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妖精と黒獅子  作者: 水仙あきら
第一章 その結婚、皇帝陛下の勅命につき
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2

 どん、と体に軽い衝撃を感じて、ランドルフ・クルツ・アイゼンフートは走る足を止めた。見れば路地から出てきたらしい娘が、ジョギング中のランドルフにぶつかり転んだところだった。

 いけない、いくら落ち着かないからと走り始めたとはいえ、人が近付く気配にも気が付かなかったとは。


「すまない。大丈夫か?」


 ともかく助け起こしてやろうと手を差し出す。その娘は「すみません…!」と慌てた様子で俯けていた顔を上げ——そして硬直した。


「ひえっ……!」


 その口から掠れた悲鳴が漏れ、見る間に顔を青ざめさせていく。娘の怯えきった反応に、いつもの如くしまったと内心で舌打ちしたランドルフは、差し出した手をどうすることもできずに硬直させた。


「も、もももも申し訳ありませんでしたああああ!」


 娘は恐怖に震える声で叫ぶと、自力で立ち上がってそのまま走り去っていく。

 気の毒なほどに悲壮感溢れる背中を見送り、ランドルフは一つため息を落とすと、特に気にした様子もなくジョギングを再開した。


 これこそがランドルフ・クルツ・アイゼンフート侯爵の日常である。


 四年前の大戦で凄まじい戦功を挙げ、史上最年少で陸軍少将に任ぜられたランドルフは、黒獅子将軍として大陸中にその名を轟かせる猛将だ。

 なぜそんな男が適齢期を過ぎても独り身でいたのか。それは彼の風貌が一番の原因だった。

 切れ長の金色の瞳は鋭利な輝きを宿し、視線を合わせただけで射殺されそうな凄みを放っている。漆黒の髪は少しの前髪を残して全て後ろになでつけているので、意思の強そうな眉毛が露わになっているし、大きな口から流れる声は腹に響く低音。それだけでも威圧感の塊なのに、おまけに頬には巨大な刀傷。身長は193cmと見上げるほどに高く、鍛え上げられた肉体と相まって極めて恐ろしげな雰囲気を醸しており、その佇まいはまさしく黒獅子であった。

 凶悪な風貌のお陰で女子供には怯えられるのが当たり前。あんなふうに悲鳴をあげて走り去られることは、ランドルフにとってはさして珍しい事ではない。ここまで恐れられてしまっては、結婚など無理だろうと思っていたのだ。

 そう、つい最近までは。



 ジョギングを終えたランドルフは、一切の疲労も得る事ができないまま自室に戻ってきた。少し運動すれば気も落ち着くだろうと思っていたのにまったくの誤算だったようだ。ともかく汗臭いままではいけないと、備え付けられた風呂で水を頭からかぶる。

 水を滴らせたまま再度執務室に戻ると、見慣れた顔がお茶を用意して待ち構えていた。


「もう姫君がお着きというこの時に走りに出ておいでとは、どうやらかなり動揺していらっしゃるご様子。お茶でも飲んで落ち着かれませ」

「……ディルク、お前には敵わんな」


 ディルクはアイゼンフート侯爵家の家令で、前当主の頃から勤め上げるベテランである。産まれた瞬間からの付き合いであるランドルフにとっては無条件で信頼できる男で、顔を見ても怯えないありがたい存在でもあった。


「それはまあ、婚期を逃し続けた貴方様のことですからな。それは緊張なさってるだろうと」

「ディルク、お前それはないだろう。私だって好きで三十四まで一人身だったわけではないぞ」

「おや、先代様が取り付けてきたお見合いを片っ端から断ったお方のおっしゃることとは思えませんな」

「…それを言うか」


 戦場で活躍するようになる前だが、ランドルフにも恋人がいたことがなかったわけではない。しかし、全員どうも結婚には至らず別れてしまった。年を経るにつれ見た目に凄みが出てきたのか、舞踏会で目を合わせた娘らはみな青ざめて目を逸らすし、ひどい時は気絶する始末。

 当時存命で陸軍の大将を務めていた父が何度か見合い話を持ってきてくれたが、数人会った娘たちが全員顔を青ざめさせているのを見て面倒になってしまった。

 アイゼンフート侯爵家は名家中の名家で、上をいくのは皇族しかいない。つまり、こちらから見合いを仕掛けてしまえばあちらから断る術はないということだ。

 それこそどんなに本人が嫌がったとしても。

 そんな状態で結婚してもお互い辛い思いをするだけだし、なによりその女性が不憫すぎる。そう考えてしまえばこれ以上見合いに踏み切る気にはなれなかった。

 そうこうしているうちに戦争が始まって結婚云々はうやむやになり、凄まじいまでの武勲を上げたランドルフは最年少で少将への昇進を果たした。戦争で父は亡くなり、侯爵位を継いだ頃には泣く子も黙る黒獅子将軍が完成してしまっていたのである。

 最近では結婚自体を諦めており、あまり女性とは関わらないように過ごしていた。

  跡取の誕生を夢見る親戚筋には申し訳ないが、いざとなれば養子でももらえばいい。

 割り切って仕事に没頭していたランドルフに、側室の一人を貰い受けてほしいと皇帝自ら声をかけてきたことは、まさしく寝耳に水であった。


「旦那様、そろそろ御髪を整えられませんと。フロックコートもきちんとお召しください」

「……ああ、そうだな」


 首にかけた布で頭を拭うが、その手の動きは緩慢だった。適当に水気を飛ばして後ろに撫で付け、濃紺のフロックコートを纏えば、休日の黒獅子将軍がそこにいた。

 軍服でないからといって凄みが減るというわけでもないし、婚約者殿もきっと気の毒なほど怯えるだろう。そう考えれば、彼女の運命に同情せずにはいられなかった。

 姫君について知っていることはそう多くない。

 名前はセラフィナ。元は隣国の第二王女で歳は二十歳、ブロンドに青い目をしたそれは美しい姫君で、その美貌は月夜の妖精にも例えられると聞く。しかも公の場には滅多な事では顔を出さないので、本当に妖精なのではと真しやかに噂されているとか。

 そこまで情報を反芻して、ランドルフは頭を抱えたくなった。もとは皇帝の側室だったのだから臣下などに譲り渡されることになりさぞかし遺憾だろう。それも相手が十四も離れたオヤジで、凶悪な二つ名とそれに違わぬ凶悪な風貌をした自分では。最悪、ショックで倒れることもあるかもしれないな…。

 そこまで考えて、いや、と首を振る。勅命とはいえせっかくこんな自分の妻になってくれると言うのだ。彼女を大切にせずになんとする。愛してもらえることは無いだろうが、せめて何不自由なく過ごしてもらえるように心を砕こう。

 その時ノックの音が響いた。ディルクが対応に向かうと、一枚板で造られた重厚な扉がゆっくりと開く。そこには婚約者に付けるため雇った使用人のエルマが立っていた。


「失礼いたします。セラフィナ様がお着きでございます」

「わかった、すぐに行こう」


 ともかく初対面で気絶されるようなことがなければいいのだが。

 

 

 玄関を出ると、そこには豪奢な馬車が停まっていた。濃緑色の車体には見事な金細工が施され、王家であるフンメル家の紋章が入っている。そして馬車の後ろには大勢の近衞兵が控えていた。

 事前に皇帝から聞かされた話によれば、セラフィナはこの度皇后として戴冠する運びとなったレナータとは親友の仲とのことで、二人が想いを通じ合わせたこと自体彼女の力によるところが大きいらしい。このフンメル家専用の馬車に皇帝直属の近衞兵をつけるという待遇も、恩返しの一つということなのだろう。


 そんな大事な姫君を何も私のような男にくれてやることはないだろうに。


 また一つ重くなった胸の内を抱え、ランドルフはゆっくりと歩き出した。姫君が馬車から降りるのを手伝わなければならない。

 ディルクが恭しく馬車のドアを開ける。ランドルフは視線を下に外したまま、馬車の中へと手を差し出した。


「初めまして、セラフィナ姫。私はランドルフ・クルツ・アイゼンフートと申します。まず、あなたが馬車を降りるために手をお貸ししたいのですが、よろしいか」


 そしてようやく件の姫と目を合わせ——絶句した。

 プラチナブロンドの髪は編み込まれて控えめに纏められている。小さな唇は品のいい紅で彩られており、紺色のドレスに透き通るような白い肌が良く映えていた。そして、大きな瞳は澄んだ湖を映したようなアクアブルー。

 本当に妖精なのではないか?そんな馬鹿な疑心に捕らわれていると、その澄んだ瞳がランドルフを認め、驚いたように見開かれた。

 このあと彼女の顔から一気に血の気が引き卒倒するところまでまともに想像したランドルフは、思わず手を無遠慮に伸ばそうとしてしまう。しかし、結局それは無用の心配に終わった。

 彼女は、笑ったのだ。見開いた瞳をゆっくりと細め、何処か安心したような様子で。それはまさしく花ひらくような笑顔だった。


「初めまして、アイゼンフート侯爵様。私はセラフィナと申します。どうぞよろしくお願いいたします」


 それは新鮮な驚きだった。若い女性の瞳がまっすぐに自分に向けられたのも、穏やかに声をかけられたのも、何年振りかというほどに久しぶりのことだったから。

 この姫君は私が恐ろしくはないのだろうか?疑問に思ったが、それを口にするよりも今は彼女のエスコートをするほうが先だ。ランドルフは戸惑いつつも、そっと差し出された細い手を取ったのだった。

 

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