16
セラフィナが復帰してから初の週末。果たさねばならない目的のために朝から屋敷に留まっていたランドルフは、廊下の先に必要不可欠な協力者の姿を見つけて声を掛けた。
「エルマ」
「はい、旦那様」
エルマは素早く歩いてランドルフの前に立ち腰を折る。雇って以来彼女が怯える様子のないことを、今この時ほど感謝したことはなかった。
「あーその、少々聞きたいことがあるのだが」
「はい、なんなりと」
「今時の若い女性は、どんな物を贈られたら喜ぶ」
恥を忍んでこんな質問をするのは、ただ一つ、セラフィナに贈り物をするためである。
悩んでみても何を贈れば良いのか見当がつかず、まず情報収集から入る事にしたのだ。
ランドルフの問いにエルマは涼しげな目を一瞬見開くと、すぐに全てを察したという顔をして頷いて見せた。
「奥様への贈り物でございますね」
「あ、ああ。そうなのだが」
照れ臭かったのでわざと婉曲な物言いをしたというのに、有能すぎるのも時に困りものだ。
「そうですね…奥様のご趣味は、慎ましいの一言に尽きます」
「ふむ。それは、確かにな」
セラフィナはいつもゴテゴテと飾り立てることをせず、化粧は薄く透明感があって、すっとそこに佇んでいる。ただそれだけで彼女の美しさ清廉さが引き立ち、とても好ましく思っていたのだが。
「アクセサリーの類などはあまり好まれませんし、ドレスも最初にご用意したものから殆ど買い足されておりません」
「な…何だと!?」
服などどれも同じと考えて生きてきたランドルフには、どうやら女性のおしゃれに対する審美眼が備わっていなかったらしい。彼女はどんなドレスでも最高に可愛いので、着ているものに重要性を感じなかったというのもあるが、それにしたって服装が代わり映えしないことに気が付かなかったとはあんまりな話である。
「侯爵夫人として恥ずかしくないようにと、外出する際に足りないと感じたものは買うように申し付けてくださいます。しかしそれも必要最低限で、欲しいからとお買求めになることは一度も無かったように思います」
エルマもセラフィナの慎ましさには悩みを持っているようで、顎に手を当て困り顔をしている。ランドルフはあまりのことに頭痛がしてくるような気がした。
「ですので、私にも奥様のお好みはよく分からないのでございます。ただ、僭越ながらご提案が」
「提案?」
「はい。お好みが分からないのなら、奥様をお店までお連れしてお選びいただくというのはいかがでしょうか」
なるほどそれは名案のように思われた。
ランドルフは元よりこそこそするようなことは苦手で、今までの戦場でも正面突破してきたからこその黒獅子将軍なのである。何より彼女が一番欲しいものを見繕えるのなら、それが一番ではないか。
「幸い本日は奥様にもご予定はございませんし、今からでもお声掛けをーーー」
「参考になった。礼を言う」
エルマが言い終えるよりも早く、ランドルフはさっさと踵を返していた。その足が明らかに女主人の部屋へ向いていることを察したエルマは、独り微笑んでいたのだった。
*
「やっぱり素敵な街ですね。いつでもこのような活気が?」
「一番の大通りだからな、ここは。大体の店が揃っている」
ブリストルの街は相も変わらず明るい活気に満ち満ちていた。明るい色の花を店先に出す花屋、甘い匂いを漂わせる菓子店に、仕立て屋などはウィンドウに自慢の一品を飾っており見るに華やかだ。街にはパレードの時訪れて以来とのことで、初めての通常時の街の雰囲気に興味津々といった様子である。
「見ているだけで楽しいです。ランドルフ様、連れて来てくださってありがとうございます」
「ああ、そうか。良かったな」
——見ているだけでは駄目なのだ、今日は。
ランドルフは口元まで出かかった言葉を無理やり飲み込んだ。
街へ出ようと誘った時、とっさに「息抜きをしたいので付き合ってくれ」という言い方をしたのはどうやら正解だったらしい。何か買ってやるなどと言えば彼女が遠慮してしまうだろうと思ってのことだったが、この調子では店に入ることすら難しくなるところだ。
「どこかお目当がおありなのですか?」
「いや、久しぶりに街を歩きたくてな。……ん?」
何気なく周囲を見渡すと、通行人の視線がチラチラと注がれていることに気付いた。
それはそうだろう。ランドルフはシルクハットを目深に被って顔がわかりにくいようにしているものの、この図体なのでそれだけで目立つし、セラフィナに至ってはこの美貌だ。地味なグレーのウールコートで覆われていても、その輝きは隠しようもない。
「もう少しストールを高く巻いておくといい。……ふむ、こんなものか」
ランドルフはセラフィナの纏うストールの端を手に取ると、そのまま首に巻きつけてやった。
口元が隠れたのを確認してひとまず満足する。セラフィナは疑問を抱きつつも大人しくされるがままになっているようだった。
無遠慮な視線も許しがたいが、何よりも注意しなければならないのはアルーディアの刺客だ。追われている今事を起こす可能性は低いが、別の者がいるとも限らない。側を離れさえしなければ守り切る自信はあるものの、用心するに越したことはないのだ。
「怪我が治って以来外には出ていないのだったな?」
「はい、今はまだ」
「しばらく出ない方がいい。私が付いていれば良いが、犯人がまだ捕まっていないのだから」
「ですが、あれは陛下を狙ってのことですのに、そこまで用心する必要が?」
ランドルフがあまりに真剣に話すせいか、セラフィナは眉を下げて不安顔をしている。真相を明かすわけにはいかないので、せめて安心させようと何のことはないとばかりに笑みを浮かべて見せた。
「何、念のためだ。貴女にこれ以上何かあっては事だからな」
「はい。ランドルフ様がそう仰るのなら」
「あと、前言っていた旅行なんだが、流石にやめておくべきと思ってな」
流石にこの状況で呑気に旅行と洒落込むわけにもいかない。行きたいと言ってくれたセラフィナには申し訳ないが、しばらく大人しくしているしかないだろう。
「なるべく外出に付き合うようにするから、ここは辛抱してもらえるか。窮屈な思いをさせる。すまない」
「いいえ! 私は屋敷にいるのも好きですから!」
それまで不安そうに瞳を揺らしていたセラフィナが、ランドルフが謝った途端に勢いつけて変な理屈を述べ出したので、少し笑ってしまった。
まったくこの人は、すぐに他者のことばかり気にかけるのだから。
「そうか。時間が余るなら、せめて本の調達なり何なりエルマに頼むといい。……さて、立話をしていてもしょうがないな。そろそろ行くぞ」
「はい。参りましょう」
セラフィナはもう表情から不安を消し去り、ニコニコと嬉しそうに歩き始めた。せっかく来たのだから少しでも楽しんでもらいたい。だから決してその笑顔が曇ることのないよう、己だけは常に周りを警戒していなければ。
ランドルフが周囲を一瞥すると、顔を青ざめさせた人々はすっと目を逸らしていく。黒獅子将軍であると気付かれたかもしれないが、話しかけてこないのならそれでいいのだ。
「見てください、おもちゃ屋さん! 楽しげですね」
「ああ、賑わっているな」
「このお店は何でしょう? とても色鮮やかですが……仮面、のような」
「ああ、カーニバル用品店だな。オフシーズンでも観光客向けに営業している」
セラフィナは街のいたるところに目を留めては楽しそうにしている。そのくるくる変わる表情を見ているだけで、とてつもない充足感を覚えるのだから単純なものだ。
ランドルフとしても大通りをゆっくり歩くのは久しぶりだった。
今までずっとがむしゃらにやってきたのだ。気付けば戦争で手柄を立てて将軍になり、侯爵位も継いでしまって、その地位に見合うよう脇目も振らず仕事に打ち込んできた。こうして妻と二人で街を歩く、ただそれだけで安らぎを得られようとは、少し前の自分なら考えもしなかっただろう。
「これは、古くて大きいお店ですね。食堂でしょうか」
セラフィナが見上げているのは、漆喰で塗り固められた無骨な造りの店だった。その大きさ以外にさして取り柄のない店構えには覚えがある。
「ああ、懐かしいな。ここには昔よく通った。量が多くて美味い店だ」
「昔、ですか?」
「ああ、士官学校の頃の話だよ」
「士官学校」
何が楽しいのか、話の続きを期待する目がこちらを一心に見つめていた。
そういえば今のセラフィナくらいの頃の話だなと自覚して、彼女との年の差に今更の衝撃を受ける。ランドルフにとっては遠い昔に過ぎ去った青春時代、その貴重な一分一秒を、セラフィナは今この時もすり減らしているのだ。
やはり少しでも早く自由にしてやらなければならない。痛む胸の内を無視して決意を新たにしたランドルフは、妻の期待に応えるべく口を開くことにした。
「別に面白い話でもないがな。ブリストル郊外に士官学校があるんだ。入学が決まり、私は十七で領地から出てきて寮に入った。全寮制で滅多に外には出られなかったが、連休になると申請して皆で街に出たものだ。多くの学生は貴族の子弟だったが、送金は禁止されているから士官学校で貰えるわずかな給金しか持っていない。だから安い店への嗅覚がすごくてな、ここは全員が認める店だった」
「ランドルフ様の学生時代ですか。何だか想像がつきませんね」
セラフィナは若かりし頃のランドルフを思い描こうとして失敗したようだった。首を傾げ思案顔をした彼女はいちいち可愛らしい。
「一般的な士官学校生と何ら変わりないさ。まあ当時から上背があったから、教官や果ては後輩まで、よく目が合うせいで面倒ごとを持ちかけられることが多かった気がするが」
そのせいで雪山行軍訓練で遭難した時もなんだかんだで指揮を取る事になった。しかも倒れた同級生を背負って。他にも班長だの寮長だの、押し付けるように決まった仕事は数えれば切りがない。
店の扉には定休日の札がかけられていた。残念ではあるが女性が喜ぶような店でもないため、しんと静まり返る店先を横目に歩き出す。
周囲には当時仲間たちと訪れた店が点在していた。あれは先の大戦で戦死した友人の、気に入りの酒場だったか。
「私はその方達のお気持ち、よくわかるような気がします。ランドルフ様はとても頼りになるお方ですから」
「なんだ世辞か? 私相手に気を回す必要はないぞ」
「いいえ本心です。ランドルフ様ほど信頼できる方はいません。皆さんそれが当たり前すぎて、いちいち口に出さないんですよ。もちろん私も、とても信頼していますから」
青く輝く目がランドルフを見つめる。ストールに隠された口元が笑んでいるのが見なくとも伝わってきた。
「……貴女にそう言って貰えるなら本望というものだ」
そう、本望だ。この信頼を裏切らないためなら、何だってできるだろう。