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妖精と黒獅子  作者: 水仙あきら
第二章 戴冠式の夜
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閑話2 過保護な人々

ディルク視点で、第二章と第三章の間のお話です。

「ディルクさん、エルマ、お手伝いありがとうございます」


 今日のセラフィナの装いは、簡素なドレスにエプロンを纏い、青いリボンで髪を高い位置で結い上げるというものだった。下働きのような服装でも、この奥方の美しさは一切損なわれることはない。

 ディルクはごくわずかな時間エルマに視線を送った。優秀な使用人はそれだけで意図を理解してくれたようで、解っていますとばかりに目で頷いている。


 ——我々二人で奥様のお料理をサポートし、かつお怪我の無いよう目を配るのだ。


 厨房にて早速ドライフルーツを取り出し始めたセラフィナの背後で、結託した二人は決意を固めていた。


 *


 時は朝に遡る。

 今日は平日で、料理長がたまたま休みを取っていた。それをどこで聞きつけてきたのか、セラフィナがケーキを焼きたいと言い出したのである。

 女主人のやる気に満ちた表情に、ディルクはどう反応したものか迷って硬直した。可愛らしく優しく、そして勤勉で質素な彼女はこの屋敷に勤めるもの全員に愛されており、望みは何でも叶えてあげたいというのが共通認識である。

 しかし元一国の姫君にして現在は侯爵夫人であるこの方に、お菓子作りなどさせていいものか。

 大体のことには動じないディルクでさえも言葉に詰まり、どうしようかと考えあぐねてしまった。

 するとそこに出勤前のランドルフが登場したのである。

 敬愛する当主はディルクを連れて一歩下がると、小声で耳打ちしてきた。


「彼女の好きなように」

「よろしいのですか?」

「故郷の味が恋しくなったのだそうだ。我が家の厨房には不慣れだろうから付いてやってくれ」


 なるほど、そういう話だったのか。たったお一人でヴェーグラントにやってきた奥方様、きっと郷愁の念に駆られることもあるに違いない。


「セラフィナ、怪我の無いようにな。楽しみにしているぞ」

「はい、ランドルフ様。頑張りますね」


 二人は微笑み合うと、玄関に向かって歩き出した。ディルクはその後に続きながら、仲睦まじい様子を微笑ましく見守る。

 この新婚夫婦がどうやら本当に愛し合っていることは、使用人一同にこれ以上ないほどの喜びをもたらしていた。

 婚約中までは思い悩んでいた様子のランドルフも、結婚してからは隠しきれない想いが漏れ出ているようだったし、それはセラフィナの方も同じだった。

 今まで仕事にばかり身をやつしていた当主がようやくの幸せを得たとあっては、長年支えてきたディルクも安堵せずにはいられない。


 したがって、まさかこの当主夫妻が期せずして仮面夫婦状態に陥っていたとは、露ほども考えてはいなかったのである。


 ランドルフを見送った後、セラフィナは仕事を片付けてから作ると言って自室に戻っていった。

   そして午後、ついに奥方様のケーキ作りが始まったのだ。


 *


「忙しいのに申し訳ありません。私一人でも大丈夫なんですよ?」

「いえ奥様、石窯の使い方などは不慣れでございましょう。この爺もぜひお手伝いさせていただきたいのです」

「私は腕力要因と思っていただければ」


 エルマの目は鋭い。重いものや熱いものを運ばせてなるものかという気迫が感じられて、ディルクはその頼もしさに背を押される思いだった。


「では、早速石釜を温めておきましょうかな」

「よろしくお願いします。ではエルマは、粉を振るいにかけて頂けますか?」

「畏まりました」


 セラフィナは恐縮しきりの様子だったが、二人が引く気が無いのを知って頼ることにしたらしい。ディルクはひとまずほっと息を吐くと、自らの仕事を果たすべく行動を開始した。

 さて、まずは火を移さなければ。薪はどこにあったかと視線を巡らそうとして——恐ろしいものを見た。

 骨つき肉でも断とうとしたのだろうか。可憐な女主人が、ものすごい勢いで包丁を振り下ろしたのである。

 だん、と響き渡ったまな板と包丁がぶつかる音に、ディルクは気絶寸前になってしまった。その音に驚いたエルマも振るいを叩く手を止めると、凍りついた家令の代わりに彼女の元に走り寄る。


「お待ちください奥様。いったい何を切っておられるのですか?」

「ドライフルーツですよ」


 見ればプラムが真っ二つにされたところだった。確かに種はあるがもうちょっとやりようがある気がする。ディルクは頭を抱えそうになったが、やはりお怪我をしてはいけないとやんわり指摘することにした。


「その、もう少しばかり優しく切っても良いような気がいたしますが」

「そうですか? 母の動きを真似てみたのですが……」


 セラフィナはまるで予想外のことを言われたとばかりにきょとんとしている。ディルクは内心冷汗まみれになった。

 一体どういう教えだったのだ、それは。まったく想像がつかないのだが。

 ディルクは知らない。セラフィナがハイルング人の末裔であることを。そしてハイルング人たちはすぐに怪我を治してしまうために危機感が薄く、普通の人間からすると危なっかしい刃物捌きをしがちだということを。

 セラフィナもまたその事実を知らなかった。彼女にとっての料理とは、母親が作る姿が全てだったのだ。

 ディルクは悩んだ。まさか「包丁捌きが怖すぎます」と直球に伝えるわけにもいかない。しかし万が一にもお怪我をされては一大事だ。一体どうすれば…。

 そこでエルマが機転を見せた。


「申し訳ございません、奥様。なんだか手が痛くなってきてしまいました。何か他の作業はございませんか?」

「では交代しましょうか。大きいドライフルーツを、レーズンくらいの大きさにしていただけますか?」

「畏まりました」


 早々に根を上げた専属使用人に対しても、セラフィナは嫌な顔一つせずに仕事を交代する。

 もちろん手が痛くなってきたというのは嘘も方便というやつで、肉体派のエルマがこの程度で疲労を感じるはずもない。

 ディルクはエルマを視線だけで労った。彼女もまた視線だけで頷いている。

 最早阿吽の呼吸であった。




 そんなこんなで、あとは焼くだけという段階にまで到達した。

 機嫌良く型に生地を流し込んでいくセラフィナの背後で、使用人二人は健闘を讃え合っていた。勿論無言で。

 そう、あの後も危機を感じる局面が複数訪れていたのである。

 

 石窯の温度を確認しようとおもむろに手を突っ込んだり。


 うっかり割ってしまった皿を素手で拾おうとしたり。


 包丁を洗ったり。


 そう、包丁を洗うくらいのことで、彼らは機転を利かせて女主人から仕事を奪取していた。

 今回に限っては常識的な判断ができる者はこの場にいない。全部料理人ならば普通に行う動作である事は、二人の頭から完全に失念していたのだ。


 ——ディルクさん、あとは火傷くらいなものですよね

 ——そのようだ。とはいえ気を緩めてはいかんぞ

 ——勿論です


 優秀な使用人達は、既に目だけで会話するという離れ業を習得していた。


「では、石釜に入れますね」


 生地を流し入れる作業も終わり、セラフィナは二つの型を乗せたトレーを手に石釜へと向かっていく。ディルクは彼女よりも一歩早く石釜の前に滑り込み、流れるような動作でトレーを受け取った。


「奥様、ここはこの爺にお任せを」

「……はい。では、よろしくお願いします」


 ディルクは鉄扉を開けてケーキを中に置くと、薪が問題なく燃えているのを確認して立ち上がる。

 それでようやく安堵しようとして、セラフィナが困ったように微笑んでいるのを目の当たりにすることとなった。


「申し訳ありません、ディルクさん、エルマ。随分と心配をかけてしまいましたね」

「奥様……?」

「ここまで手伝って下さるなんて思わなかったのです。私が我儘を言ったせいでお二人の仕事を増やしてしまって」


 申し訳なさそうに眉を下げたセラフィナが、俯きがちにそんなことを言うので。

 ディルクとエルマは、同時に色を失った。


「お、奥様それは違いますぞ! 我儘だなんて、そのような事は思っておりません!」

「そうですよ! むしろ奥様とお菓子作りができるなんて嬉しかったです! 私達が勝手に心配して、奥様の作業を邪魔してしまって!」


 どうやらディルクとエルマの無言の奮闘は、この聡い女主人の察知するところだったらしい。

 万事控えめなセラフィナのことである。料理長がいる日は邪魔になってしまうと考えて今日を選び、一人で作ろうとしたのだろう。

 それなのにディルクとエルマが超過保護なサポートを繰り出してくるので、自分がお菓子作りをしたいなどと言いださなければと気を落としてしまったのだ。


「むしろ奥様はもっと望みを口にされてもいいくらいなのです! これくらいのこと、仕事のうちにも入りませんぞ! あと、私めも楽しゅうございました!」

「そうですとも、奥様さえよろしければ自由にお作りください! いくらでもお手伝いさせて頂きますから……あ、いえ、ご不要であれば無理にとは申しませんが!」


 あたふたと言い募る使用人二人を前に、セラフィナは驚いたように目を見開いてその言い分をじっと聞いてくれていた。しかしやがてふと表情を緩めると、小さな笑い声を漏らしたのだった。


「卑屈なことを言ってしまいましたね。二人があんまり気を遣って下さるので、申し訳なくなってしまって。ごめんなさい」


 少し砕けた口調で謝罪を口にしたセラフィナは、もうその表情に憂いを乗せてはいなかった。


「誰かと料理をするなんて久しぶりで、私もとても楽しかったです。また機会があったら一緒に作ってくださいね」


 セラフィナの笑顔に屋敷に来たばかりの頃とは比べるべくもない程の親近感を感じて、ディルクは安堵と喜びで胸が一杯になってしまった。

 本当に思いやりのある素晴らしい人だと思う。

 この女主人に生涯を懸けて仕えていきたい。ディルクは決心を胸に秘めたまま穏やかな笑みを浮かべた。




 年越しを目前にした今の時期ではあるが、火を入れた厨房はそれなりに暖かい。焼き加減の面倒を見るセラフィナのために茶でも運ぼうかという話になったとき、それは突然訪れた。


「菓子作りの調子はどうだ、セラフィナ」

「ランドルフ様!」


 なんの前触れもない当主の帰宅に、その場にいた全員が泡を食って礼を取ろうとする。その動きを制したランドルフは、未だに外套を纏ったままであった。


「お帰りなさいませ……! お出迎えもできず、大変失礼いたしました」

「今帰った。今日は少々早く上がってな」


 鷹揚に笑う当主は、そんな些細なことなど全く気にしていないといった様子だ。それは昔からの気性ではあったが、近頃は寛大な言葉に笑顔が乗るようになったと思う。これもきっとセラフィナと共に居ることで得た変化なのだろう。

 それにしても、いつのまにか窓の外が暗くなっている。時計を見れば既に午後五時半を回ったところであり、ディルクはこの状況を理解するにつれ青ざめていった。


「だ、旦那様申し訳ございません!すぐにお食事をご用意いたしますゆえ!」


 どうやらお菓子作りに夢中になりすぎていたらしい。この時間帯で準備すらできていないとは、長年仕えてきた家令としては考えられないほどの大失態である。

 セラフィナもまたこの事態に気付いたらしい。ディルク、時計、夫と視線を滑らせた彼女は、音が聞こえそうな程の勢いで花の顔を白くしてしまった。


「わ、私すっかり夢中になってしまって……! 申し訳ありません、時間も気にせずに」

「そんなことは気にしなくていい。貴女が楽しめたのなら一番だ」


 腹を空かしているだろうに、やはりランドルフは一言も咎めはしなかった。ディルクとエルマに対しても労いの言葉を掛け、当主は変わらずの笑みを浮かべている。

 やはり本当に寛大なお方だ。改めてこの敬愛する主人に仕える喜びを感じつつ、ディルクは早速支度に取り掛かることにした。


「では、すぐにご用意いたします。料理長が作り置きをしておりますから、そう時間はかかりませんのでご安心を。奥様は焼き加減をご覧になりますかな?」

「そうですね。では焼き加減を確認しながら、ご迷惑でなければお手伝いして」

「——焼き加減?」


 寛大なはずの当主が発したその声は、低かった。

 その場にいる全員からの怪訝な視線を集めつつ、ランドルフは堂々とのたまう。


「まさか石釜に手を入れて確かめる気か? 焼き加減とやらを」

「はい、そうですね。鉄串を刺して、こう……」

「そんな危ないことをするのか!」


 鉄串を刺す手付きを再現していたセラフィナは、夫の切羽詰まった大声にその手を止めた。当惑の視線を向けられてなお、ランドルフは気にした様子もない。


「私も焼き上がるまでここにいよう」

「ええっ!?」


 次いで落とされたその発言には、三人共平静を装うことができなかった。

 思わず声を上げてしまったセラフィナに、ディルクは胸の内で全面的に同意する。大貴族であるこのお方が厨房にいるだけでも異常事態なのに、その上菓子作りの面倒を共に見るなどと言い出すとは。


「あの、ランドルフ様。お疲れでしょう? お部屋でお休みになった方が」

「問題ない。ディルク、茶でも淹れてくれ」


 あ、これ言っても聞かないやつだ。

 妻が戸惑った様子で言い縋るのを制し、ランドルフは簡素な丸椅子にさっさと腰かけてしまった。有無を言わさぬその様子に、ディルクは早々に諦めて行動を開始する。その目がちょっと胡乱げになってしまったのは許して貰いたい。


 結局のところ一番過保護なのは、旦那様だったらしい。




 その後、焼きあがったケーキは使用人含めて全員で相伴に預かる事となった。ドライフルーツをたっぷりと含んだパウンドケーキは、嗅いだことのない良い香りがしてとても美味であった。

 しかしディルクはといえば、あの包丁捌きを旦那様が見たら大変なことになっただろうな、と内心肝を冷やしていた。

 セラフィナに「料理をするなら平日の午前からにいたしましょう」と伝えておいたのは、寛大にして過保護な当主が席を立った間のことである。




 

 


ありがとうございました。シリアスな本編の箸休め的な日常回でした。

次回から第三章開始します。

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