14
「…はい、できました。もう目を開けてくださって結構でございます」
エルマの手が離れていく気配を感じ取って、セラフィナはゆっくりと目を開けた。果たしてそこには純白の衣装に身を包んだ花嫁が鏡に映っている。
早いもので時は過ぎ去り、ついに結婚式の当日を迎えていたのだった。
大聖堂の控え室で最後の支度を終えたセラフィナは、使用人達に丁寧な礼を述べる。彼女達は皆一様に微笑んでおり、その仕上がりに満足しきりといった様子だ。
「まあまあ、なんて美しい花嫁さんでしょう!」
一番に声をあげたのは、最古参の使用人であるネリーだった。使用人頭としてアイゼンフート家に仕える彼女は、逞しい両手を祈るように胸の前で組み、丸い顔を殆ど泣きそうに歪ませている。
「エルマ、あなた良い腕してるわ! いっつもお綺麗だけれど、今日は一段と輝いて見えるもの!」
「いえ、私は何も。セラフィナ様は輝かせない方が難しいくらいですから」
エルマは謙遜しているが、着飾ることに無縁で生きてきてしまったセラフィナにも、本当に素晴らしい仕上がりであることは十分理解できた。
髪は複雑に結い上げられて、濃すぎない化粧と共に品良くまとまっている。何より今日のために設えられたウエディングドレスは、セラフィナが今まで身にまとったことのあるどのドレスよりも重厚な生地が使われており、シンプルだが着る者を最大限引き立てる技が随所に散りばめられた傑作だ。
実際、使用人たちもあまりの美しさに見とれてしまい、賛辞の言葉すら出てこないくらいには、今のセラフィナはまさしく妖精の如き美しさであった。
皆がとても嬉しそうに笑いかけてくれるので、セラフィナは苦しさを押し込めて微笑み返す。申し訳なさばかりが募って素直に喜べない、そんな自分が厭わしかった。
そうして少しの時間を過ごしていると、不意に控え室の扉が叩かれた。
エルマがすぐさま応対に走る。大聖堂の支度部屋はさほど広くないため、セラフィナの座る位置からも来客が誰なのかすぐに確認することができた。
「ランドルフ様。もうお支度はお済みですか」
ランドルフは軍の礼装に身を包んでいた。濃紺のそれは飾り帯やモール、肩章に至るまで普段の軍服より華やかな造りで、いつもは身につけない勲章や式典用の剣がより一層彼の堂々たる佇まいを引き立てているようだった。
しかし、エルマはとっくに道を開けているにもかかわらず、彼は地に足を縫い付けられたかのようにその場を動こうとしない。
どうしたのかと首を傾げつつもう一度声をかけようとすると、急に弾かれたように肩を跳ねさせるので、こちらまで驚いてしまった。
「あの……?」
「ああ、いや。あんまり綺麗なので、驚いた」
あまりにもストレートな物言いに、今度はこちらが絶句する番だった。
何せ綺麗だなんてほとんど言われたことがなかったのだ。特にアルーディアにいた頃は気味悪がられるばかりで、こちらに来てからもたまにお世辞をもらうくらいがせいぜい。それなのにランドルフの言葉は妙に胸に迫ってきて、恥ずかしくも嬉しいような、何ともむず痒い思いがしたのだった。
「そ、それは……ありがとうございます」
お世辞なのはわかっているのに、顔が赤くなってしまうのを止めることができずに思わず俯いてしまう。
「支度が滞りなく進んでいるか一応確認しようと思ったんだが、問題なさそうだな。私は戻っている。時間までゆっくりするといい」
ランドルフがあっさり退室してしまうと、使用人たちは一斉に黄色い声を上げ始めた。
「旦那様ったら、案外うまく女性を褒めるもんだねえ! 驚いちゃったよ!」
しかもネリーが率先して騒いでいる。普通こういう時は古株の者が若者を諌めるものではないだろうか。とはいえ若い娘はランドルフを怖がるので、アイゼンフート家の女性使用人はエルマ以外は皆四十歳以上なのだが。
「直球で良いわよね!」
「今まででは考えられないくらい優しいお顔をしてらっしゃったものねえ」
「やはりセラフィナ様のお力よ。これは旦那様にも春が来たってことかしら」
「当然です! こんなにお可愛らしい上にお人柄まで素晴らしいのですから」
そのあまりの勢いにエルマと一緒に呆気にとられていたのだが、最後には彼女まで参戦していってしまった。使用人達が頷きあったり囁きあったりしているのを微笑ましく見守っているうちに、いつしか時間は過ぎ去っていく。
そしてついにその時を迎えた。
絶対不可侵の聖域として人々の信仰を集める霊峰ピルニウス山脈。そこに住まう女神オーフェリアによれば、人はいかなる罪を犯そうともそれを告白して懺悔することによって許され、神々の御許へと帰ることができるのだという。その神々しい姿を描いたステンドグラスをベール越しに見上げながら、セラフィナは考えていた。
罪を告白することができない私は、一体如どうすれば許されるというのだろう。
「はい、誓います」
すぐ隣から凛々しい声が上がって、セラフィナは一気に現実へと引き戻された。
いけない、こんなに上の空では。式に招待されているのは軍や政務の中心人物ばかりで、最前列には皇帝ディートヘルムとレナータの姿もあるのだ。こんな中で失態を演じるなど万が一にも許されないというのに。
神父が花嫁に向けて諳んじる誓いの言葉に、セラフィナは今度こそしっかりと耳を傾けることにした。
「汝、病める時も健やかなる時も愛し合い支え合い敬い共に歩み慰め寄り添い合って、夫のみを想うことを誓いますか?」
「はい、誓います」
「それでは、指輪の交換をしていただきます」
二人が向き合うと同時に、神父の合図で指輪が運ばれてくる。ランドルフはセラフィナの左手に、まるで壊れ物でも扱うかのようにそっと触れた。
大きな手だ。セラフィナのそれより三周りも四周りも大きく、そして温かい。細かな傷がいくつか入っているのは、やはり戦場でのことか。
思考が現実逃避じみてしまうのは、極度の緊張のせいだった。自らの左手の薬指に華奢な指輪が嵌められたことを実感できないまま、セラフィナもランドルフの指に指輪を嵌める。
なんとか取り落とさずに済んでほっとしていると、神父からの最後の指示が耳朶を打った。
「最後に、女神に誓いの口付けを捧げていただきます」
きちんと心構えはしてきたつもりだったのに、いざその時を迎えてみると、情けなくも小さく肩を震わせてしまった。
心臓が破裂しそうなほど脈打っている。頬が熱い、きっと全身が赤くなっている。緊張と羞恥とで何も考えられない。
セラフィナが体を石のように固めていると、ふわりとベールが取り払われる感触がした。
そうだいけない、これでは拒んでいるかのように見えてしまう。嫌だと思っているわけではないのだ。ただ、恥ずかしいだけで。
意を決して顔を上げると、そこには真っ直ぐに己を見つめる金の双眸があった。今まで恥ずかしくて仕方なかったはずなのに、実際に視線を交わらせてみれば、その真摯な輝きに縫い取られるようにして目を逸らせなくなってしまう。
ランドルフは少し微笑んだようだった。まるでセラフィナを励ますようなその表情に、むしろ緊張が高まるのを感じる。彼は笑うととても雰囲気が柔らかくなり、元の整った目鼻立ちが前面に押し出されるようになるのだ。
素敵な人。優しくて誠実で、背が高くて格好良くて。私にはあまりにも勿体ない——
緊張と同時に罪悪感に苛まれたその瞬間、柔らかいものがセラフィナの唇の端に触れた。一瞬の事で何が何だかわからないうちに、神父が誓いが成された事を宣言する。
こうして大舞台は無事に幕を下ろしたのだった。
どうやって支度部屋に戻ってきたのかよく覚えていない。
号泣状態のネリーに迎えられ、立派だったと言われて初めて安堵が湧き上がってきて、セラフィナは力なく座り込んでしまいそうになった。何とか着替えを終えてようやく人心地着くと、エルマがすかさずお茶を出してくれたのでありがたく受け取る。すると彼女は畏まって礼を取り、その場にいた全員がそれに続いた。
「改めまして、奥様。私たちはこれより誠心誠意あなたにお仕えいたします。どうか末長くよろしくお願い致します」
皆真剣な瞳をして、しかしその口元は柔らかく微笑んでいる。セラフィナはまた一つ積み重なった罪悪感を押し殺して、穏やかに微笑んだ。
「こちらこそ、改めて宜しくお願い致します。未熟者ですが努力してまいりますので、どうか見守っていてくださいね」
セラフィナは一生明かすことのできない秘密を抱えている。けれどせめて彼女らの信頼を裏切ることのないよう、できる限りのことはしていきたいと思う。
決意も新たにしていると、支度部屋にノックの音が響いた。朝と同じくエルマがすぐさま応対に回り、訪問者の姿が明らかになる。
果たしてそこには、この国で二番目に高貴な人が背筋を伸ばして微笑んでいた。
「疲れているところごめんなさい。どうしても直接あなたと会いたくて」
次期皇后にしてセラフィナの唯一の親友であるレナータは、最後に会った時よりもさらに美しくなったように見えた。
人払いを済ませると、セラフィナは手ずからお茶を淹れてレナータへと差し出した。アイゼンフート家へ来てからは姫君らしくない行動は控えていたので、ずいぶんと久しぶりに淹れてみたのだが。
「セラフィナが淹れてくれると何だか優しい味がするのよね。うん、おいしい。なつかしいわ」
「私もとても懐かしい思いです。元気にしていましたか?」
「ええ、もちろん。毎日式典の準備でへたってることを除けばね」
懐かしい物言いに、セラフィナは思わず声を出して笑った。しかしレナータはその笑みを見るや、急に顔を曇らせてしまう。
「……うん。やっぱり、セラフィナはそんな風に笑える人なのよね」
「レナータ? どうしたのですか?」
「ねえ、セラフィナ。あなたやっぱり、この結婚が嫌なのね?」
余りにも真剣な声に、セラフィナは思わず言葉を失った。その沈黙を肯定と解釈したのか、レナータは怒涛の勢いで詰め寄ってくる。
「相談してくれたら良かったのに! 気が合わないの? やっぱり、怖い方だった? ディートったら、最も信頼できる男を選んだとか大きなことを言っていたのに……大丈夫よ、私がきっと何とかして見せるから。要はアルーディアとの関係さえ回復すればいいのだから、即位したらすぐに使者でも送って」
「ちょ、ちょっと待って下さい、レナータ。私、この結婚を嫌などとは思っていません」
「へ?」
慌てて止めに入ったセラフィナに、レナータは目を瞬かせた。やはりこのお姫様の暴走グセは未だに治っていないらしい。
「けど、結婚式の時、あんなに辛そうにしてたのに」
「そう見えましたか?」
「ううん、とっても立派だった。けど、わかるの。友達だもの」
「……そうですね。確かに悩んでいます。ハイルング人であることを隠したまま、結婚してしまったことに」
レナータが心から心配そうに見つめてくるので、口からぽろりと本音が零れ出てしまった。彼女は一瞬目を見開くと、やがてため息をついて肩の力を抜いたようだった。
「そっちか……なるほどね。そんなこと気にするなって言っても、気にしちゃうのがセラフィナだものね」
「大変な嘘をついてるのです。いつかひどい迷惑をかけるかもしれません。それなのにみんな、みんな優しいのです、とても。ランドルフ様が以前仰ったのです。人並みの自由と幸せを、当たり前に受け取って欲しい……と。私、嬉しくて、苦しくて、仕方がなくて」
時折つかえながらも、心内を吐き出そうとするかのようなセラフィナの言葉を、レナータは黙って聴いていてくれた。頷き、促し、一切の言葉を発しないその様子に、かつてハイルング人であることを打ち明けた時のことを思い出す。彼女はその時、話し終えた後安心させるように微笑んでくれたのだ。
「それと、私の様子がおかしいのに、気付いていらっしゃるようなのです。それなのになにもお聞きにならなくて」
「セラフィナ」
強い声に呼ばれて顔を上げると、真っ直ぐな瞳がセラフィナを射抜いていた。
「言うべきだわ」
「え……?」
「さっきはごめんなさい、失礼なことを。アイゼンフート侯爵はとてもいい方なのね。それならば、打ち明けたらいいと思ったの」
「それは、ハイルング人である事をですか? いけません、そんな……! 打ち明けたところで、もし国際問題になってしまったら取り返しがつかないのですよ」
セラフィナは珍しく声を荒げ、困惑のままに反論した。
これは未来の皇后が言って良い事ではない。もしかしたら戦争に発展するかもしれないという、大きな問題なのだ。
「アイゼンフート侯爵を信じてみたらどうかしら。きっと力になってくれる。あなたのことを化け物だなんて蔑んだりもしないわ」
図星を指されて息を飲んだ友人に、レナータは苦笑を返した。
「やっぱり怖いのね。きっと、両国の関係を憂うのと同じくらいには」
「そんな、こと……」
ああ、やっぱりレナータは鋭い。苦しさも、恐怖も、全て理解して助けようとしてくれているのだ。
それでも、ここまで自分を心配してくれる人がいるとわかって尚、セラフィナは秘密を守るべきだと考えている。この先罪悪感に押しつぶされそうな日々が続いたとしても、この身の辛さと引き換えに多くの人々の命が助かるのならその方が良いに決まっているのだから。
「あなたはもう、十分すぎるほど運命に翻弄されてきた。いい加減に自由になるべきよ。それに、私自身が、どうしてもあなたに幸せになってもらいたいの。私に出来ることがあるなら何でも言ってね。力になるから」
レナータの諭すような微笑みが胸を軋ませる。こんなに優しい人たちに囲まれて、やっぱりとても幸せだ。
本当に、勿体無いくらいに。