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妖精と黒獅子  作者: 水仙あきら
第二章 戴冠式の夜
31/79

9

 セラフィナはその日のうちに宮殿を出ることとなった。時間は夜に決まったのだが、これは昼間は人が多いため目立つということと、ランドルフが事件の詳細を把握するのに陸軍省に顔を出すことになったためだ。

 セラフィナはとても長い時間この忙しい夫を拘束してしまったことに気付き、顔を青ざめさせたものだったが、彼は至極真面目に「貴女が大変な時に優先すべき事など何もない」などとのたまうので、今度は顔を赤くする羽目になった。

 

 そんな経緯があって、セラフィナは今一人で穏やかな時間を過ごしている。

 夜までは完全な自由時間なのだ。ベッドでゆったりと微睡んでいたセラフィナは、突然響いたノックの音に身を硬くした。

 おかしい。自分がここにいることはランドルフとベルヒリンゲン、一度報告に来てくれたというシュメルツくらいしか知らないはずだ。彼らは先程出て行ったばかりで、帰って来るには早過ぎる。人払いをしてくれたと聞いていたのだが、もしかして体調の悪い人が来たのだろうか?だとすれば追い返すことはしたくないが、見知らぬ相手に元気な姿を見られることは避けたい。

 逡巡しているうちに恐る恐るといった様子で扉が開いていく。固唾を呑んで見守った末に顔を出したのは、大事な親友その人であった。


「セラフィナ——!」


 絶叫したレナータは、そのまま駆け出すと思い切りセラフィナに抱きついてきた。彼女の軽い体を抱きとめ目を白黒させていると、続いて現れた人物に度肝を抜かれる。


「へ、陛下!?」

「ああ、そのままでよい。よいからそれを宥めてやってくれ」


 ディートヘルムは鷹揚に頷くと、自身もセラフィナが横たわるベッドに近づいて来た。

 とんでもない賓客の登場に固まるセラフィナだったが、ともかく泣き続けるレナータを落ち着かせようと彼女の背を撫でることにした。


「レナータ、ごめんなさい。心配かけてしまいましたね」

「セラフィナ、ごめん……ごめんね! 痛かったでしょう?」

「大丈夫ですよ、もう治りましたから。泣かないで下さい、ね?」

「わあああん!」


 宥めれば宥めるほど泣くとは一体どうしたら。昨夜の威厳など見る影もない子供のような姿に、そういえば以前もこんなことがあったなと思い出す。

 そうだ、ベルティーユを庇って怪我をした時も、こんな風に泣かれてしまったのだ。思い出してみるとベルティーユとレナータはどこか似ているような気がする。見た目は全然違うのに、芯が強くて感情に従うことのできる、好ましい素直さが特に。


「ずっとこの調子でな。しかし護衛が出歩くのを許してくれんので、こんな時間になってしまったのだ。しかし元気そうだな。安心したぞ」

「はい、陛下。ご心配をおかけし謹んでお詫び申し上げます」

「まったくお前は相変わらずよな。おいレーナ」


 ディートヘルムはレナータの首根っこを引っ掴むと、無理やりセラフィナから引き剥がしてしまった。この乱雑な扱いを見るのも久しぶりで、なんだか懐かしい思いがした。


「ううっ、ディート? な、なにするのよお!」

「お前は何をしに来たか忘れたわけではあるまいな? しっかりせぬか」

「……そうね、そうだったわ。私ったら我を忘れて」


 レナータはようやく泣き止む努力を始めた。未だ声は震えていたが、目尻をぬぐい、ハンカチで鼻をかみ、息を大きく吸うようにすると、昨夜の彼女が戻って来る。セラフィナも彼女の凜とした様子に導かれるようにして上半身を起こし、滲むエメラルドグリーンを正面から見返した。


「セラフィナ。此度のこと、心より感謝します。危ないところを助けてもらい、本当にありがとう」

「余からも礼を言う。あの時は周囲の気配を拾いきれず、お前を危険に晒してしまい、悪かった」


 この国の最高権力二人からまともに頭を下げられ、セラフィナは恐慌状態に陥った。


「おやめ下さい! 一臣下にそのように頭を下げられては……!」

「そうは言っても、感謝してるの、本当に」

「もう十分ですから、どうか……!」


 セラフィナの慌てように、二人は苦笑しつつも頭を上げてくれた。その顔に安堵が浮かんでいるのに気付いて、セラフィナは自分が一つの思い違いをしていたことに気付く。

 ハイルング人だから怪我の心配をする必要はないなどと考える人は、今自分の周りには一人もいないのだと。こんなに温かい人たちに恵まれて、本当になんて幸せなのだろう。


「かようなご厚情をいただき、ありがたき幸せにございます。レナータ、私はこの通りですから、もう気にしないで下さいね。あなたが無事で本当に良かった」


 するとレナータがまたしても涙腺を決壊させてしまったので、セラフィナは再び抱きついてきたレナータを受け止めることとなった。小さな背中を優しく叩いていると、ふとディートヘルムと目が合う。


「ベルヒリンゲン公から聞いたぞ。お前、我がフンメル家が六百年守り続けた秘密を聞き出すのに成功したらしいな」

「……誠に恐れ入ります。陛下は、怒っておられるのですか?」

「いや、大したものだと思ったまでよ。翁が言っていたが、お前の目を見ていたら無碍にできなくなってしまったらしい。まあ、余もお前のことは信用しておくこととする」

「ありがとう存じます」

「黙っていたこと、許せよ。皇帝としてこの秘密だけは墓場まで持って行かねばならんのだ。でなくば彼らの安寧が崩れ去るやも知れんのでな」

「とんでもないことでございます、陛下。あなた様はこの国の皇帝として正しいことをなさったまで。今までハイルング人を守ってくださいましたこと、感謝の念に絶えません」


 ディートヘルムは皇帝であるにもかかわらず謝罪を口にしたが、セラフィナからすれば謝ってもらうことなど何もない。

 この国はずっとハイルング人を守ってくれていたのだ。かつて皇后であった人との約束を、六百年もの間忘れないままに。ハイルング人の末裔として感謝こそすれ、教えて欲しかったなどと責めるはずもない。


「うむ、なら良い」


 ディートヘルムはやはり真意の見えない笑みを浮かべている。あっさり頭を下げたと思ったら次にはもういつもの調子を取り戻しているのだから、やはり掴み所のない人だ。

 

 皇帝夫妻が帰った後、セラフィナはこんこんと眠り続けた。やはり体力が戻っておらず、少し起きているだけですぐに睡魔が襲ってくるのだった。



 ベルヒリンゲンに挨拶を済ませた後、セラフィナは頭から外套を被り、ランドルフに支えられるようにして宮殿を出た。馬車は既に手配されており、御者には怪我人を運ぶと伝えてくれていたようだ。無事に乗り込んで外套を外すと、二人は同時に安堵のため息を漏らした。


「緊張しました。誰かに見られることはなかったのでしょうか?」

「ああ、それは問題ない。周囲には人の気配はなかったからな」


 傑出した武人であるランドルフが言うのだから間違いないのだろう。セラフィナは今度こそ体の力を抜くと、馬車の角にもたれかかってしまった。


「大丈夫か? やはり体が辛いんだな」

「はい、少し。それに、安心したら何だか気が抜けてしまって」

「遠慮せず横になるといい」

「すみません、では……」


 セラフィナは促されるまま横になることにした。以前なら無理して座ったままでいただろうが、ランドルフが何度も頼れと言ってくれるので、最近は少しならいいのかもしれないと思うようになっていたのだ。

 睡魔はすぐにやって来た。意識が沈む直前、何か温かいものが体にかけられたような気がした。




 心地の良い温かさに包まれている。

 こんなに安心できる温度はきっと他にない。セラフィナはこの温かさをもっと味わいたくて頬をすり寄せてみた。するとその何かが驚いたように身じろぎするので、その動きに意識の覚醒を促されていく。

 それにつれて今自分が何かによって移動しているらしいことがわかってきた。それは乗っていたはずの馬車ではなく、もう少しゆっくりとした速度で進んでいるようで、同じ間隔で小さく揺れるのだ。

 これは一体どうしたことだろう。

 疑問に導かれるまま目を開けたセラフィナは、すぐ上にランドルフの顔を見つけて、飛び上がらんばかりに驚くこととなった。


「ランドルフ様! え……え? これは一体」

「ああ、起こしてしまったか」


 ランドルフは言いつつ、何故だかやけに険しい顔をしていた。怒ってはいないようだけれど、一体どうしたのだろうか。しかしそんな疑問も、状況を理解した瞬間に遠くへと吹き飛んでいった。

 そう、セラフィナはランドルフによって横抱きに抱え上げられていたのだ。どうやら自分は彼の胸にすり寄っていたらしいと解って、無意識とはいえ子供のようなことをしてしまった恥ずかしさに頬が熱くなる。

 妙に暖かいと思ったら体には二枚分の外套が巻き付けられており、少しの隙間風も入ってくることができないようになっていた。いつの間に到着したのか、ここはアイゼンフートの屋敷の庭で、ランドルフはどうやら寝入ってしまったセラフィナを運んでくれているらしい。


「わ、私歩けます! 重いでしょう? ですからどうか降ろしてください!」

「重くない、軽すぎて心配になるくらいだ。いいから気にせず運ばれていろ」


 だめだ、こんな事をされては心臓が口から飛び出てしまうかもしれない。

 セラフィナは更に言い募ろうと口を開いたのだが、それはランドルフがセラフィナの顔を上半身ごと逞しい胸に押し付けたことによって叶わぬ願いとなった。


「——静かにしているんだ。いいな?」


 セラフィナは最早頷くことすらできずにただ硬直したのだが、ランドルフはそれを応と捉えたらしい。やがて元のように抱え直すと、次いで視線を遠くへと飛ばした。


「ディルク、いつから待っていたんだ?」

「旦那様! 奥様!」


 ランドルフの呼びかけに応え、玄関先から走り寄って来たのはディルクであった。彼は息を切らせたままセラフィナの顔を覗き込むと、その瞳に涙を滲ませる。


「ああ奥様、なんとおいたわしいお姿に」

「ディルクさん……心配かけてごめんなさい」

「何をおっしゃいます。このじいはお二人が無事に戻ってくださって感無量でございます」


 その目を見れば一体どれほど心配をかけてしまったのか知ることができた。どこかやつれたようにさえ見えるその姿に胸が苦しくなる。


「ディルク、看病の準備はできているな」

「もちろんにございます」

「食事は」

「食べやすいものをご用意してございます」


 二人はそのやり取りの間も一切足を止めることはなく、すぐに玄関へと到着した。するとそこではこの家に仕える全員が集まっていて、いつもの落ち着きをなくした彼らが一斉に駆け寄ってくる。こんなにも心配をかけてしまい申し訳なくなると同時に、彼らの優しさに胸が熱くなった。

 そしてセラフィナはここへ来てある事に思い至っていた。

 使用人達にハイルング人である事を隠し通す以上、歩く姿を見せるわけにはいかなかったのだ。だからランドルフは最初から運んでくれるつもりでいたのだろう。それなのにあんなに狼狽してしまい、心底恥ずかしくて仕方がない。

 ああ、何だかこの気持ちに気付いてから、いたたまれない思いばかりしているような。


「お前達、いい加減落ち着かんか。セラフィナはこの通り無事だ。十日ほどで回復するだろうとベルヒリンゲン閣下が仰せである」


 ランドルフの言葉に、彼らは一様に安堵の溜息をついたようだった。女性陣などはほとんど涙をこぼしているし、ネリーに至っては最初から号泣状態だ。

 もう治っているのに本当のことを言えない事がもどかしい。彼らにとって良い主でいたいのに、信頼を裏切るようなことをしてばかりだ。


「エルマ」

「はい、旦那様」


 エルマは目を赤く晴らしていたが涙をこぼしてはいなかった。彼女はランドルフの呼びかけに礼を取って見せると、意志の強そうな瞳を雇い主へと向けた。


「セラフィナの看病について二、三申し付ける。あとで部屋に来るように」

「畏まりました」


 そして今、何も知らない彼女を巻き込もうとしている。

 ごめんなさい、エルマ。胸中で呟いたセラフィナは、抗いがたい眠気を感じるままに目を閉じた。


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