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「お帰りなさいませ。本当にお疲れ様でございました」
「今帰った」
玄関に入ると、セラフィナの愛らしい微笑みがランドルフを迎えた。
参った。近頃はこうして出迎えられる度、無上の幸せを感じてしまう自分がいる。頬が緩まないよう表情筋へ力をこめつつ、ランドルフは側に立つディルクに軍帽や外套を預けていった。
「これで此度のお仕事にも区切りがつきましたね」
「ああ、そうだな。今日から少しはゆっくりできるだろう」
忙しかったこの一月余りにもついに終わりが来た。
今夜の戴冠記念舞踏会での役目はなく、ただのゲストとして招かれているので、これで戴冠式にまつわる仕事は一応の終了を迎えたことになる。もちろん事後処理などはあるが、明日からは軍でも休みを取る者が出始めるはずだ。
「パレードでのご勇姿、拝見させていただきました。とても素敵でした」
セラフィナはパレードの様子を思い出しているのかとても嬉しそうにしている。しかし褒められたことは脳内が勝手に社交辞令と処理をし、代わりに気になってくるのは彼女がルーカスと楽しげに会話をしていたことだった。
この胸の中で渦巻く感情がなんであるかを理解できないほど適当に歳を重ねたつもりはない。
本当に情けなくて嫌になる。嫉妬心など子供ではあるまいし、いずれ離縁することを自ら希望した身でどうしてそんな事を思えるのだろう。
「貴賓席の一番前にいただろう? 手を振ってくれたのが見えたよ」
「でしたら、やはり気付いて反応をしてくださったのですね。ふふ、ありがとうございます」
セラフィナは頬を染めてはにかんでいる。
だめだかわいい。ランドルフは脆くも崩れ去ろうとする平常心をかき集めつ、会話に全神経を集中させた。
「楽しめたか?」
「はい! とっても」
「そうか、なら良かった」
そう、彼女が楽しめたのならそれで良いのだ。もっといろいろと楽しませてやりたいと思う。たとえ期間限定の夫婦だとしても。
ランドルフが歩き出すとセラフィナも後をついて来たので、一つ気になったことを問うことにした。
「ところでルーカスは宿舎に戻ったのか? ここには居ないようだが」
「そのことなのですが、実は既にアイゼンフート領にお戻りになられました」
「なに、帰った?」
これは少々意外な展開だった。あの社交性が服を着て歩いているような男が、折角の戴冠記念舞踏会に参加しないとは。
「なんだ、珍しいな。あいつは何か言っていたか」
「役目は終わったし、首都もそろそろ飽きてしまったと。あと、ランドルフ様によろしくと言付かっております」
総合すると「やることはやったし帰る」ということだろうか。まったく自由気ままな男だが、ともあれ今回はランドルフの結婚の為に来てくれたところが大きかったのかもしれない。
「なるほど。今度手紙でも書いておくか」
「はい、きっとお喜びになられるでしょう」
セラフィナは何故だかやけに嬉しそうだ。ルーカスと過ごすのはそんなに楽しかったのだろうか。
ランドルフはついそんな事を考えてしまう事への自嘲を堪えつつ、笑顔を浮かべる小さな横顔を眺めるのだった。
戴冠記念舞踏会は盛況であった。煌びやかなシャンデリアの灯りの下で着飾った男女が言葉を交わし合う様は常となんら変わりはなかったが、その顔触れが尋常ならざる豪華さであることがこの会の重要性を物語っている。新しい皇后に良い印象を持たれようと、高位貴族すら必死なのだろう。
どこか張り詰めたこの空気はあまり得意ではなく、ランドルフは少しばかり憂鬱な思いがした。
だが今は面倒だなんだと言っている場合ではない。先程から視線が集まっているのを感じる。自分ではなく、もちろん傍に佇むセラフィナに対してだ。今日は面識がなく結婚式に招待していない貴族も大勢集まっているので、初めて彼女を見たものがあまりの美しさについ興味を持つのも致し方ない事といえよう。
ただし、だからといって無遠慮な視線を許すわけではない。ランドルフが周囲を一瞥すると、皆一様に目を逸らしていった。
どうやらこの顔も時に便利なことがあるらしい。
「凄い人ですね。なんて華やかなのでしょう……」
今日のセラフィナは薄紫色のドレスで装っており、ランドルフも非番なこともあってテールコートをまとっていた。今宵も妖精の如き美しさの彼女は視線に気付く様子もなく、今は舞踏会の雰囲気にただ圧倒されているようだ。
そういえば彼女の育った環境上、こういった催しには慣れていないのだったか。
「大丈夫か?」
「あ……ええ、大丈夫です。ご心配おかけして申し訳ありません」
「無理はするな。疲れたら遠慮なく言うといい」
「はい、ありがとうございます」
そう言って微笑んだ彼女は既にいつも通りで、そもそも疲れたからと自ら弱音を吐くような人ではないことを改めて思い知る。舞踏会の間は注意深く様子を見ていたほうがいいかもしれない。
その時、会場内の空気が変わった。次いで主役の登場を告げるファンファーレが高らかに鳴り響き、ランドルフとセラフィナを含む招待客達も皆一様に礼を取る。二人分の足音と衣擦れの音が高い天井に響き、数段の階段を登ったところでそれは終わった。
「面を上げよ」
格式に基づいた重々しい声が聞こえ、その場の全員が顔を上げる。特別に設えられた文字通りの上座、その壇上にこの国で最も高貴な存在である二人がいた。
皇帝夫妻は若さを感じさせぬ堂々堂々とした佇まいで、招待客達を見渡している。
「レナータ……」
殆ど吐息のような声を、隣にいたランドルフだけが聞き留めた。見れば、セラフィナが瞳を潤ませて二人を見ている。その表情には手のかかる妹の成長を喜ぶ姉のような、隠しきれないほどの慈愛が浮かんでいた。
ランドルフはまた壇上の二人に視線を戻す。この国の明るい未来を象徴するようなその姿に、ますます邁進していかねばと身の引き締まる思いがした。
皇后の一声によって舞踏会の開始が宣言されると、今までスピーチに聞き入っていた貴族らも一斉に息を吐き、会場に元の喧騒が戻ってくる。
同時に王立楽団の演奏が始まり、いよいよを持ってダンスが始まった。
最初の曲は皇帝夫妻のみ踊るのが習わしだ。若き皇后にとっては緊張する場面に違いないが、レナータはさすがであった。軽やかなステップは寸分の狂いもなく、笑顔を浮かべる余裕さえ持ち、ディートヘルムと息のあった踊りを披露する。
その美しさたるや各所から溜息が漏れるほどで、ランドルフもまた感心してその一枚の絵のような光景を眺める。
弦楽器の美しい伸びを持って曲が終わりを告げると、会場中に割れんばかりの拍手が鳴り響いた。優雅に礼をした皇后が笑顔で合図すると、招待客たちもまた方々輪の中に入っていき、楽団も次の曲の準備を始めた。
ランドルフは妻たるセラフィナを誘おうと手を差し伸べようとして——そこで彼女の様子がおかしいことに気付く。
まず顔色が悪い。そして動き始めた周囲のなかで居心地悪そうに身を小さくしており、その視線は一点を見つめて動く気配がない。
やはり慣れない人混みに体調を崩してしまったのだろうか。
「セラフィナ? 大丈夫か」
そっと声をかけると、セラフィナは弾かれたように視線を上げた。その青い瞳は隠しきれない不安に揺れており、一体どうしたのかとランドルフは身構える。しかし決意したように口を開いた彼女が告げたのは、全く予想外の言葉だった。
「ランドルフ様、私、実は……踊れないのです」
「なんだって?」
「も、申し訳ありません!」
驚きについ声が出てしまった。咎められていると思ったのか、セラフィナはますます身を縮こまらせる。
「怒っているわけではない。しかし何故だ? 王宮に住むようになってからは王女教育も受けていたんだろう」
「それが、私にはどうやら運動神経が存在しないらしく、いくら練習してもうまくいかなかったのです」
セラフィナの声は真剣だった。確か十二歳から教育が始まったとのことだったし、幼い頃から練習を重ねる令嬢たちとは環境が違うのだからそのせいもあるのだろう。しかし運動神経が存在しないとは、一体どこまで苦手だったらそんな表現が出てくるのだ。
「講師にも匙を投げられてしまい……一応、アイゼンフートのお屋敷に参りました頃から練習を再開してはいたのですが、いきなりできるようになるはずもなく」
「……そうだったのか」
言ってくれれば練習に付き合ったのだが、という言葉は、こぼれ落ちる寸前で口の中に消えた。
彼女の性格上、忙しい夫にそのようなことを頼めるはずもない。一人でステップを踏むセラフィナの姿を想像して、ランドルフの胸に苦い後悔が広がった。
「すまない。配慮が足らなかった」
「いいえそんな、全ては私が至らないせいですから…!」
「セラフィナ、こちらへ」
「は、はい」
ランドルフはセラフィナを伴って華やかな輪から抜け出ると、そのまま会場の隅へと歩いて行った。
そしてたどり着いたのは広々としたバルコニー。まだ曲の初めでは休憩する者もおらず、喧騒から解き放たれたその空間はもちろん空気の味も清涼だった。
専用の明かりはないが窓から漏れるそれだけでお互いの姿を認識することはできるし、一段低くなっているので会場内から見咎められる心配もない。
セラフィナは今恐らく皇帝夫妻の次に話題の人物なのだから、踊れば必ず注目されるだろう。彼女が努力したことを影で嘲笑されるのは我慢ならなかった。
「ここで踊ってみないか」
「え?」
壁を一枚隔てた向こうから、軽やかな調べが漏れ聞こえてきた。どうやら二曲目が始まったらしい。
「貴女とこうして二人で踊るのも悪くないと思うのだが、どうだろうか」
またこの口は、気の利いた言葉一つ出てきやしない。
セラフィナの驚いたような顔に、ランドルフは差し出した手を引っ込めたい衝動に駆られていたのだが、それに軽く細い感触が重ねられたのは、案外すぐのことだった。
「はい。私でよろしければ、喜んで」
貴女がいいんだ。貴女でなければ意味がない。
可憐な声に、安堵したように細めた瞳に、そんな言葉が口をついて出そうになる。ランドルフは自らの衝動を押し隠したままその細い腰に手を回した。
「そ、それにしても…っ、くくっ」
踊り始めてしばらく、ランドルフついに口の端から笑いをこぼしてしまった。
セラフィナは一切視線を上げること叶わず、自らの足捌きを一心不乱に見つめ続けていた。そうまでして踏むそのステップも少しずつ遅れたり早まったりと安定せず、そもそも動作の全てが力んでおり、逆に器用なのではないかと思ってしまうほどだった。
ランドルフが吹き出したのを受け、セラフィナは真っ赤になった顔を上げた。
「お笑いにならなくても……! 必死なんですよ、これでも」
セラフィナはどうやら恥じらい焦っているようだったが、なんでも弱音を吐かずこなしてしまう妻の新たな一面の発露に、ランドルフは最早喜びしか見出せなかった。
「く……はは、いや、それは見ればわかる。あまりにも必死な様子が健気で愛らしいなと思ったら、つい笑ってしまった。悪かったな」
思ったことをそのまま口にすれば、セラフィナは赤い顔を更に赤くしてついに動きを停止させた。何か妙なことを言っただろうか。
ともかくダンスが中断されたのを好機と捉え、ランドルフはざっと見解を述べることにした。
「貴女はもう少し姿勢を保つことを気にした方がいい。視線は前、動く方向だ。一歩踏み出すごとに腰が曲がることのないよう、いつでも軸を保つ事に意識を置く。そのせいでステップを多少間違っても問題ない。あと、関節に力が入りすぎている。腹筋を保ち、足の付け根から動かすようにして、肩と膝の力は抜くようにしてみろ」
「はい」
「ただし全てを一度にやる必要はない。まずは視線の向きから意識するといい」
「はい、頑張ります」
なんだか剣術の手解きのような味気ない物言いになってしまったが、セラフィナは真面目に返事を返してくれた。同時に次の曲が始まったので、ランドルフはもう一度手を差し伸べる。
「後は私が合わせるから、貴女は安心して踊るといい」
「はい。ありがとうございます」
曲に合わせて動き出す。セラフィナは今度はきちんと前を向いていた。早速ステップを間違えてたじろいでいたが、安心させるよう強く手を引くと、ハッとしたようにこちらを見て笑う。
その笑顔がとても近い位置にある事に、今更ながら気付いてしまった。
蒸気する頬も、ドレスから覗く白い胸元も、手を伸ばせば触れられる。その艶めく唇を奪うことすら——。
しかし欲望に飲み込まれそうになっていたところを引き戻したのは、セラフィナの信頼に満ちた眼差しだった。
「もしかすると、なのですけど。随分とましになったような気がします」
「あ、ああ、そうだな」
私は一体何を考えているのだ。手放すと決めた女性に対して、こんな…許されるはずがない。愛とはこんなにも厄介なものだったか。こんなにもままならず、欲してしまうようなものだったか。
その劣情はあまりにも凄烈で、ランドルフは戸惑いを隠し切ることができなかった。セラフィナがダンスに夢中で気付いていない事が唯一の救いだ。
「ランドルフ様は、すごいです」
「……どうした、突然」
「貴方様はいつも、私の不安を一瞬で拭い去って下さいます。今回も、踊れないだなんてどう切り出そうかと、とても不安だったのです。もちろんまだまだ下手ですけど……ランドルフ様と踊ることは、とても楽しいです」
ああ、本当に参った。
罪悪感にも似た激情が胸の内に吹き荒れている。この無垢な信頼を裏切りたくないと思うのに、ほんの二週間前までは迷いなく手放す気でいたというのに、今は信頼よりも自分と同じ気持ちを抱いて欲しいなどと思ってしまうとは。
厄介な感情を持て余したまま、夜会の夜は更けていく。