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「セラフィナ様!」
わああ、と叫んで駆け寄って来た子供達に、セラフィナは満面の笑みを浮かべて彼らを受け止めることとなった。
ここは教会に併設される孤児院である。しばらく出歩くのを控えるため、街へ出た今日こそが好機と、ランドルフに無理を言って寄ってもらったのだ。
「セラフィナ様、おけがしたってきいたよ? 大丈夫なの?」
「大丈夫ですよ、かすり傷みたいなものでしたから。心配かけてごめんなさい」
「うわーん! よかった〜! おねえちゃーん!」
「ほらほら泣かないで。お菓子を持って来たんですよ。みんなで食べてくださいね」
お菓子はランドルフが奮発してくれたのでたくさんある。彼に言わせれば「先程のリボンと合わせても安すぎる」らしかったが、セラフィナには最高の贈り物だった。
「うわああお菓子! セラフィナ様ありがとう!」
「食べよ食べよ!」
「うわーい!」
子供達はお菓子の箱を頭上に掲げてはしゃいでいる。彼らの笑顔を見ているとこちらまで嬉しくなってきて、胸が温かくなるようだった。
「おねえちゃんも一緒にたべよ!」
「わたしね、お茶を淹れれるようになったのよ!」
「ありがとう。ですが、それはみんなの物ですから、私は良いのです。仲良く食べて下さいね」
「えーっ! 今日は算数教えてくれないの?」
「読んでほしい本があったのに〜」
「ごめんなさい。今日は時間がなくて……きっとまた来ますから、その時にね」
セラフィナが来てくれないと知ると子供達は一斉に不満げな表情をしたが、渋々といった表情で食堂へ引き返していった。
最後の一人が扉を閉めるのを見届けていると、背後から穏やかな笑い声がしたので振り返る。するとこの孤児院の院長であるシスターと、後に続くようにしてランドルフが歩いてくるところだった。
「申し訳ありませんね、奥方様。何分騒々しくって」
「いいえ、子供達が元気で安心しました。こちらこそ急に訪問してしまって申し訳ありません」
シスターは皺の入った目元を優しく和ませると、そんなそんな、と恐縮した。
「うちはおもてなしができるわけでもありませんから、急ということはないんですよ。お菓子も頂きまして、ありがとうございます。久しぶりに侯爵様にも来て頂きましたしねえ」
「……それを言われると痛いな」
いたずらっぽく笑うシスターに、ランドルフは渋面を作った。彼は子供が泣くという理由で、支援する孤児院の訪問をディルクに任せているのだ。
「今日も子供たちとは遊んでくださらないんですか?」
「忘れたのかシスター。最初で最後の訪問の日、子供達が全員泣き喚くというこの世の終わりのような光景が繰り広げられただろう。だから私はここまでで良いんだ」
「ふふ、それは残念ですこと。私は今の侯爵様なら大丈夫だと思いますけどねえ」
今の侯爵様とはどういう意味だろうか。セラフィナは首を傾げたが、ランドルフは心当たりがあるのかさらに顔をしかめている。シスターは笑って、それ以上は何も言わなかった。
時刻はすでにおやつ時を少し過ぎたところだった。とりあえず今日はここまでで辞し、セラフィナはランドルフに頼んで他の孤児院にも馬車を回してもらう。彼は院長への挨拶以上の事はしないので退屈なはずなのに、嫌な顔一つせず最後まで付き合ってくれたのだった。
「今日は本当にありがとうございました。とても楽しかったです」
全てを終えた帰りの馬車の中、セラフィナは向かいに座るランドルフに向かって深々と頭を下げた。今日は街を歩くだけで楽しかったというのに、プレゼントまで頂き、更には我儘に付き合わせてしまった。振り返ってみても本当に幸せで楽しい一日だった。
「私からも礼を言う。貴女は熱心に孤児院を訪問してくれていたんだな」
「アルーディアにいた頃から続く生活の一部みたいなものですから。訪問するとこの国が豊かなのがよくわかります。子供達は学校に通い、少しずつですが勉強していますし、食べ物に困っている様子はありません。陛下の御治世のお陰なのでしょう」
「そうだな。陛下の代になりこの国は変わった。確実に良い国になっていくのを肌で感じるのは初めてのことだ。きっとこれからもっと良くなるだろう」
「私もそう思います。街を歩いていてもみなさん幸せそうで。思わず、アルーディアを、思い出しました。あの国はもっと、生きるのに苦労する国で……」
ランドルフがあまりにも優しいからだろうか。つい、こぼしてしまっていた。
最後のリスヴェル訪問で見た、淀んだ目で体を丸めて歩く人々の姿が思い浮かぶ。何か困ったことになっていないだろうか。姉上やレオナール、エミールは元気だろうか。エマや子供達、街のみんなは。
「政治の駒にしかなり得ない私が心配しても、なんの足しにもならない事はわかっています。ですが」
それは心の奥底に仕舞い込み、ただ一人で抱え続けた不安の吐露であった。セラフィナはただこうして波風を立てないようにすることしかできず、それにも大いにランドルフの手を借りてしまっている現状に、無力さを実感せずにはいられなかったのだ。
「セラフィナ」
強い声で名前を呼ばれ、自身の握りこぶしに落としていた視線を上げる。するとランドルフの金の瞳がセラフィナのそれを射抜いていた。
「貴女は良くやっている。アルーディアにいた頃も、そして今も、できる限りの力を振り絞って尽力している。その優しい心は市井の人々もきっと理解してくれるだろう」
「ですが……私はみなさんのために、何も」
「貴女は戦争が起こらないよう、外交に問題が発生しないよう、じっと耐えている。それは何かをしていることに他ならない」
ランドルフの瞳は相変わらずどこまでも真摯で、どこまでも優しい。セラフィナは彼の思いやりに促されるようにして、そっと体の力を抜いた。
「心配するのは良いが、必要以上に心苦しく思う事はない。誰が貴女を責めても、貴女を知るものは……私は、絶対に責めたりなどしないよ」
セラフィナは何だか泣きそうになってしまった。つい甘えてしまうなんて、本当に弱くて自分が嫌になる。けれど彼の言葉に安堵し、話して良かったと思うのも事実だった。
「ありがとう、ございます」
それだけ言うのが精一杯で、セラフィナは滲む声を誤魔化すように窓の外へと視線を向けた。
街は夕焼けを映して赤く染まっている。空は燃えるような赤と透き通るような紺色に二分されており、それは太陽と月が当番を変わる一場面だった。
ランドルフも微笑んだきり何も言葉を発する事はなく、二人は美しく儚い光景を眺めながら、馬車に揺られていくのだった。
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アンディゴは猥雑な歓楽街、その屋根の上を歩いていた。軽快な足取りで屋根と屋根を伝い、離れた裏路地に着地する。すると背後から怒号と悲鳴、それに何かしらの破壊音が聞こえてきて、脱出が一歩遅れれば危なかったであろう事を伝えてくれた。
あの娼館は今をもって使えなくなってしまった。マイネッケとかいう情報部長、奴の力を見誤っていたらしい。まさか二週間足らずでここまでたどり着くとは思わなかった。いち早く気配に気が付かなければ、きっと自分も捕まっていた事だろう。
アンディゴは酔っ払って歩く男達にまぎれ込み、そのまま歓楽街を抜けてメインストリートに出た。そこで初めて微かに息を吐く。
さて、これからどうしようか。これでは上からの指示も助けも期待できず、普通なら帰還するところだ。
しかしアンディゴには任務があった。何とか祖国アルーディアとこのヴェーグラントの火種を生むという、重要な任務が。そしてそれは彼にとってただの任務ではなく、自らのたった一つの願いでもある。だからこそこの仕事だけは失敗するわけにはいかないのだ。
しばらく身を潜めなければいけないだろう。上と接触するのにどれくらいかかるだろうか。だがどれだけの苦労をしたって構わない、今度こそ必ず成功させてみせる。見知った美しい姫君を刺してまで成し遂げようとした、この仕事を。
アンディゴの決意は暗く、そして固かった。彼は一瞬だけ底冷えするような笑みを浮かべたが、週末に浮かれる街にそれを見咎める者は一人もいない。そのありふれた背中が雑踏に搔き消えるまで、そう時間はかからなかった。
これにて第二章完結とさせていただきます。
お読み頂きありがとうございます。
この後閑話を2話分挟んでから、第三章開始予定です。