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妖精と黒獅子  作者: 水仙あきら
第二章 戴冠式の夜
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8

 霊峰ピルニウス山脈。その険しさと女神オーフェリアの領域である事から誰も足を踏み入れないという聖域。

 たしかにこの世界に全く暴かれていない空間があるとしたら、最早そこしかないのかもしれない。それでも誰もが知る山にハイルング人達が住んでいるというのは、とてつもない驚きだった。


「ハイルング人達は自然に神が宿るという独自の信仰を持っておったので、オーフェリア様を神とはしておらんかったようじゃ。だから聖域に立ち入ることにもなんら問題なかった。険しい山道は辛かったろうが、これはハイルング人をだからこそできる荒技じゃな。力の大部分を既に失っているとはいえ、岩で足を切ろうと、坂道を転がろうと、彼等はすぐに再生する。だからこそ選べた移住先じゃ。つまりあんたの親御さんも、そこから降りてきた筈じゃよ」


 そう、そうか。あの山に、母の故郷があるのか。高台に登ればこの街からも見ることのできる、あの山に。

 セラフィナは母への繋がりを得たような気がして、不意に泣きそうになった。


「そしてハイルングの消失が起こった。彼等は全員で山へと消え、そしてそれを知るものは王族だけとなったのじゃ。人々は突如として消えたハイルング人達に戸惑い、嘆き、悔しがり……そして、ようやくの終戦を迎えた。人々は六百年の時を経て、その存在を次第に忘れていった」


 ベルヒリンゲンは静かに語り終えた。しばらく誰も言葉を発しなかったが、セラフィナは色々と合点がいくのに気付いて声を上げる。


「もしかして、今も両国でハイルング人に対する認識に差があるのは」

「ヴェーグラントはハイルング人を同じ国民と思っとった。アルーディアは利用すべきものと思っとった。その違いじゃな」


 そうだ、確かディートヘルムも、初対面の時にこの国はハイルング人を差別しない、お前の国とは根本が違う、と言っていたのではなかったか。

 つまり彼もまた、当然ながら帝室に代々伝わるこの話を知っていたということなのだろう。


「シヤリの木が絶滅したというのは」

「ハイルング人が居なくなって、その力という唯一の栄養源を失ったからじゃな」

「先生がハイルングの落とし子でいらっしゃるのは」

「当時の皇后の血が濃く出た結果よ。ちなみに陛下はまったく普通の人間じゃ」


 多くの事実が繋がっていく感覚に目眩がする。セラフィナはあまりの情報量に思わず頭を抱えそうになったのだが、頭上から思いやるような声が聞こえてきて顔を上げる。


「大丈夫か? 疲れたのではないか」

「ランドルフ様……」


 ランドルフは心配そうに眉を寄せていた。いたわりを含んだ視線が優しい。ベルヒリンゲンもまた、無理をするなと頷いてくれた。


「ああ、そうじゃよ奥方。儂もちょっと長話が過ぎたのう」

「とんでもございません先生。貴重なお話、ありがとうございました」

「いんや、あんたが満足したなら良かったわい」

「はい。私、なんだかすっきりしています。母の冥福を祈るとき、どこを向けばいいのか……解ったような気がして」


 アウラには墓が無い。フランシーヌが埋葬を許さなかったのだ。

 今まではどこに母がいるのかわからなかったけれど、これからはピルニウスの方角を向いて祈ろう。そうすればきっと、喜んでくれるだろうから。


「ハイルング人が現代に生きていると知って嬉しかったよ。その命、大事にの」

「はい。先生、ありがとうございました」


 セラフィナの安堵の笑みにベルヒリンゲンも笑顔で頷き返すと、彼はそのまま医務室を出ていった。二人して頭を下げて見送り、扉の閉まる音にゆっくりと身を起こす。


「それにしても、私が聞いて良い話だったのだろうか」


 ランドルフは思案顔をしていた。セラフィナにとっては出自の解明に繋がる話だが、歴史研究や国家機密にも関わる重大事であることは間違いない。その重みにさしもの彼も負担に感じてしまったのだろうか。


「知りたくありませんでしたか……?」


 だとしたら申し訳ない事をしてしまった。肩を落とすセラフィナに、ランドルフはふと笑ったようだった。


「いや、嬉しかったよ。貴女のことが知れてよかった」


 セラフィナは頬が熱を持つのを止めることができなかった。

 前から思っていたのだが、この方はたまにさらりと、こちらが照れてしまうようなことを口にするところがあるのだ。

 綺麗とか愛らしいとか、その言葉は彼の人柄を表すように直球で飾り気がない分、すとんと胸に届くのである。

 そういったことを言われ慣れておらず、ましてや今はこの夫のことを好きなのだと自覚してしまったセラフィナにとっては心臓に悪い事この上ない。彼はといえば特別なことを言ったつもりも無いようなのだから困ったものだ。


「さて。セラフィナ、少し話があるのだが」

「は、はい、何でしょう」

「考えたのだが、貴女はしばらくは安静にしているべきだと思う」


 しかし告げられたその言葉に、セラフィナは今度こそ平静を失った。

 怪我は治っているのだから休む必要など無いのだ。それにこれ以上迷惑を掛けたくない。


「いいえ、私は平気です! ほらこの通り……っひゃあ」


 自分がいかに元気かを伝えようと勢いよくベッドから飛び出したセラフィナは、考えていたより遥かに足に力が入らないことに驚き、そのまま姿勢を崩してしまった。受け身を取ることもできず地面に倒れ伏す未来を想像し、せめてと硬く目をつぶる。

 しかし予想したような衝撃は一向にやってこない。代わりに何か温かいものに受け止められたのを感じて、セラフィナはそろそろと目を開けた。

 そこには既視感のあるシャツがあり、しばし呆然とその白を見つめていたのだが、「大丈夫か?」と頭上から降ってきた低音に弾かれたように顔を上げる。

 そして至近距離で金の瞳と視線を交わらせ、ランドルフに抱きとめられたことを知ったのだった。

 この時、悲鳴をあげてその硬い胸を押し退けなかったことは、僥倖としか言いようがない。セラフィナは理性を総動員して何とか衝動を押しとどめると、赤い顔を隠すために俯くことにした。


「だ、大丈夫です。ありがとう、ございます……」


 蚊の鳴くような声で告げると、ランドルフは事も無げにセラフィナをベッドに座らせ、自身も側の椅子に腰掛けた。まったく動じる様子のない彼に、どうしようもなく恥ずかしくなって視線を彷徨わせる。

 セラフィナは昨日までの自分を振り返って頭を抱えたくなった。

 どうしてあんな普通に、密着してダンスなどに興じることができたのだろう。しかも毎日一緒に眠り、朝はランドルフの方が早く起きることもあったので、だらしない寝顔も見られていたはずだ。今はちょっと触れるだけでこんなに恥ずかしいのに、思えば彼には随分と無様な姿を晒してきたような。

 恋とはこんなにも照れ臭い思いをするものなのだろうか。何せ初めてのことだから、何もわからず右往左往するのも仕方がないのかもしれないけれど。


「やはりか」

「え!? 何のことですっ!?」

「そんなに驚くことでもなかろう。貴女はまだまだ本調子ではない。少なくとも数日は寝ていた方が良いのも確かなのではないか?」


 驚いた、早速気持ちを知られてしまったのかと思った。

 セラフィナは一瞬胸をなでおろしたが、体調を言い当てられて別の意味でどきりとする。

 そうなのだ。ハイルング人の力を使うと、その後は強い疲労感に襲われてしまう。これは恐らく傷の治癒に莫大なエネルギーを使用するせいで、ベルティーユを庇って怪我を負った時などは一週間ほど疲労感が拭えなかった。


「頼むから、もっと頼ってくれ」

「……え?」

「大変な目にあったばかりの貴女に、怪我が治ったのならすぐさま働け、などと言うわけがないだろう。むしろ仕事をしようものなら力ずくでやめさせるところだ」


 ランドルフはとても真剣な眼差しをセラフィナへと向けていた。つい迷惑をかけたくない一心で動いてしまうのだが、彼はとても優しい人だから、セラフィナの遠慮に心を痛めているのだ。

 その優しさが昨日までは申し訳ないと思いつつも純粋に嬉しかった。けれど、今は喜び以上に締め付けるような苦しさを感じる。ランドルフのこの気遣いが愛情から来る物ではないとわかっているからこそ。


「それに、あれだけの血を流して倒れた貴女が昨日今日で出歩いていては、間違いなく不審がられるだろうからな」

「それは確かに!」

「使用人達にも知られるのは避けたいのだろう?」

「はい。皆さんに対する罪悪感はありますが、秘密を知る者は少なければ少ないほど良いでしょうから」

「だろうな。となればやはり最低でも十日程度は寝ているしかあるまい」

「そう、ですね。わかりました……」


 それは反論する余地のない正論であった。セラフィナが素直に頷いたのを見て、ランドルフは思案げに腕を組むと、しかし、と言葉を続ける。


「さすがにエルマには告げても良いかもしれんな。包帯を変えるときにどう考えてもバレるだろう」

「ええ、本当ですね」

「自分で包帯を変えるなどと言っても、ネリーあたりに猛反対されるに決まっている。いや、それは全員か。だったら専属のエルマにだけ告げて、口裏を合わせてもらった方がリスクが少ない。どうだ?」

「はい。おっしゃる通りです……」


 どうやらセラフィナが初めての恋心に戸惑うばかりだった間にも、彼は色々と考えてくれていたらしい。頼り甲斐ある夫に安心感を覚えつつ、申し訳ないやら情けないやらで顔を赤くするのだった。


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