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「というわけで、女王陛下はハイルング人であるこの私を側室として遣わしたのでございます。無礼を承知で申し上げます、陛下。どうか、何卒戦争だけは避けて頂きたいのです。どうか……!」
「ああ、別に良いぞ。ヴェーグラントとしても、アルーディアとの戦争は避けたいところだしな」
セラフィナは謁見の間の床にひれ伏していた身を恐る恐る起こすと、ディートヘルムが不敵な笑みを浮かべているのを目の当たりにした。
何かを企んでいそうな笑顔だ。直感的にそう思った。
「ほ、本当によろしいのですか……?」
「ああ、そもそも余はレナータ以外には興味がない。命も操もいらぬから好きに過ごすが良い」
レナータというと、たしかこの国の宰相の娘で、ディートヘルムが即位したすぐ後に側室となった姫君だ。まだ会ったことはないが、快活で心優しい人物だと聞いている。
「あと一つ言っておくが、この国にはハイルング人を差別する風潮は無いぞ」
「……それは、まことでございますか?」
「ああ。アルーディア人は自国の民族同士の婚姻しか認めぬのだろう。お前は確かハイルング人の娘ではなく貴族の側妃の娘ということになっていたな。お前がハイルングの落とし子ということにして言い逃れできないのも、向こうの王家が純血のアルーディア人を至高とし、差別対象であるハイルングの落とし子など生まれる可能性はないとしているからだ。そんな狂った考え方は、我が国には一切浸透しておらん。そもそも、この大陸の大方の国においてそのような思想は無い」
ディートヘルムはまるで面白いおもちゃを見るような目でこちらを見ているが、嘘を言っている様子はない。どの国も他民族に対する差別意識を持つものだと思っていたので、この答えには少々驚かされた。
それにしてもこの若き国王陛下は、いくら見つめてもその瞳から腹の底を窺い知ることができない。セラフィナにとってここまで心を悟らせない瞳をした人物に会うのは初めての事だった。
「我が国とお前の故国は根本から違うのだ。まあお前の正体がバレたら、隠蔽していたアルーディアに対する印象が地に落ちることは間違いないだろうが」
「はい。どのような国際問題になるのか、もはや検討がつきません」
「つくづく面倒な存在だな? 殺せば戦争が起こり、帰国しても戦争が起こり、正体がバレれば国際問題か。まこと、あの女狐も粋な贈り物をしてくれたものよ」
「……申し訳ございません!」
「良い。ああそうだ、こうしようか。お前は命とアルーディアとの開戦を回避した礼に、少しだけ余を手伝う。それでどうだ?」
ディートヘルムは名案と言わんばかりに両手を打ち、挑むような視線を投げかけてきた。この時はまさかあそこまで利用されるとは知らず、セラフィナは二つ返事で頷いたのだった。
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「後のことは大体ご存知かと思います。陛下のご指示通りに動いていたらいつのまにかレナータ様と仲良くさせていただくことになり、お二人は思いを遂げられ、側室全員の降嫁が決まり……現在に至ります」
壮絶と言わざるを得ないその過去を飲み込むには、それなりの時間を要した。散々虐げられ、利用され、両親の死に目にすら会えなかった彼女が、今目の前で儚く微笑んでいるのが奇跡のように思えて、ランドルフは知らず拳を握りこんでいた。
「きっとランドルフ様はお気づきと思いますが、私は今極めて微妙な立場にいます。本来死ぬはずだった私がこうして生き長らえたことは、女王陛下もよくご存知のはず。今後も私を利用して戦争の引き金にしようとなさるかもしれません。送り返したりすればそれはそれで理由をつけて戦線を布告してくるでしょう。私は穏便に、目立たぬよう、アルーディアという国が私という存在を忘れるまで、この国で生きていかなければならないのです。……お話は、これで以上でございます」
長い話であった。セラフィナは静かに語り終えると、安堵したように息を吐いている。彼女はしばし視線を下に向け何かを思案しているようだったが、やがて居住まいを正すとまっすぐにランドルフを見つめ、折り目正しい動作で頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。このような重大事を黙って婚姻を結んだこと、申し開きのしようもございません」
「っおい、よしてくれ…!」
「しかも、厄介な政治的問題を抱えているだけでなく、私はハイルング人なのです。この事実だけで、もしも公になれば大変な騒ぎになるでしょう。何せ私はばけも」
「やめろ!!!」
つい大きな声を上げてしまって、その迫力に驚いたセラフィナが思わず身を起こす。その顔に恐れが浮かんでいるのには気付いていたが、今は構うことはできなかった。
「貴女を貶めるようなことは私が許さない。それが例え貴女自身であってもだ」
セラフィナは自身の命も心も重要でないのだと言った。化け物と言われたことも仕方ないと受け入れているようだった。そしてほんの少しだけ得た暖かい思い出を胸に、彼らを、アルーディアを守るのだと。
その為に自らを蔑ろにしていることが、ランドルフは心が千々になりそうな程に悲しかった。
同時に感じたのはとてつもない怒り。博物館に出かけた時のこと、彼女はアルーディアの王宮で疎まれていたと笑った。だがこれは疎まれるとかそんな次元の話ではない。死ぬ為に嫁げなどと、何の罪もない姫君に対してどうしてそんなことが言えるのだろうか。
「忘れたのか? 私は貴女を蔑ろにすることは絶対にしないと誓った。ハイルング人だろうが妖精だろうが悪魔だろうが関係ない。貴女を責める事などするはずもない」
セラフィナはその美しい瞳をただ震わせていた。場違いにも、清廉な泉のような青に引き込まれてしまいそうだと、そんなことを頭の片隅で思う。
「ランドルフ様……ですが、私は、貴方様を騙して……」
「いいんだ、そんなことは。事は国同士の問題に関わるのだから、黙っていたのは当たり前の判断だ」
「きっと、この先ご迷惑をおかけします」
「任せろ。荒事は得意だ」
ランドルフは恐る恐る手を伸ばし、セラフィナが避けるような仕草をしないことを確認すると、その小さな頭をなでた。
もう安心してほしい。ここには貴女を害する者はいないのだから。
「もう大丈夫だ。今まで貴女はよく頑張った。偉かったな」
それがどうやら最後の防波堤だったらしい。
セラフィナはみるみる瞳を潤ませると、ついにその美しい泉を決壊させた。
過去を語る中で、彼女は母を失った時に泣かない事を決めたと言った。それ以来ずっと我慢していたのだろう。どんなに辛いことがあっても、苦しいことがあっても、一度泣けば立ち直れなくなってしまいそうだったから、無条件で寄りかかれる人を作ろうとしなかったのだ。
恐らくはセラフィナはランドルフよりよほど頑強な生命力を持っている。しかしこうして静かに涙を流す彼女は、今にも闇に溶けてしまいそうなほど儚げで。
気付けば、ほとんど無意識のうちに抱き寄せていた。
腕の中に閉じ込めてしまえば、その肩が自分の半分もない程に細く薄いことがわかる。普段のしっかりした雰囲気は見る影もなく、震えながら縋ってくる様子に胸が潰れた。こんな華奢な身体で、こんなにも多くのものを背負おうとしていたのか。
せめて楽に泣けるように背を撫でてやると、セラフィナはもう我慢しなかった。
声を上げて泣き始めた彼女をより一層強く抱きしめながら、ランドルフはある想いに気付いてしばし途方にくれる。
嫌がられていると思うと心が沈んだ。もっと笑顔が見たかった。なぜ悲しそうに微笑むのか知りたかった。
そして今、出来る事ならこの先一生守っていきたいなどと思うのは。
全て分不相応にもこの美しき妖精姫を愛してしまったからなのだと。