでの間お待ちしています。アルーディアに帰る事を決断された場合のみ、おいでください」
「レオナール!」
「この国にもきっと、捨てがたいものがおありでしょう。後悔の無いようよくお考え下さい。一応申し上げておくと、どちらを選ぶにしても、僕の身を案ずる必要はありません。……あと、こちらを」
「……これは」
差し出された封筒には、一言「セラフィナへ」と書かれていた。その懐かしい筆跡を見た瞬間、脳裏にあの頃思い出が溢れて息がつまる。
忘れもしない、これはベルティーユの字だ。
勉強をしなさいとセラフィナを諭し、いつも守り導いてくれた、大好きな姉の字だ。
「では、失礼を」
「あっ、まってくださ……!」
レオナールは最後に笑みを残すと、軽やかな動作で小さな窓から飛び出していった。目にも留まらぬ早業に一瞬立ちすくんでしまったのだが、我に返って慌てて窓から外を覗き見る。
ゴミ箱や掃除用具が置かれた細い通路には気配すらなく、手の内に残った手紙だけが、その一瞬の邂逅が夢ではなかった事を伝えていたのだった。
「セラフィナ。顔色が悪いように見えるが、大丈夫か」
夕飯を終えた後、セラフィナはランドルフと共に廊下を歩いていたのだが、自室の扉を開けた段階で呼び止められてしまった。図星をついた指摘に肩を竦めそうになるのをなんとか堪え、顔中に神経を張り巡らせていつもの笑顔を浮かべる。
「そうでしょうか? 特に体調が悪いということはありませんが……」
菓子店を出てからは精一杯いつも通り振舞っていたはずだったのに。彼は怪訝そうに眉をしかめていたが、セラフィナが笑って否定するとそれ以上は深く追求してこなかった。
「……そうか、なら良いのだが」
「はい、本当に大丈夫ですよ。ご心配ありがとうございます」
ランドルフを見送って部屋に入ったセラフィナは、途端に凄まじいまでの疲労感に襲われて力無く自室のソファに体を沈み込ませた。
本当にとんでもないことになってしまった。
自身を引き金にして戦争が起きる。本当に開戦に至るかはわからないが、フランシーヌが戴冠式の時より確実で、過激な手を使ってくることは間違い無いだろう。恐れ続けた事態が今現実となって目前に迫っているのだ。
もちろん開戦を避けるために最善を尽くさなければならない。けれどその最善が何なのか、今は判断がつかなかった。
レオナールを頼ってアルーディアに帰るにしても、彼一人に多大な負担をかけることは明白。フランシーヌの追っ手がかかる可能性もあり、もし捕まればその時点で未来はない。
ヴェーグラントに残れば今度はランドルフに迷惑をかけてしまう。彼の性格上、事情を話せば全力で守ろうとしてくれるだろうが、とてつもない労力を伴うことは間違いない。
そして頼った方が命の危険にさらされるのだ。
駄目だ、戦争を回避するためどちらを選べばいいのか、まったく見当がつかない。
セラフィナは溜息をついて立ち上がると、緩慢な動作で机の引き出しを開けた。
そこに収まった白い封筒はベルティーユからの手紙。屋敷に帰ってきた後、開ける勇気がなくてここにしまっておいたのだ。
手紙を大事に手に取ったセラフィナは、意を決して封を切った。赤い封蝋は音を立てて剥がれ、中から二枚の便箋が現れる。明らかに姉の筆跡で書かれたそれを一度胸に抱くと、覚悟を決めて読み始めた。
親愛なる私の妹へ
お元気ですか、などとふざけたことを聞くつもりはありません。
セラフィナ、今まで何もしてあげられなくてごめんなさい。知らない国で生きていかなければならなくなったあなたの心を考えると、胸が張り裂けそうになります。
私はあなたを救うため準備を整えてきました。どこかは言えないけれど、あなたが暮らすに良さそうな家や、国境越えの手段など用意しています。内密に事を進めるために随分と時間を使ってしまいました。
ああもう、だめね。手紙と思うと、つい事務的なことばかり書いてしまうの。普段書類に追い回されているせいかしらね。
ねえセラフィナ、あなたはアルーディアを、女王陛下を、そして私を憎んでいるのでしょう。もしかしたら、もうこんな国には帰ってきたくないかもしれないわね。それならそれであなたの思うようにして良いのよ。
けれど、私はあなたの力になりたい。あなたは十分すぎるほど苦しい目にあってきたのだから、もう幸せにならなくちゃおかしいでしょう? たった一人の妹の幸せを願うことが、いけないことだなんて誰にも言わせないわ。
だからお願いよ、遠慮なんてしないで。戦争を回避することも気にしなくたっていい。ヴェーグラントにいることがあなたにとって苦しいことならば、私を頼って帰ってきて。
あなたが後悔しない道を選ぶことだけを祈っているわ。もう会うことがなかったとしても、どうか幸せでいてね。
あなたの姉 ベルティーユより
手紙にしては砕けた文調のそれはベルティーユの素直な言葉そのものだった。久しぶりに大好きな姉に会うことができたような気がして、セラフィナは喜びに震える手で今一度その手紙を搔き抱く。
自分のことをこんなにも考えてくれていたことが嬉しくて仕方がなかった。
本当に幸せ者だ。こんなに優しい人達に囲まれ、いつも気にかけてもらって。
それなのにこの心のなんと浅ましいことか。
「後悔しない道を」との一文を見た瞬間、セラフィナは気が付いてしまった。自分にとっての後悔しない道とはランドルフと共にある事なのだと。
この屋敷で暮らした日々は、セラフィナにとって切なくなる程に幸せだった。ベルティーユがここまでしてくれたのだと知ってなおランドルフと共にいたいと願い、なにもかも忘れてここで暮らす道を選びたいと一瞬でも考えてしまうくらいには。
しかしどうしてその道を選べるだろうか。ランドルフは勅命に従って結婚しただけなのに、戦争が起こりうる可能性を押してまで自分の想いを通すことなどできるはずもない。
いくらベルティーユが思うままに選ぶ事を許しても自分が許せない。自らの幸せよりも、愛する人たちに生きていて欲しいと思うから。
確実に戦争を回避する道があるのなら、きっと簡単に選べたのだろう。しかしぐちゃぐちゃになった頭では答えを導き出せず、セラフィナは呆然と手紙を手にしたまましばしそこに立ち尽くしていたのだった。