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ランドルフは苛立ちを顔に乗せたまま走っていた。その悪鬼の如き形相に、恐慌状態にあった貴族たちもヒッと息を呑み一斉に道を譲る。そのまま会場の外へと踊り出ると渡り廊下の先に犯人の背中を見つけて、勢いを殺さないまま走り抜けていった。
なぜこのような事になったのか。
理由は考えてもきりのない事だが、まずどう考えても兵士の練度が低すぎる。それに配置も悪く、結果として逃走を許すこととなってしまった。今回の警備担当者は誰だったか。会場で目にした幹部将校たちの顔を脳内に並べようとしたが、やめた。
今は目の前のことに集中するべきだ。そして一刻も早くこの逃走劇を終わらし、戻らなければならない。か細い身体を震えさせ、それでもなお強い眼差しで送り出してくれた、愛しい人の元へ。
男の足はそう早くなかったようで、最強の武人が追いつくのに時間はかからなかった。ギリギリまで距離を詰め、最後に片足にグッと力を入れたランドルフは、そのまま一足飛びに男の背中に膝を叩き込む。
背後からの一撃に受け身を取ることも叶わず、男は地面に倒れ伏してしまった。
背に膝を当てたまま馬乗りの体勢を取り、両手を後ろ手にねじりあげると、間髪入れずに首筋に手刀を入れる。
男があっけなく意識を手放したのを確認すると、今度は手袋を外してその口に突っ込んでおいた。自殺などされたらたまらない。
「衛兵、ここへ!」
声を張り上げると、ややあって庭先から衛兵が現れた。転がるように走り込んできた若き兵士は、突然の事態に目を白黒させているようだ。
「しょ、将軍閣下!? これは一体」
「いいから縄を持ってこい。急げ!」
「は……はっ!」
事態を飲み込めないながらも走り出した衛兵を見送り、ランドルフは改めて今回の騒動の発端である男を観察した。
年は若く、おそらく二十前後といったところか。気にかかるのは不意打ちとはいえ5名もの警備兵を斬り伏せたその手腕だ。頭のおかしい男が通り魔的に犯行に及んだのならそれで済むが、もしこれが何か大きな事件の一端だったとしたら。
ランドルフは言い知れぬ胸騒ぎを覚え、視線を渡り廊下の先へ向ける。
衛兵はまだなのかと舌打ちをしそうになったところで、背後から凄まじい速さで駆け寄る足音を聞いた。なぜ反対方向から戻ってくるのかと振り返れば、そこには血相を変えて走るシュメルツの姿があった。
「ランドルフ、すぐに会場に戻れ! お前の奥方が、陛下たちを庇って……刺されたんだ!」
犯人を拘束していたことも忘れ、ランドルフは駆け出していた。
会場は依然として騒然としたままだった。そこかしこに散らばる貴族たちも今は目に入らず、今しがたセラフィナと別れたはずの場所に視線を飛ばしたランドルフは、そこに血まみれで横たわる彼女を見つけ、頭の中を白くすることになった。
「セラフィナ!」
自身が発した悲痛な絶叫も、驚いて肩を震わせた貴族たちも、最早意識の外に締め出したランドルフは、衝動に導かれるまま彼女の元へと走り寄り膝をついた。
側ではレナータが先程までの威厳をかなぐり捨てて涙を流し、セラフィナのことを呼び続けていたのだが、今はそれさえもどうでもよかった。
「セラフィナ……セラフィナ! おい、しっかりしろ! セラフィナっ!!」
セラフィナは脇腹を真っ赤に染め、力なく横たわっていた。先程まで上気していたはずの頬は月のように白く、ゆるく閉じられた瞳が開く気配はない。思わず触れた頬が、首筋が、ゾッとするほど冷たく、ランドルフは足元が崩れ去って行くような感覚を覚えた。
こんなことなら側を離れるのではなかった。国王夫妻が挨拶に訪れる前、彼女はテールコートの裾を掴んでランドルフを引き止めたのだ。どうしたのかと聞いても答えは無かったが、その手が縋るものであったことは、わかっていたのに。
「セラフィナ……! 目を開けてくれ、頼む」
「……ランドルフ、様?」
必死の呼びかけに応えるように、セラフィナが目を覚ましたのはその時だった。喜びもつかの間、咳き込んで細い血の筋を口の端から溢した痛々しい姿に、ランドルフは焦燥にかられるままその口元を拭う。
「すぐに……! すぐに、医者に診せてやるからな。だからもう少し辛抱してくれ」
「……い、けませ」
「どうしたんだ? 何を」
「お医者様に、診ていただくわけには……いきません。ど、うか……私の正体が明らかに、ならぬよう……お取り計らい、を」
耳を寄せなければ聞こえないような声で懸命に紡ぎ出した言葉に、今度こそランドルフは愕然とした。
震える小さな手が、ランドルフのそれを明確な意志を持って掴んでいる。この優しい人は、こんな大怪我を負ってなお国のことを考えているのだ。ハイルング人という正体が明らかになって問題にならないよう、自らの身を犠牲にして。
「駄目だ、そんな事は出来ない! ひどい怪我なんだぞ!? もっと自分の事を——」
「大丈夫ですよ。もう、治り始めています。ご存知でしょう?私は、これくらいで死んだり、しません、から」
最後に安心させるように微笑んで、セラフィナは目を閉じてしまった。一瞬肝が冷えたが、その口から漏れる呼吸に気付いてひとまず安堵する。意識を失ったというのに少しも力の弱まらない手を握り返すと、もう彼女の望みを無碍にする事はできなかった。
腹の傷が既に血を止めている事を確認して、テールコートを脱いで彼女に掛けてやってから、横抱きに抱え上げる。
「陛下、軍医中将閣下のお力をお借りしたく。あのお方はどこにおわします」
ディートヘルムは指示を飛ばす手を休めてこちらを見た。レナータも涙で濡れた瞳でセラフィナを見上げている。
「ベルヒリンゲン公なら、この時間は医務室だろう」
「は、感謝いたします!」
ランドルフは人を抱えていることなど感じさせない速度で走り出す。背中に百の視線を感じたが、構っていられることでは無かった。
*
老年の医師が部屋から出てきたのを見て、ランドルフは勢いよく立ち上がった。
「どうでしたか!? 彼女の怪我は、まさか命が危ないなんて事は……!」
「落ち着かんか。大丈夫じゃよ、奥方の容態は既に落ち着いている」
その答えを聞いてようやく強張っていた体から力が抜けた。
「良かった……」
休憩用に設えられた長椅子に、ランドルフはもう一度その身を沈める。
「しかし、驚いたわい。ハイルング人というのは本当に傷がすぐに治ってしまうんだのう。ハイルングの落とし子と比べても、まさしく驚異的な回復力じゃ。この分なら明日にでも目を覚ますだろうよ」
朗らかに笑うのは、齢七十にして現役の軍医であるベルヒリンゲン軍医中将である。
王族に産まれながらも軍医となって前線に赴く彼は変わり者として有名で、その実力と人柄から多くの者に慕われる名医師であった。
あのディートヘルムですらこの男には態度が恭しくなるのだからその威光は計り知れない。かくいうランドルフも戦場では何度もベルヒリンゲンに救われており、合計で何針縫ってもらったのかわからないほどだった。
「本当にありがとうございました、先生。なんと御礼を申し上げればよいか」
「なに、儂は何もしておらんよ。面白いものも見せてもらったしの」
「面白いもの?」
「うむ。肩を抉られても動じなかったお前さんがあんなに取り乱す様は、そうそう見られるものでもないじゃろ? なあ、黒獅子将軍よ」
「なっ……!」
ベルヒリンゲンの声は明らかにからかいを含んでいた。
先程のこと、ランドルフは医務室まで走り抜けると、ノックもせずにドアを開け放ってしまったのである。当時の自分がみっともなく狼狽していたことを今更のように思い出し、あまりの恥ずかしさに叫び出したい衝動に駆られた。
「怖い顔じゃ。照れておるのかの?」
「おやめ下さい! 目の前で大怪我をした者がいたら誰だって心配するでしょう!」
「ふーむ、戦場で重傷者など腐る程見てきたお前さんがか? しかも政略結婚の奥方に対する反応では無かった気がするが?」
「陛下から責任持って守れと言付かっているのです。あれで普通の反応です!」
「お前さんがそう言うならそういうことにしておこうかのう」
なんだか言い募るほど墓穴を掘っているような気がする。ベルヒリンゲンのニヤニヤ笑いに敗北感を覚えたランドルフは、もはや口を噤んで自衛することしかできなくなった。
「ああいかんな、ちょっとからかいすぎたわい。つい嬉しくてのう」
「そうですか、ようございましたな」
「おいおい、ここからは連絡事項だからちゃんと聞けい」
ベルヒリンゲンはちらりと医務室のドアを見つめると、少し眉を寄せてランドルフを見返してきた。その真剣な目に何か問題でもあるのかと身構える。
「徐々に熱が上がってきているようでな、おそらく癒しの力を使った事によるエネルギーが熱となって放出されているのじゃろう。寝たり起きたりを繰り返しているから、お前さんは側についてやりなさい」
「ええ、必ず」
「医務室に今日は患者はおらんから好きに使ってくれ。私は突き当たりの自室で休ませてもらうから、何か少しでも変わったことがあったら呼ぶんじゃよ」
「はい。……先生。妻の、体質のことですが」
「わかっておる。お前さんほどの男の頼みを無碍にしたりはせん。医師は守秘義務が当たり前だしの、信用せい」
ベルヒリンゲンは柔らかい笑みを浮かべると、安心させるようにランドルフの肩を叩いた。
これだから誰もがこの老医師を慕うのだ。
セラフィナの願いを叶えるべきかと迷ったが、どうしても彼女の事が心配で、彼に診てもらう事で折り合いをつける事にした。その想いと向けられる信頼を、彼は言わずとも理解してくれているのだろう。
「ありがとうございます。心より感謝申し上げます」
片手を上げゆったりと去っていく後ろ姿を、ランドルフは腰を直角に曲げて見送るのだった。
セラフィナは医務室に複数あるベッドの一つに横たわっていた。
音を立てないよう慎重に歩いたランドルフは、その顔を見て泣きそうになるほどの安堵を覚えた。頬には赤みが戻り、微かに開かれた口元からは薄い呼吸音が漏れ聞こえてくる。
良かった、本当に。
ランドルフは先程までベルヒリンゲンが座っていたであろう椅子に力なく腰掛けた。今の状態を見たら同僚たちは全員目を剥いて驚く事だろう。それくらいに常と比べて覇気がなかったし、肩を落とした背中は冗談のように小さく見えた。
治療を待っている間、ランドルフは既にシュメルツからの報告を受けていた。捉えた男は牢獄に入れたものの、国王夫妻を襲いセラフィナを刺した人物は未だ逃走中とのことで、その結果に彼は沈痛な表情を浮かべていた。
ランドルフは力ないセラフィナの手をそっと握り込む。そうして薄闇の中で時間を過ごしていると、込み上げてくるのは自分への、身を焦がしそうな程の怒りだった。
こんな小さな手をした人を守れなかった。何に代えても自由にすると誓った愛する人を、守れなかった。なんて無能ぶりだ。肝心な時に目の前の存在すら守れない自分では、将軍などという大仰な地位など空々しいだけではないか。
「う……」
「セラフィナ? どうした、痛むのか……?」
セラフィナは眉を寄せ苦しんでいるようだった。先程よりも顔が赤くなっているように見えて、熱が上がっているというベルヒリンゲンの言葉を反芻する。
額に乗せられた布に触れるとぬるくなっており、せめてと冷たい水に浸して絞り、再度額を覆ってやると、彼女は眉間の皺を緩めて笑顔らしきものを浮かべたようだった。
「きもち、いい……ありがとう、ござい、ま……」
言葉は最後まで紡がれることはなく、セラフィナはどこか安心したような顔をして、再び意識を失ってしまった。
焦燥と後悔に胸を引き裂かれながら、ランドルフは再びその手を握る。
そうして時折意識を取り戻す彼女を看病しているうちに、長い夜はその闇を失い始めていた。