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パチン、と小気味良い音を立てて最後の糸が切り離されると、セラフィナは改めて完成した品を眺め、ひとまずといった調子で頷いた。
「これなら、お渡ししても良いでしょうか」
結婚式の翌日から作り始めたお守り袋が、ようやくの完成を見たのだった。初めは慣れないハイルング文様だったことと、他の仕事と並行していたことによって遅々として進まなかったのだが、この十日間で思わぬ休暇を得てしまったため一気に完成させることができたのである。
明日から通常の生活に戻していく予定なので、何とか今日中に終わらせることができて良かった。セラフィナがほっと胸を撫で下ろしていると、昼食の片付けを終えたエルマが興味津々といった様子で近付いてきた。
「完成されたのですか? 私にも是非拝見させて頂きたいです」
「見よう見まねなので、そう大した出来でもありませんが」
「ご謙遜を。まあ、なんて綺麗な!」
エルマはその出来栄えに思わず驚嘆の声を上げていた。セラフィナは遠慮がちだが、そのお守り袋の出来は実際素晴らしいものだったのだ。
まず目につくのは十色もの微妙な差をつけた青い糸を使い、滑らかに表現されたグラデーション。生地の色は渡す相手をイメージして黒を選んだのだが、鮮やかな青がよく映えて見えた。縫い取られた意匠は花や草を文様化したもので、この国の文化とはひと味違った異国情緒を感じさせる。
その一つ一つが職人技とも言うべき技術の集合体で、素人目にはどうやって刺しているのか想像すらつかないだろう。
「本当に素晴らしいお手でいらっしゃいます。こんな綺麗な刺繍は初めて見ました」
「大げさですよ。私なんてまだまだですから」
「控えめに言って職人技だと思いますが…」
実際セラフィナは自分の実力を素人に毛が生えた程度と考えている。何故なら母アウラは娘など足元にも及ばないくらいの腕前の持ち主で、恐らくあそこまでの仕事ができるようになる日は永遠に来ないだろうと思えたから。
「旦那様に差し上げるのですよね?」
「はい。受け取っていただけると良いのですが」
「ご安心ください。絶対に、確実に、感激なさるに決まっていますので」
エルマは奇妙なほど自信に満ちていたのだが、断言されると勇気が湧いてくるのも確かだった。彼女が退室していった後、もう一度気合いを入れ直したセラフィナは、仕上げに取り掛かるべく行動を始めた。
紙に包んでおいたシヤリの実を取り出して机に広げ、エルマが用意してくれたウッドビーズも隣に並べる。セラフィナはその二つを見つめて少しばかり考えて、本来は半々にすべきシヤリの実を、新しいお守り袋に全て詰め込む事にした。
ベルヒリンゲンの話によればシヤリの木はハイルング人の力を吸っているのだから、もしかすると怪我に効くなんてこともあるかもしれない。それは全くの憶測でしかなかったが、少しでも軍人であるランドルフの役に立つならこんな嬉しいことはないのだ。
まず母から譲り受けた方に新品のビーズを詰める。久しぶりにその膨らんだ姿を見たら、なんだか懐かしく安心するような気がした。そして次に新しく完成した方にシヤリの実を詰めていく。実はぴったりと全て収まり、ボタンを留めて表を確認すると、それなりにお守りらしくなったように思われた。
「どうかあの方を、お守り下さい……」
セラフィナはそれを胸に抱いて祈る。中に納めたシヤリの実が、任せろと言わんばかりに音を立てた。
ディルクに明日から仕事を再開する旨を告げると大いに心配されてしまった。大丈夫だと微笑めば、彼は眉を下げてはいたものの、無理をしないと約束することによって頷いてくれた。
それに先立って今晩からはランドルフの出迎えも再開することにしたセラフィナは、帰宅の一報を受けて玄関に立つ。ディルクは最初止めようとしたのだが、言っても無駄と察したらしく今は心配するだけに留めてくれていた。
「奥様、本当にお身体はお辛くございませんか?」
「大丈夫ですよディルクさん。ありがとうございます」
冬の昼間は短い。夕飯を前にして外は既に薄暗闇に包まれている。
玄関が開いた瞬間冷たい北風が吹き込んできて、セラフィナは思わず身をすくませた。
「おかえりなさいませ、ランドルフ様」
「セラフィナ! もう良いのか?」
ランドルフは久しぶりの妻の出迎えに驚いたようであった。
とっくに体力が戻っていることは知っているはずなのに、彼は最近ずっとこの調子だ。定時で帰ってきては寝室に顔を出し、体調はどうだと気を遣ってくれる。
元気なのに寝ているしかない状況なので、そうして心配されるたび恐縮するセラフィナだったが、やはり好きな人に気にかけてもらえて嬉しくない筈はないのだった。
「はい、明日から通常の生活に戻していこうと思います」
「本当に大丈夫なのか、無理をすることはないぞ。ああ、薄着過ぎるのではないか? もっと暖かくしたほうがいい」
別段薄着であるつもりもなかったし、大丈夫と伝えようとしたのだが、ランドルフは行動を起こすのが早かった。彼は自身の毛皮の襟巻きを取り外すと、問答無用でセラフィナの首に巻きつけてしまったのだ。
それだけでは飽き足らず今度は手に持っていた外套を肩にかけられる。それはどちらもサイズが大き過ぎて、襟巻きはセラフィナの鼻まで覆い尽くすようなボリューム感だったし、外套に至っては床を引きずる有様だった。
「旦那様、それでは奥様はうまく動けませんよ」
「……む。それもそうか」
ネリーの苦笑含みの指摘に、ランドルフは今気付いたと言わんばかりに目を見張った。微笑ましいその光景に使用人達も揃って笑顔を見せる。
本当にここはなんて暖かいのだろう。夫の温もりが残る外套を手で押さえながら、セラフィナは切ないほどの幸せを噛み締めていた。
久しぶりの食堂での夕食を終え、セラフィナは緊張の面持ちでランドルフの執務室の前に立ち尽くしていた。
後ろ手には完成したばかりのお守りを携えて。
ランドルフは夕飯の後に侯爵としての仕事を片付けることを日課としている。戴冠式を終えた今は定時で帰宅できるようになったため、溜まっていた分を精力的にこなしているようだ。
今日に関しては先に寝ていていいと言われてしまい、このままではお守りを渡す決心が鈍ると考えたセラフィナは、こうして夫の執務室を訪ねて来たのである。
しかしここへ来て躊躇いが生まれた。今渡したいのは自分の都合で、仕事の邪魔をしていいほどの用事ではない。
やっぱり明日にしよう。そう決めて踵を返したセラフィナは、背後でドアの開く音を聞いてその足を止めた。恐る恐る振り返ると、案の定ランドルフが自室から出てきたところだった。
「やはりか。どうしたんだ」
「ランドルフ様……! どうして」
「軽い足音がして気配がドアの前で止まったからな、貴女だろうと思った」
微かな足音と気配だけで相手を特定しているとは流石だが、結局彼の邪魔になってしまったらしい。
それでもこうして仕事を中断させたのだからせめて本来の目的は果たすべきだろうと、セラフィナは勇気を持って夫と正面から向き合った。
「お、お仕事の邪魔をしてしまって申し訳ありません。あの、これをお渡ししたかっただけなんです」
ランドルフの大きく骨ばった手にお守りが渡った瞬間、自身の手がピクリと震えるのを止めることができなかった。彼は目を見開いたまま、その黒いお守り袋を凝視している。セラフィナは居た堪れなくなって赤い顔を隠すよう俯いた。
「あの、それは、ハイルング人に伝わるお守りなんです。私が縫いましたので、あまり見栄えはしませんが……その、ご迷惑でなければお持ち下さい!」
迷惑そうにしていたらと思うと顔を上げることができず、セラフィナはそのまま一礼すると、逃げるように背を向け走り出そうとした。
「待ってくれ!」
しかしそれは叶わなかった。何故なら、ランドルフの手がいとも簡単にセラフィナのそれを捕らえてしまっていたから。
「すまん、よく聞こえなかったのだが……これを、貴女が縫ってくれたと、そう言ったのか?」
「は、はい。そうです」
「そうか。……そうか」
ランドルフは噛みしめるように頷いたようであった。しばらく手の中に収まるお守りをじっと眺め、次に向けられた金の瞳には、明確な喜びが浮かんでいた。
「ありがとう、セラフィナ。こんなに素晴らしいものを。このお守りがあれば何にも負ける気がしない」
受け取ってもらえて、しかも、自惚れでなければ喜んでくれているように見えるのは気のせいか。セラフィナにはどこか目の前の光景が現実味無く感じられたのだが、じわじわと高まる実感に頬を染めていった。
これくらいでは今までの心遣いに対するお返しなどになりはしないけれど。こうして自分にできることから、少しずつやっていけたらいい。こんな風に喜んでもらえるのなら、それはセラフィナにとって幸せなことだから。
「ん? まてこれは、祖父が博物館に寄贈したお守りにそっくりではないか?」
「……あ!」
そうだ、今まで色々なことがありすぎてすっかり忘れていた。あのお守りは本物なのだ。自身がハイルング人であることを明かした時点で、それを彼に伝えるべきだったのに。
「申し訳ありません、うっかりしておりました。あれは本物です。正真正銘、当時のハイルング人からの贈り物で間違いないでしょう」
ランドルフは目を見開き、ひどく驚いているようだった。それはそうだろう、いままで真贋のはっきりしなかったお守りが本物だと判ったのだ。
「……そうだったのか。では、我が家はハイルングの消失当時、彼らと何らかの関わりがあったというわけか」
「はい。お守りを渡すぐらいですから、きっと悪い関係ではなかったはずです」
「ならば当時のアイゼンフート家の者が、少しでも彼らの力になっていたら良いな。私はそうだと信じたい」
ランドルフの思いやりの言葉に、セラフィナは胸が温かくなるのを感じた。
こんなふうにハイルング人のことを想ってくれる人がいる。それはとても嬉しいことだ。それが彼であれば尚のこと。
「はい。私もそう思います。アイゼンフートのご先祖様は、きっと正しいと信じることを成し遂げられた事でしょう」
「そうだな、ありがとう。贈り物だけでなく、何十年の謎が解けてすっきりした気分だ」
ランドルフは本当に晴れ晴れとした顔をしている。そんな彼を見られただけで、渡すことができて良かったと心から思うセラフィナなのであった。