3
ランドルフと目を合わせた瞬間、セラフィナにはわかった。彼が自分を気遣い遠慮がちに手を差し出してくれていることが。想像よりも猛々しい風貌に少々驚き、加えてエスコートをしてもらうことに戸惑いを感じて躊躇してしまったが、その目に宿る優しさに気づいてしまえば恐ろしいものではない。
そっと触れた手は自分のそれよりも三回りほど大きく、そして暖かかった。
「こちらが家令のディルクです。もう四十年もの間アイゼンフート家に勤めてくれています」
玄関に入るとそこには10名程度の使用人が並んでいた。当主からの紹介を受け、柔らかい笑みを浮かべた初老の男性が恭しく腰を折る。
「ディルク・オットーと申します。どうぞディルクとお呼びくださいませ。使用人一同、あなた様のお越しを心からお待ち申し上げておりました」
「セラフィナと申します。こちらこそ、何かとご迷惑をおかけすることも多いと思いますが、よろしくお願いいたします」
この先彼には苦労をかけることだろうから、きちんと挨拶をしなければ。そんな思いで丁寧にお辞儀をしたのだが、ディルクはそれとわからない程度に目を見張っていた。
何か変なことを言っただろうか。セラフィナは不安を抱いたが、すぐに次の人物を紹介されたので、その疑問はひとまず傍においておくことにする。
「こちらはエルマ、貴女の専属使用人となります」
「エルマ・ベッケラートでございます。あなた様のお世話の一切を担当させていただきます。どうぞよろしくお願いいたします」
なめらかな動作でお辞儀をしたのは、黒い髪に黒い瞳を持った涼やかな印象の女性だった。顔立ちから歳はセラフィナより少し下くらいに見えたが、落ち着いた振る舞いに幼さは見当たらない。その瞳からは信頼に足る人物であることが感じられ、セラフィナは安堵の笑みを浮かべて挨拶に応じた。
「今日からお世話になります。よろしくお願いしますね」
「は、はい。精一杯勤めさせて頂きます」
エルマは頬を赤くして再度腰を折った。緊張しているのだろうか。
その後、ランドルフはその場にいた全員を紹介してくれた。アイゼンフート家では質実剛健を重んじており、使用人も必要最低限しか雇っていないらしい。高位の貴族には珍しいその家風に驚いたセラフィナだったが、実に好ましい考え方だと思った。もともと傅かれるような生活は送ってこなかったため、大勢の侍女に囲まれた宮殿での生活は馴染み難いところがあったのだ。
お茶をいただいた後は屋敷を案内してもらう運びとなった。
早々にランドルフと二人きりにされてしまったセラフィナは、にわかに緊張を覚えて身を硬くした。
半歩前を行く横顔は平均的な身長の自分と比べても随分と高い位置にあり、その堂々とした佇まいに思わず圧倒されてしまいそうになる。それではあまりにも無礼と気を取り直し、再び前を向いたものの、少しずつ湧いてきた実感によって頬に熱が集まるのを感じた。
私はこの方と結婚するのだ。
黒獅子と呼ばれ、数々の武勲を立てたヴェーグラントの英雄。戦場での彼は勇猛果敢にして一騎当千。自身の武もさることながら指揮の腕前も超一流で、彼の軍と相対すれば勝ちはないとさえ言われている。
他にも単騎で砲兵部隊の猛攻の間を駆け抜けたとか、百人で五千もの大軍を退けたとか、もはや伝説じみた逸話には事欠かない。
実際、アイゼンフート将軍の勇猛ぶりは大陸中に轟いており、戦場においてはその名を聞いただけで腰を抜かす兵士も多いという。
——せいぜい化け物には役に立ってもらわなくては。失って困らない手駒ほど便利なものもありませんからね——
セラフィナは不意に思い出した言葉に、冷水を浴びせられたような気分になった。
そうだ私は——化け物。何を浮かれていたのだろう。英雄と結婚していいような、普通のお姫様ではないというのに。
「セラフィナ姫? どうなさいました」
気付くといつのまにか一つの扉の前で立ち止まっており、ランドルフが不思議そうな顔でこちらを見つめていた。どうやら考え事が過ぎたらしい。
「も……申し訳ありません。少し、緊張しているようで……」
「そうですか、お疲れなのでしょう。こちらが貴女の部屋です。屋敷の案内はいつでもできますから、お休みになるといい」
ランドルフは真鍮製の取っ手に手をかけると、重厚感ある扉を開け放った。
果たしてその中には居心地の良さそうな空間が広がっていた。ちょうどいい広さのその部屋はペールグリーンで統一されており、シンプルで使い勝手の良さそうな家具が配置されている。しかし一つ一つに細かな意匠が施されており、高級品であることが見て取れた。
「まあ……」
こんな素敵な部屋を頂けるなんて。嬉しさと申し訳なさが胸の内に渦巻いて、セラフィナは小さく呟いたきり押し黙ってしまった。
「姫?もしや、お気に召しませんでしたか」
しかし、ランドルフはその沈黙を不興と取ったらしい。頭上から降ってきた憂いを帯びた声に、セラフィナは慌てて顔を上げた。
「そんな、とんでもありません! 私、あまりに嬉しくて、言葉にならなかったのです!」
必死に言い募るセラフィナに、ランドルフは驚いた顔をしていたが、ややあって小さく微笑んだ。それは初めて目にする彼の笑顔だった。
「左様ですか。それならば良うございました」
「はい、本当にありがとうございます」
ランドルフは部屋の中へとセラフィナを促すと、そのままバルコニーへと踏み出した。確かここは三階だったはずだから、ひょっとすると眺めがいいのかもしれない。期待に胸を膨らませてその後に付いて行くと、そこには想像以上の景色が広がっていた。
まずは屋敷の前に広がる庭が、左右対称の美を持って見る者を圧倒する。その先には首都ブリストルの街並みが広がっており、赤い瓦屋根が太陽光を受けて煌めいていた。そして中央に荘厳な佇まいを見せつけるのは、王族達が暮らすベルケンブルク宮殿である。
あの宮殿に暮らしていた頃は、決して見ることのできなかった光景。
眼に映る全てが新鮮で輝いて見えるのは、今まで生きてきた中で初めての事だった。