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妖精と黒獅子  作者: 水仙あきら
第三章 あの日の約束に真実の夢を見る
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2

 仕事の合間にバルコニーに出たセラフィナは、憂いを帯びた瞳を天へと向けた。

 幸せな日々は過ぎ去るのが早い。あっという間に年を跨ぎ、冬を越え、いつしかヴェーグラントに来てから二度目の春を迎えていた。こうしてバルコニーに出れば柔らかい日差しが体を包み、小鳥のさえずりが耳に柔らかく、花の芳香が鼻をくすぐる。

 こんなに気持ちのいい春の訪れを感じながら、しかしセラフィナの表情は暗かった。それはひとえに母アウラの命日を明日に控えていることにある。

 去年はベルケンブルク宮殿の祈りの間で祈っていた。しかしアウラは女神オーフェリアを信じているわけではないし、セラフィナは一応信徒だがそんな彼女に育てられたおかげで信心深いとは言えない。だから今年は教会以外で、と思っていたのだが。

 未だ戴冠式での犯人は捕まっておらず、セラフィナは自由に外に出ることができない身の上なのである。

 明日は日曜日ではあるものの、ランドルフに頼むのも申し訳なく、セラフィナは結局屋敷で大人しく祈ることにした。ピルニウス山脈を敷地内から望むことはできないが、これも仕方のないことだろう。

 母さま、わかってくださいね。心の中で呟き、部屋の中に戻った時であった。力強いノックの音が響き、その先に居る人物に予想がついたセラフィナは、小走りでドアを開けた。


「失礼。今良いか」

「ランドルフ様。はい、もちろんです」


 ランドルフは休日らしくシャツにベストというラフな服装で、仕事をしていたのか指先を少し黒くしていた。仕事の指示にきてくれたのだろうか。


「明日の御母堂様の命日だが、どこかピルニウスの見える高台にでも連れて行くということでいいだろうか」

「……どうして、ご存知なのですか?」


 セラフィナは目を見張った。母の命日について語ったことがあっただろうか。彼の先程の発言を踏まえると、ベルヒリンゲンの話を聞いた時にピルニウスの方を向いて祈ると言ったことを、覚えていてくれたということになる。


「それくらい当たり前だろう。貴女だって私の母の命日は教会に付き合ってくれたではないか」

「それは当たり前です! ……あ」


 セラフィナは自身の台詞の矛盾に気付いて口をつぐむ。ランドルフはそんな妻の様子に、ふと笑みをこぼしたようだった。


「では、私が知っていて、共に祈るのも当たり前というわけだ。明日は昼を食べたら出るぞ。いい場所がある」

「いい場所、ですか?」

「ああ。明日は貴女にジェレマイヤを紹介しよう」

「ジェレマイヤ……?」


 ランドルフはやけに楽しそうな笑みを浮かべていた。どこか子供のようなその表情に鼓動を早めつつ、セラフィナは首を傾げるのだった。



 大きな青鹿毛の馬を前にして、セラフィナは思わず口を開けてその美しい生き物を見上げた。

 今日はアウラの命日である。

 ランドルフの提案で高台に行くことにしたのはいいが、問題はその交通手段だった。何でも馬車は乗り入れ不可能らしく、馬ならば近くまで行くことができるらしい。しかし当然セラフィナが馬に乗れるはずもなく、ランドルフの愛馬ジェレマイヤに相乗りさせてもらうことになったのだ。

 ジェレマイヤは大人しく聡明そうな瞳が印象的で、青みがかった黒の毛並みをした実に立派な牡馬であった。馬に触るのは初めてなので恐る恐る鼻先を撫でると、彼はもそもそと体を擦り付けてきた。


「かわいい。ジェレマイヤ、初めまして。今日はよろしくお願いしますね」


 鼻筋を撫でながら語りかけると、彼は任せておけとばかりに瞬きをしたようだった。大きくて立派で聡明で心優しい、まさしく持ち主のような馬だ。


「よしよし。良い子ですね、ジェレマイヤは」


 ジェレマイヤは撫でてくれと言わんばかりに鼻先を差し出してきた。その可愛い仕草にときめきを禁じ得ないセラフィナは、もちろん撫でさすってやり、高揚した気分のままちょんと口付けを落とす。

 しかしいつのまにか乗馬鞍の取り付けを終えたランドルフがこちらを見ていることに気付いて、少々はしゃぎ過ぎたかと手を止めた。

 彼は見たことがないくらいの無表情で、愛馬の目を注視しているようだった。


「お前はそんな性格だったか? 自分が馬だと思って調子に乗りおって…」

「どうかなさいましたか? ランドルフ様」

「いいや。準備は終わった、行くぞ」

「はい、よろしくお願いします」


 ジェレマイヤの背は随分高い位置にあり、どう乗ったらいいのか見当もつかない。しかしセラフィナが戸惑うよりも早くランドルフは馬上の人となっており、その洗練された動きに見惚れていると、大きな手が差し出された。


「掴まれ。次に右足を鐙にかけるんだ」

「はい」


 言われるがまま手を取り、鐙に右足をかける。そのまま力を入れて体を持ち上げようとした瞬間、ぐんと繋いだ手を引っ張られた。黒いドレスが翻り、セラフィナは気が付いた時にはジェレマイヤの上に横乗りになっていたのだった。


「わあ……! 高いですね!」


 一気に開けた視界に、セラフィナは子供のような歓声を上げた。二階から景色を見るときとも違う、周囲を間近で見渡せる絶妙な高さだ。


「怖くはないか」

「はい、平気です」


 ジェレマイヤからかすかな動きが伝わってきて、既に彼へ全幅の信頼を寄せるセラフィナには少しも怖いことなどなかった。それに、ランドルフも腰を支えてくれていたから。


  ——支え、て?


 そこでセラフィナは今の自分たちの体勢に思い至って硬直した。

 密着した左半身が熱い。ランドルフはセラフィナを囲むように手を回して手綱を握っている。これは、これはまるで、抱きしめられているかのような。

 違う、とセラフィナは脳内で首を振った。これは乗馬。命日の祈りを捧げるため、乗馬をするだけのことなのだ。浮かれていて良いはずがない。


「出発するぞ」

「は、はい。よろしくお願いします」


 声が近い。頭のすぐ上から低音が響いて、必死でかき集めた平常心が散らばってしまいそうだった。

 やたらと存在を主張する心臓を抱えたまま、ついに高台への短い旅は始まったのである。




 平常心と唱え続けていたら流石に落ち着いてきた。

 せっかくランドルフが馬に乗せてくれているのだから、楽しまなければ勿体無い。

 歩くより少し早いくらいの速度で進み続けて三十分ほど、王城を横目に街を通り過ぎ、いつしか森の中の小道に入り込んでいる。なるほどこれは馬車では無理そうな道だ。


「これから行くところにはよくおいでに?」

「まあそうだな。特に高台が良いわけではないが、乗馬は好きだから時間がある時は行くこともある」

「乗馬が? そうでしたか」


 ランドルフは趣味らしい趣味はあまり持たない。

 狩りは好きではないようだし、賭博はもってのほか、葉巻は臭いしまずいと前に言っていたはずだ。強いて挙げるならビリヤードをルーカスと嗜んでいたのを見たことがあるのと、週に何度かは高級酒で晩酌をしていることくらいだろうか。

 だからこそ、乗馬が好きと知れたのはセラフィナにはとても嬉しいことだった。


「貴女にも楽しんでもらえたなら良いのだが」

「はい、とても楽しいです。ジェレマイヤもいい子ですし、乗馬って気持ちがいいものですね」

「そうか。やはり度胸があるな、貴女は」

「度胸、ですか?」

「ああ。恐怖心を持てば馬に伝わる。ジェレマイヤが通常通りの様子……いや、むしろ機嫌がすこぶる良いということは、貴女が信頼してくれたのを、こいつも解っているということだ」

「本当ですか。だとしたら、嬉しいです」


 ランドルフが戦場を共に駆け抜けてきたというジェレマイヤが、もし少しでも認めてくれたのなら、それはとても光栄なことだ。セラフィナは嬉しくなって、つややかな鬣を撫でてやった。


「少し速めてみるか」


  ランドルフが手綱を巧みに操ると、少しだけスピードが上がった。軽く走っているくらいの速さだろうか。途端に流れるように過ぎ去る景色と頬に受ける風に、セラフィナは歓声を上げる。


「速い! 凄い、楽しいです!」

「ならばこのまま行くぞ!」

「はいっ!」


  もちろん最高速度には遠く及ばないのだが、セラフィナには十分速く、そして爽快だった。

  二人と一頭は緑が作り出す壁の間を駆け抜けていく。




 小高い丘から見るピルニウスの羨望はまさしく雄大であった。

 眼下にはブリストルの赤い屋根の街並みが広がり、屋敷で見るそれよりも随分小さく見える。その奥に広がる霊峰ピルニウス山脈は青くくっきりした山影を見せつけており、横へ奥へと広がって果ては確認できない。頂上には永久凍土が白い筋を描き、その厳しくも高潔な姿を際立たせていた。


「すごい……」


 呟いたきり、セラフィナはしばしその眺めに魅入られたように動けなくなってしまった。


「今日はよく見える。運が良い」


 ランドルフも目を細めてその頂を見つめている。ピルニウスは大陸中の人々から畏敬の念を集める信仰の山だ。軍人ならば誰でも出陣前は拝むというから、彼にとっても特別な存在なのだろう。

 あの霊峰のどこかにハイルング人達が今も暮らしている。

 どんなところなのだろう。寒くはないのだろうか。シヤリの木は森へと育っているのだろうか。静かに、穏やかに、何者にも脅かされることなく平和を謳歌しているのだろうか。

 風が吹く。ピルニウスから吹きすさぶ風は春にしては冷えていた。乗馬に紅潮したセラフィナの頬を打ち、外套に隠した金糸が舞い上がり遊ぶ。揺れる瞳を閉じれば、アウラの見慣れた笑顔が瞼の裏に浮かんだ。

 

 母さま、私は二十歳になりました。もう立派な大人です。

 去年は二度目の結婚をしました。なんて言ったら、心配してしまうかも知れないけれど……私は今、幸せです。幸せすぎて、時々泣きそうになるくらいに。

 今日は私の旦那さまがここまで連れてきて下さったんですよ。優しいでしょう? そういう方なんです。私はこの方が好きで、好きでしょうがないほどです。

 母さまもこんな気持ちだったのですか。会うことができなくても近くにいることを選んだあなたは、いったいどれほどの思いで陛下を愛していたのですか。

 母さまに、会いたいです。もし会えたらのなら聞いていただきたいことがたくさんあるのです。けれど無理なことはわかっているから……だから、私はせめて心配をかけないよう、元気で過ごしていこうと思います。

 私はもう大人ですから。母さまは、どうか安らかにお休みください。


 セラフィナは静かな心で掌を組んで立ち尽くしていた。目を瞑り語りかけると、少なくとも自らの心が軽くなるのを感じる。祈りの時間は生きる者のためにあるのだと、アウラがよく言っていたのが今は懐かしい。

 さわさわと風が吹いている。日差しをはらんで徐々に柔らかくなっていくその風は、何だか母が頭を撫でているようだった。


 目を開けて背後を振り仰ぐと、ランドルフは帽子を被り直しているところだった。どうやら脱帽して祈ってくれていたのだと知って、セラフィナは温かい気持ちになる。


「もういいのか」

「はい。ランドルフ様、本当にありがとうございました」


 深々とお辞儀をして礼を言う。ここまでしてもらって、どれだけ感謝の言葉を重ねても足りない程だ。顔を上げると、セラフィナの大好きな金の瞳が優しく細められていた。


「私にも良い時間だった。貴女はゆっくりできたか」

「はい。初めて母の命日に、きちんと祈れたような気がします」

「なら良かった。では日の落ちる前に帰るか」

「はい。ジェレマイヤも退屈しているでしょうか」

「奴なら草でも食んでいるだろう」


 坂を下る直前、ちらりとピルニウスを振り返る。その霊峰はやはり人を寄せ付けぬ凄みを放っていて、これに登ろうと思ったハイルング人達の苦悩が垣間見えるような気がした。



 使用人達に土産を買って行こうと言い出したのはランドルフだった。セラフィナも一も二もなく賛成して、二人は商店街に足を延ばすことにする。

 夕方に差し掛かる今、食品を扱う店はどこも繁盛しているようだ。家路を急ぐ人々の間を縫って店先を覗くうち、綺麗な焼き菓子をショーケースに並べた店が目にとまる。


「お菓子などはどうでしょう?」

「そうだな、これでいいか」


 ランドルフの判断の速さは指揮官たる所以か。十種程度ある焼き菓子全てを二個ずつ包むよう店員に伝えると、彼はすぐさま財布を取り出していた。

 セラフィナは大人しく買い物が済むのを待っていたのだが、まずいことにトイレに行きたくなってしまった。

 包むにはまだ時間がかかりそうだったので、恥じらいつつもランドルフに断って店の中に入る。店内は喫茶スペースが設けられており、マークのついた奥の扉を開くと、丁寧に二つの個室が用意されていた。

 

 手前の扉に鍵がかかっているのを確認し、奥の扉を開けようとした、その時であった。


 セラフィナは完全に油断していた。いくら戴冠式の事件の犯人が逃走しており、自らも外出を控える身であっても、最近では危機感を抱くこともなくなっていた。それくらいにこの三ヶ月はひどく平和で、身に余るほどに幸せだったから。


 けれど忘れてはいけなかった。セラフィナにとっての幸せとは、長く続くものではないことを。自身の存在がヴェーグラントとアルーディアの国交問題において劇薬になりうることを。


 微かな音を立てて鍵が開き、ふわりと手前の個室の扉が開け放たれる。驚く間も無く中から伸びてきた腕がセラフィナの口を塞ぎ、腹を抱えて、力任せに個室へと引きずり込んだ。


「んむ……っ!?」


 突然の事態に一瞬怯んだセラフィナだったが、何とかその手から逃れようと両手を振り回す。しかし相手の方が何枚も上手のようで、筋肉質の腕はびくともしなかった。


「んんん!」


 ランドルフに気付いてもらおうにも声が出せない。これではまたしても迷惑を——


「痛っ! セラフィナ様、落ち着いて下さい! 僕です!」


 絶望感を覚えつつも攻勢を緩めず抵抗を続けるセラフィナだったが、自身が暴れる衣擦れの合間に、相手の声を聞いてはたと動きを止めた。

 この声、とても懐かしい。仕える姫君に困った顔をして訴えかける騎士の姿が脳裏に浮かんで、セラフィナは恐る恐る後ろを振り向いた。

 そこには予想した通りの人物がいた。

 二年ぶりに会う彼は記憶とほとんど変わっておらず、相変わらず焦茶の髪を乱れさせて、眉を下げたままこちらを見下ろしている。セラフィナがゆっくりと体の力を抜いたのを察して、彼はホッとしたように微笑むと、口を塞ぐ手を解いてくれた。


「レオナール……」


 名を呼べば泣きそうに歪む彼の顔。アルーディアの近衛騎士であるレオナールは、今この国に居るにはあまりにも不自然なはずであった。



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