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それでは第二章開幕です。
将官執務室を出ると、一昨日までは無かったはずの冷気がランドルフの体を押し包んだ。
屋内でこの寒さとは、これは本格的な冬が到来したと見て間違いなさそうだ。昨日が暖かい日で良かったと思いつつ、書類を携えて陸軍省の廊下を歩く。
しかしいくらもしないうちに背後から声が掛かって、ランドルフは仕方なく足を止めた。
「アイゼンフート将軍、結婚式の翌日からご出勤ですか?ご苦労なことですなあ」
面倒な相手に声をかけられてしまった。内心嘆息しつつ、ランドルフは歩いてきた長い廊下を振り返る。
そこには肥え太った腹を抱えて下卑た笑いを浮かべる小男がおり、思わず眉をしかめそうになるのをこらえる羽目になった。
「ドスタル大佐。昨日は誠にありがとうございます」
「いやいや、他ならぬアイゼンフート将軍の結婚式なのです、出席するのは当たり前でしょう?」
将軍、のところだけ不自然に強調した嫌味な物言いは、このドスタル大佐においては平常運転の証だ。
ランドルフには多くの敵が存在する。それは三十歳にして少将への昇進を果たした若き俊英には、ある程度仕方のない事であった。
事実四年前の戦争で凄まじい戦果を挙げた結果であったのと、目上への敬意を忘れない人柄、さらに誰しもが認める圧倒的な実力のお陰で、得たものを考えればむしろ敵は少ない方なのだ。
しかしこのドスタルのように上の足を引っ張ることを趣味とする者がいるのも確かで、彼のような人間が後輩の方が上にいるという現状を受け入れる筈もない。そんな取るに足らない連中への対応は、穏やかにいなし上手く切り上げるに限るというのが、軍に入ってからの十四年で学んだ処世術だった。
「いやしかし、本当に綺麗な奥方で羨ましい限りです」
「恐れ入ります」
「陛下のお下がりとはいえ、若い体にはさぞ満足なさったのでは?」
ただし寛大な態度を取れるのも自分への侮辱のみに限られる。ともすれば醜悪な顔面に拳を叩き込んでしまいそうになる衝動をなんとか押さえたランドルフは、しかし瞳に全ての怒りを込めて目の前の小男を睨み据えてやった。
まさしく獅子の如きその迫力に、この男が打ち勝てる程の器を持ち合わせているはずもない。ドスタルは口から情けなく息を漏らすと、一歩後ずさって青い顔を精一杯怒りに歪めてみせる。
「な、なんですかなその顔は! 言いたい事があるならはっきりと……!」
「いえ、私はもともとこういう顔ですが。一体何をそんなに怯えておられるのか」
「…っ! も、もういい! さっさと仕事に戻るがいい!」
顔を青ざめさせたまま捨て台詞を吐く姿はあまりにも滑稽だった。贅肉で分厚くなった背中を無感動に見送っていると、すれ違うようにして知った顔が現れたので、ランドルフはようやく射殺すような視線を緩めることができた。
「ルーカス」
「こんにちは、兄さん。一睨みで撃退とは流石ですねえ。あの人の顔、傑作でしたよ」
ルーカスは面白いものを見たと言わんばかりの様子で近寄ってきた。どうやらこの弟は一部始終を見ていたらしい。
「腹が立ったのでついな」
「へえ、ついで人を睨みつけるなんてらしくありませんね。しかもあんな思いっきり。…さては兄さん、義姉上の事を本気で好きになったとか?」
「……………………………違う」
辛うじて表情を抑えることはできたが、ここまで長く沈黙してしまっては、この人の心に聡いところのある弟を誤魔化し切れるものではない。
兄の動揺を正確に読み取ったルーカスは、浮かべていた笑みをますます輝かせると、早足で歩き出したランドルフの後について歩き始めた。
「へえええ? 違うんですか? 本当に?」
「断じて違う。本当に違う。ついてくるな」
「ちょっとちょっと、冷たいじゃありませんか。別に隠すようなことじゃないでしょ? 夫婦なんだから」
いや、隠すようなことなのだ、これは。
ランドルフは能天気な弟に溜息した。
アルーディアとの関係が回復した暁には離縁をするという考えを撤回する気は無い。いくらセラフィナの事を愛してしまったとはいえ、それは彼女が自由になる権利を取り上げる理由にはならないからだ。
女性を喜ばせる器用さもなく、戦が起これば戦場に赴きいつ死ぬともわからず、そして国家のためならいくらでも冷酷になれる。それがランドルフ・クルツ・アイゼンフートという男であり、その評判が間違いではないことは自分が一番よく知っている。彼女はこんな男の元に居るべき人ではないということも、よく解っているのだ。
しかし望んだはずのその結末も、昨夜を境に自分に言い聞かせるように唱えるものとなってしまったのだが。
「例えそうだとしてもお前とそんな話で盛り上がる気はない」
「いやでも、俺は本当にいい事だと思いますよ。兄さんは今まで国と家の為尽力してきたんですから、いい加減幸せに——」
「ルーカス」
ドスタル相手の時とは違って睨んだわけではないが、有無を言わさぬ低い声はおしゃべり好きのルーカスを制するには十分だったらしい。彼はピタリと足を止めると、残念そうに微笑んだ。
「すみません、でしゃばりすぎました」
「構わん。もうお前も仕事に戻れ」
ランドルフは棒立ちになったルーカスを尻目に歩き続けていたのだが、背後に残した気配が一向に動こうとしないので仕方なく振り返ることにした。すると彼は寂しそうな目でこちらを見つめており、近頃は見ることのなかったその表情に少々驚く。
そうだ確か、先の戦争で父が戦死した時同じような目をしていた。それ以来この弟は泣き言を口にすることがなくなり、少しずつ遊び方も派手になったのだ。なんとなくその心の内が見えなくなっていくのも成長ゆえだろうと納得していたのだが。
「ねえ、兄さん」
「何だ」
「後悔だけしないようにしてくださいね。兄さんはもう少し自分を優先して丁度いいくらいなんですから」
「……覚えておこう」
ランドルフの答えは満足いくものだったらしく、ルーカスはいつもの爽やかな笑みを残して立ち去っていった。
久しぶりに弟の心の内を垣間見た気がする。それにしてもこうして心配されているようでは、自分もまだまだらしい。
そして夜。部下達に気を遣われ、平常時と同じくらいの時間に帰宅させられてしまったランドルフは、寝室にてまんじりともしない時を過ごしていた。
今から惚れた女と同じベッドに入る。しかし触れるわけにはいかない。この危機的局面で、意識せずにいられる男がいたら是非お目にかかりたいものだ。
離縁を前提としている以上、セラフィナに妻としての務めを要求するつもりはない。それも清い身だというのなら尚のこと。
しかしランドルフも男である以上、正直言って自制心が保つかはまったく別の話だ。
元のように自室で休むことも考えたが、夫婦が別の寝室で寝ていては彼女の名誉に傷が付く。結果苦肉の策として、ランドルフは先にベッドに入ってしまうことにした。
情けない話だが、何かの弾みでうっかり欲望に負けてしまうよりはよほどマシなはずだ。
そうして横になってしばらく、やはり眠気は一向に訪れない。やがて静かな足音が聞こえてきたので、扉に背を向けて寝たふりを決め込む。
セラフィナはドアを小さな音でノックすると、返事がないことを確かめてそっと扉を開けたようだった。そのまままっすぐベッドに向かってきて、先に夫が寝入ってしまったことを知ると、少しの逡巡の後にその華奢な身体を滑り込ませる。ややあって背後から規則正しい寝息が聞こえ始めたので、ランドルフはそっと身を反転させた。
そこではセラフィナが安心しきった顔で眠りについており、その無防備な姿を見つめていると温かいようなもどかしいような気になって苦笑を零す。広いベッドのおかげでその温もりを感じずに済むことが有り難かった。
「……お休み。良い夢を」
こんなに可愛らしい姿を見せられては、今日もあまり眠れそうにないな。
胸中で呟いたランドルフは、強引に視線を外して再び寝返りを打った。
そうして夢と現を行き来するうちに夜は更けていく。昨日もこんな調子で眠れていないというのに、この甘く苦い時間も悪くないと思ってしまう自分に驚きながら。
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アンディゴは娼館を出て歓楽街を歩いていた。既に上からの指示は受けた。まずは探し人を見つけなければならない。
性別は男。歳は五十二歳で、脂肪のついた腹回りと禿げ上がった頭が目印。周囲を注意深く見回しつつ彼がよく通うという高級娼館までやってくると、運のいいことにぴったり情報と合致する男が出てくるところだった。
「失礼、ドスタル子爵では?」
ちょっと直球すぎる声のかけ方だが、怪しまれないような対策は既に打っている。貴族然としたフロックコート姿にシルクハットを被り、いかにも爽やかな笑みを浮かべる貴公子を装っているのだ。
案の定、ドスタルはどこかで会ったかな、という顔をしてこちらを見ている。アンディゴは内心で冷笑しつつ、彼に近づいていった。
「失礼、どなたでしたかな?」
「私はグデーリアンと申します。伯爵位を拝命しております」
「おお、これは。ドスタルと申します、伯爵殿」
グデーリアンというのはもちろん偽名だ。そしてこの男が権力に弱く欲深いことも調査済み。そしておだてに弱いことも。
「先の大戦でのドスタル子爵の勇猛ぶりを、近頃伺う機会がありましてね。今まで遠くから拝見するばかりで、お話しさせて頂くことはありませんでしたから、偶然お会いできたと思ったらついお声掛けしてしまいました」
「なんと! 見に余る光栄でございます」
「今からビアホールで飲もうかと思っていたのですよ。ご一緒に如何です?」
「ええ、ええ! ぜひご一緒させて下さい!」
ドスタルが上機嫌で頷いたのを見届けて、男は先立って歩き出した。
さて、ここからが腕の見せ所だ。このドスタルという愚かな木っ端軍人を、いかに立派な謀反人に仕立て上げるのか。
アンディゴはシルクハットの陰で目元を細める。目的に近づいていく感覚は、いつ味わっても心地いいものだった。