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夢を見た。とても優しい夢を。
夢の中で私は幼い少女で、あの離宮で父と母に囲まれて食事をとっているのだ。とても幸せなはずなのに、私はこれが夢であることに気付いている。終ぞ叶わなかった家族の光景は、余りにも温かく、切なかった。
*
小鳥のさえずりが、泥に沈み込んだ意識をゆっくりと引き上げていくようだった。
セラフィナはそっと目を開ける。妙に瞼が腫れぼったかったものの、視界は順調に朝の光に満たされていった。
夢だと判る夢だなんて、随分と珍しい経験をしたものだ。
未だに現実感を得ることができず、セラフィナは徐々に鮮明になる景色を確かめようと視線を彷徨わせる。すると窓辺に立つ大きな人影に気付いて、反射的に飛び起きることとなった。
「ああ、起きたか。おはよう」
「お、はよう、ございます……?」
こちらを振り向いたのはやはりランドルフだった。まったく状況についていけないながらも挨拶を返し、回り始めた頭で周囲を観察する。彼はどうやら今起きたばかりという様子で、白いシャツに黒のトラウザーズという姿で髪は下ろされたままだ。そしてこの大きな寝台と家具の配置を見るに、ここは昨夜案内された寝室だろう。
昨夜?
セラフィナの脳裏に、堰を切った川のごとく昨夜の記憶が蘇ってきた。そうだ、昨日は結婚式があったのだ。夜になって屋敷に帰り、そこでランドルフに秘密について話をすることになって。
そして最終的に無様に泣きわめく結果となったのである。
そこまで思い出して、セラフィナはこれ以上ないというくらいに顔を紅潮させた。
なんという失態、そして無礼。あんな姿を晒しただけでも恥ずかしくて死にそうだというのに、加えて抱きしめられ、宥めすかしてもらい、その後の記憶がないということはそのまま眠ってしまったらしい。もしかしなくてもベッドに運んでくれたのはランドルフだろう。そうつまり、夫婦の務めすら果たさず、自分のことばかり優先させてしまったのだ。
穴があったら入りたいとはこの事だった。しかし、兎にも角にもまずは謝罪をして然るべきだろう。
「さ、昨夜は、その、随分とご迷惑をおかけいたしました! 本当に、申し訳ございません!」
「そんなことは気にしていない」
「え……?」
口上の後は頭を下げるつもりだったセラフィナは、ランドルフがとても優しい目をしていることに気付いて動きを止めた。彼はゆっくりとこちらに歩み寄り、ベッドの側で片膝をついて視線を合わせるようにした。
「気は楽になったか?」
「…は、はい」
「なら良い。貴女はこれからも何か言いたいことがあるなら言えばいい」
ランドルフは本当に気にしていないとばかりに微笑んでくれている。
なんということだろう、本当にどこまでも寛大な人だ。昨夜の振る舞いを許すばかりか気遣いの言葉まで掛けてくれるとは。
セラフィナは申し訳なくなって、ネグリジェのレースを握り込んだ。
「……はい。ありがとう、ございます」
「ああ。……さて、そろそろ朝食にするか。といってももう昼に近い時間だがな。私は食べたら出る」
「お仕事ですか?」
「ああ、今日は半休を取っているんだ」
時計は既に十時半を指し示していた。昨日何時に寝たのか全く見当がつかないが、あまり長い時間は眠れていないはずだ。こんなに忙しいのに長話に付き合わせて、本当に悪い事をしてしまった。
「さぞお疲れでしょうに」
「これくらいどうということはない。むしろ、結婚式の翌日なのに何もしてやれずすまないな。できればどこか旅行にでも連れて行ってやりたかったが」
「旅行、ですか?」
それは何とも楽しげな響きだった。アルーディアにいた頃は遠方の公務に引っ張り出されることはあっても旅を楽しむ余裕などなく、ヴェーグラントに来てからはブリストルを出たことすら無い。旅行らしい旅行を経験したことなど実は一度もなかったのだと、セラフィナはこの時初めて気が付いたのだった。
「昨日の話を聞いたら余計に連れて行きたくなってしまった。貴女はあまり遠出をしたことがないんだろう? ヴェーグラントには美しい景色がたくさんあるんだ。……もちろん、貴女さえ良ければ、だが」
「はい! 行きたい、です」
つい即答してしまってから、しかし彼は迷惑ではないのかと考える。勅命でしかたなく娶った妻を、わざわざ旅行に連れて行かなくてはならない決まりなどどこにもないのだ。だが、夫となった男はどこか安堵したように息を吐いたようだった。
「良かった。では、レナータ様の戴冠式が終わったら、必ず行こう。何処へだって連れて行ってやるから」
「……はい。楽しみにしています」
温かい胸の内を確かめるようにしてセラフィナはゆっくりと頷く。何だか恵まれすぎてバチが当たりそうだと、かなり真剣に考えながら。
ランドルフを見送った後、セラフィナはディルクに仕事を申し出たのだが、今日くらいは休んで欲しいときっぱり断られてしまった。
手持ち無沙汰になって自室に戻り、ならば整頓でもしようかとベッドサイドの引き出しを開けてみる。するとそこにアウラから譲り受けたお守りを見つけて顔を緩ませた。昨日は複数回着替える予定があったので、失くさないようここにしまっておいたのだ。
当時から経年劣化を感じさせていたそれは、今見るとさらに所々ほつれて薄汚れてしまっていた。時間のある今こそ補修して洗うといいかもしれない。思い立ったセラフィナは、早速実行に移すことにした。
複数の小さなボタンを外して慎重に中身を机の上に出していく。初めて目にするシヤリの実は黒くしわがれており、石のように硬い代物だった。やはり見たことのない形状のそれを眺めているうちに、母の言葉を思い出す。
——そのお守りは誰かに渡したくなったらシヤリの実を半分だけ出して、新しく作り直したお守り袋に入れてあげるの。本当なら両方に新しくシヤリの実を足さなきゃいけないのだけど、今は手に入らないから何か別の物で代用したらいいわ。幸せを願って大切に縫うのよ——
新しく作ったお守りをランドルフに渡したいという思いは、あまりにも自然に湧き上がってきた。
昨夜かけてもらった言葉に一体どれほど救われたことか。ハイルング人であるセラフィナを認めてくれた。よく頑張ったと頭を撫でてくれた。そのどれもがあまりにも嬉しくて、安心して、気が付いたら涙を零してしまっていた。
思い出すとやはり恥ずかしくて仕方がないが、感謝の気持ちを示したいという思いの方が遥かに大きいのも確かだ。
しかし、と躊躇する。政略結婚の妻からお守りを貰ったところで、迷惑に思いこそすれ喜ぶことは無いのではないだろうか。
だが今セラフィナを駆り立てているのは、少しでも彼の優しさに報いたいという思いだった。侯爵夫人の仕事をこなすだけでなく、自分にできることならなんだってしたい。
それに、例え受け取ってもらえなくとも夫の幸せを願って針を刺すのは悪いことではないし、それは幸せな時間なのではないか。
セラフィナは決意を固めると、まずはお守り袋の洗濯をするべく洗面所へと向かった。
******
男は華やかな喧騒を目の当たりにし、思わず顔をしかめていた。
ヴェーグラントの首都ブリストルといえば、大陸で最も栄えた都として名高い憧れの街である。日が沈んで間もない今の時間でもその活気が失われることはなく、店や街灯からもたらされる明かりによって闇は居場所をなくしている。
民は自身の故郷とは比べるべくもないほど皆晴れやかな表情をしており、人いきれで気温すら上がるようだった。
——賢君の元で暮らすのはさぞかし易かろう。全く羨ましいことだ。
他人事のようにそんなことを思う。この街の全てが男にとってはどうでもいいことだった。たった今到着したばかりだというのに宿や食事にすら目を向けず、手元の地図を一瞥してからポケットに突っ込む。
メイン通りを抜け、住宅街を過ぎ去り、地元客で賑わう路地裏の酒場の前を素通りする。徐々に街灯が減り道が薄暗くなってくるが、男は全くひるむことなく歩き続けた。そしてついに目的の地区へと到着する。
そこは娼館や賭博場、劇場などが軒を連ねる歓楽街であった。普通ならすえた臭いがするであろうこの場所も、ブリストルにおいてはそれなりの清潔感を保っている様だ。蹲る浮浪者はいないし、道を行く男たちが麻薬に侵されている様子もない。それでも客引きの女は煩わしいほど寄ってくるので適当にいなしつつ、男は油断なく周囲の様子を観察した。
ここまで来たら後は自力で目的の場所を探すしかない。この区画にあるということとその建物の目印しか教えられていないのだ。これは情報を知る者を極力減らす為と、敵の手に落ちた時に書類を奪われても問題ないようにする為の方策だった。
水色の壁をした娼館で、緑の字で書かれた看板と、帽子を被った案内人が立っており、窓からはシャンデリアが見える。それらの情報を反芻しつつ歩き回ると、程なくしてそれは見つかった。男は迷わずその店まで歩み寄り案内人に声をかけた。
「なあ、この店に嫉妬深い女は居るか」
「腹黒いのなら居るぜ」
「美人じゃなくてもいい」
「悪趣味だな」
案内人は合言葉を一言一句違えることなく諳んじて見せた。片眉を上げるというサインまで一切違えることはないその様子に、男はこの街に来て初めて口角を上げる。
「アンディゴだな。入れ」
仕事用の名前を知っているということは、どうやらこの案内人のことは信用しても良さそうだった。彼が玄関ではなく裏口へと着いてくるよう顎をしゃくるので、男——アンディゴは、これから成す予定の物騒な仕事の内容について考えつつ、その後を追って歩き始めた。




