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妖精と黒獅子  作者: 水仙あきら
第二章 戴冠式の夜
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11

 背後から微かな寝息が聞こえ始めて、ランドルフは慎重に体を反転させた。

 するとそこではセラフィナが無防備な寝姿を晒している。

 いつもなら身の内に湧き上がる欲望との攻防が始まるところだが、この日は違った。


 彼女が、生きている。


 暖かい体で、何事もなかったかのように、当たり前に息をしている。

 ハイルング人であれば傷がすぐ治るのは当たり前のことなのだろうが、ランドルフはこの奇跡に感謝せずにはいられなかった。じっと寝顔を見つめれば、叫びだしたくなる程の安堵が胸に湧き上がってきて息がつまる。

 無意識のうちに手が伸びて、金の髪を掬い取っていた。

 触れるべきではない。昼間はつい抱きしめてしまって、後になってから後悔した。これ以上近付いても手放し難くなるだけだ。わかっている。

 それなのに、今はその存在を確かめずにはいられなかった。金の一筋は柔らかく艶やかで、幻でもなんでもない事をランドルフに教えてくれる。

 良かった。本当に…良かった。

 ランドルフは独りごちて、いつもなら再び寝返りを打つところを、今日だけはそのまま妻を見つめている事にした。どうしても目が離せなかったし、ようやくの安息を得た体が徹夜の疲労を盛大に訴え始めていたから。

 程なくして泥のような眠りが訪れる。安心しきったように微かに微笑むセラフィナの寝顔を眺めながら、ランドルフはゆっくりと目を閉じた。


 *


 胸元に柔らかな熱を感じて、間髪入れずに目を覚ました。

 そしてすぐに視界に飛び込んできたプラチナブロンドに、ランドルフは口をついて出そうになった叫びを無理矢理飲み込む事となった。

 丁度自分の顎の下に収まった小さな頭。背に回された白くしなやかな腕。そして腹筋のあたりに押し付けられた柔らかな感触の正体は。

 息を飲む音が明け方の薄闇に包まれた部屋に場違いなほど大きく響いた。

 ランドルフが狼狽したのも無理もない。何故なら、愛しい妻が抱きついてきたのだから。

 セラフィナはどうやら熟睡の極地にいる様だった。深い寝息は一定の間隔を保っていたし、前髪の隙間から覗く睫毛は微動だにしないままゆるりと伏せられている。

 なんなのだこの状況は。こんな事があっていいのか。いや駄目だろう。ああでも、暖かくて、石鹸の清らかな良い香りがする。そして何よりも、この押し付けられた膨らみの柔らかさは極上と言って差し支えない。というか、思っていたよりも、かなり大き


 ランドルフは脳内で自分の横面を張った。

 むしろグーでぶん殴った。


 けだものか私は。何という邪な想いを抱いている。セラフィナは無意識に抱きついて来ただけだ。もしかすると、大怪我を負った恐怖心からの反応かもしれない。いくら殆ど怪我は治っているとはいえ、こんなに体調の悪そうな女性相手に考えて良いことではないだろう。そもそも手放すのではなかったのか。守るのではなかったのか!


 恐ろしい黒獅子将軍もこうなってしまえば形無しだった。赤くなったり青くなったりしつつも自らの煩悩と戦うランドルフを、更なる悲劇が襲う。

 セラフィナが身じろぎをして、滑らかな頬を硬い胸板に擦り付けてきたのだ。


 駄目だ、もう限界だ。


 声にならない叫びをあげたランドルフは、衝動を押さえ込むあまりに逆に冷静になった。

 全ての思考を削ぎ落としたまま、細心の注意を払って華奢な腕から逃れると、次に素早い身のこなしでベッドから降りる。その間わずか五秒、しかも無音で成し遂げたあたりは流石だった。

 セラフィナを起こさずに済んだことに安堵する間も無く、ランドルフは早足で歩き出す。

 向かったのは備え付けの浴室だった。結婚してから一度も使われた事のない寒々しい空間は、この熱を冷却するにはうってつけと言えた。

 冷えた真鍮の蛇口を勢い良く捻ると、ランドルフは寝間着姿のままで流れ出してきた水を頭から被る。

 ちょっとした滝の様な勢いで吹き出すその水は、真冬の冷気に晒されて凍てついていた。しばしの時間無言で冷水を浴び続けたランドルフは、あまりの情けなさに膝をつきそうになった。


 下衆にはならずに済んだ。しかし自らの内に燻る男の性が憎らしくて仕方がない。

 しっかりしろと心の中で檄を飛ばす。セラフィナのことは、いつか別々の道を歩み始めるその時まで必ず守り切らねばならない。一番の敵は自分自身でした、だなんて笑い話にもならないではないか。

 思考回路が徐々に冷えていくのを感じながら、ランドルフはしばらくの間真冬の水に晒され続けたのだった。




 二度寝をする気になるはずもなく、少し早い時間ではあるが起き出してしまうことにした。

 自室に戻っていつもの軍服に着替えたランドルフは、朝食を経てようやく落ち着いた心に背中を押され、セラフィナの様子を見に寝室へと向かう。彼女は既に目を覚ましており、上半身を起こした状態で迎えてくれた。


「ランドルフ様、おはようございます」


 その微笑みは昨日までと変わらぬ愛らしさだ。ランドルフは多大なる安堵と罪悪感を抱えながら、極力いつもと同じ様に挨拶を交わした。


「おはよう。よく眠れたか」

「はい、随分すっきり致しました。こんなによく眠れたのも久しぶりというくらいです」

「そうか、それなら良かった」

「ランドルフ様がお目覚めになったのにも気が付かないなんて…。本当に失礼いたしました」

「貴女は体調を戻すことだけに専念するといい。今は何も心配せず、ゆっくり休んでくれ」

「…はい。ありがとうございます」


 セラフィナは花がほころぶ様な笑みを浮かべた。心なしか頬が色付いて見えるし、昨日よりは体調も回復している様だ。

 彼女の元気な姿を確認して罪悪感よりも喜びが優ったところで、無情にも心の均衡を打ち砕くような出来事が起こった。


「ランドルフ様、襟章が曲がっています」

「ん? こうか」


 指摘を受けて襟元に触れるが、鏡無しで直すことは困難だったらしい。セラフィナは少し笑って、「屈んで頂けますか?」と言った。

 この時、妻の笑みに見惚れるまま何も考えずに腰を折ってしまったことは、らしくない失策だった。しなやかな腕が伸び、必然的に花の顔が至近距離まで近付いてくる。

 喉をくすぐる細い指の感触。息遣いすら感じられる距離。何も付けていなくとも色付いた唇は、愛らしくも艶めかしい。


「はい、できました。……ランドルフ様?」

「あ、ああ。ありがとう」


 妻が朝の身支度を整えてくれる。夢の様な光景に、ランドルフは一瞬頭を真っ白にしてしまった。無様に掠れた礼にもセラフィナは特に疑問を抱かなかったらしく、行ってらっしゃいませと微笑む様子には普段との違いは見当たらない。


 荒れ狂う心を持て余したまま、ランドルフは寝室を後にしたのだった。


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