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妖精と黒獅子  作者: 水仙あきら
第一章 その結婚、皇帝陛下の勅命につき
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 微かに聞こえた蹄の音に、セラフィナは針をくぐらす手を止めバルコニーへと出た。

 しかし時刻は既に深夜十二時に差しかかろうかというところで、この暗闇ではその正体がわかるはずもない。自らの愚かさに嘆息しつつ室内に戻ると、ちょうど扉がノックされた。


「どうぞ」

「失礼いたします。セラフィナ様、旦那様がお戻りでございます」

「ええ、今参ります」


 案の定姿を現したのはエルマで、これもまた予想通りの言葉に頷いたセラフィナは、そのまま自室を後にすることにした。二人で廊下を歩きながら、他愛のない話に花が咲く。


「私に付き合わずとも良いのですよ。そんなに頑張っていては疲れてしまうでしょう?」

「いいえ、起きているのは私の勝手な判断ですから。セラフィナ様は刺繍をされていたのですか?」

「ええ、一度始めると楽しくて」

「素晴らしい腕前をお持ちですものね。私、勝手に完成を楽しみにしているのです」

「私などまだまだで……苦戦しているのです。でもそう言って頂けるのなら頑張らなくてはいけませんね」

「昼間拝見しましたが、とてもそうは見えませんでしたよ!」


 ランドルフと博物館へと出かけたのも既に一週間前の話になる。

 帰ってきてセラフィナがまずしたことは、刺繍の道具を揃えてもらうようにエルマに頼むことだった。すると彼女は飛び上がらんばかりに喜び、ものすごい意気込みで出て行ったかと思うと二時間後には息を切らせて戻ってきた。その手には超一級の刺繍用具がぶら下がっており、その量と質に驚愕したのもいい思い出である。

 セラフィナは感謝するとともに、やはり自らの態度が皆を不安にさせていたのだと知り、反省したものだった。それからは彼らと更に距離が近づいたように感じるのは、気のせいでは無いと思う。

 あれ以来変わったことがもう一つあった。それは、ランドルフが必ず帰ってくるようになったことだ。

 とても遅い時間になることも多いし、昼食時に合わせて帰ってきてくれたこともある。無理しないで欲しいと言うと、彼は決まって無理ではないと言い切ってくれた。

 セラフィナはとても嬉しいと思った。…いや、思ってしまった。

 この屋敷に来て以来、幸せを感じる度に同じ量の罪悪感が募っていく。

 与えられるばかりの自分。それなのにハイルング人という厄介な秘密を抱えたまま結婚しよういうのだから、放置されるくらいでむしろ御の字だというのに。

 一つだけ開けられた窓から夜の闇に冷やされた風が吹き込んでいる。苦しい心を抱えたまま、いつしか季節は晩秋へと移ろい始めていた。



 玄関に姿を現したランドルフは朝見たときと変わらずパリッと軍服を着こなしており、長時間仕事をした後とは思えない堂々たる佇まいだった。


「おかえりなさいませ」

「なんだ、起きていたのか」


 この困ったような笑みも、この一週間で幾度も繰り返されたものだ。

 ランドルフとしては自分に付き合って起きている必要はないという考えを覆すつもりはないらしい。

 セラフィナはそう言われても出迎える事をやめなかった。義務と考えている事もあるが、彼が帰ってくると思うと不思議と眠る気がしなかったのだ。


「はい。ランドルフ様、本日もお疲れ様でございます」

「有難いことだが、無理しているんじゃないのか? 今の時間まで起きていては、あまり眠れないだろう」

「私は平気です。 今はゆっくり過ごす時間も持つようにしておりますから。……むしろ、私にはランドルフ様こそ心配です」

「私は体力があるからいいんだ。これくらい何ともない」


 そこで、鞄を受け取ってからは控えていたディルクが、面白げに口を開いた。


「セラフィナ様、旦那様の仰ったことは真でございますぞ。何せ旦那様は不死身ですからな」

「不死身、ですか?」


 不死身とは、これまた随分浮世離れした単語が出てきたものだ。セラフィナが疑問に首を傾げると、ディルクは楽しそうに語り始めた。


「旦那様は昔から本当に体力自慢であらせられるのです。風邪に罹られたのはせいぜい幼少時くらいまでで、それ以来臥せっておられるのを見たことがありません。士官学校では雪山行軍訓練で遭難しながらもご学友を担いで帰ってこられたこともありましたなあ」


 ハイルング人の回復の力は絶対のものではなく怪我のみに限られる。病気には罹らないが空腹が過ぎれば死ぬし、寿命自体も普通の人間と変わらず、凍死だって平等に訪れる。

 セラフィナも雪山に放り出されなどしたら人と同じかそれ以下の時間しか持たないはずだ。それを人一人背負って帰ってくるとは、常人離れした体力を持っていることは間違いないのだろう。


「ああですが、怪我をなさることは多いですな。しかし、いつも一般的な入院期間を待たずに病室を飛び出してしまわれるのですよ」

「周りが大げさすぎるんだ。自分が治ったと感じたらそれで十分だろう」


 なるほど、勇猛果敢な黒獅子将軍らしいエピソードだ。しかしセラフィナの偽らざる本心は、ランドルフの健康への心配で一杯だった。

 この先彼が大怪我を負うようなことがあれば、きっと心穏やかではいられない。

 それなのに、大丈夫だと言われてしまえば自分からは諫めることもできないのだ。

 そう、セラフィナは嘘をついている。こんな不誠実な妻には、夫のすることに否を唱える資格などありはしないのだから。



 ディルクとエルマを下がらせた後、二人は連れ立ってランプの照らす薄暗い廊下を歩く。このごく短い時間が、ここ一週間において会話をするための貴重な時となっていた。


「それで、今日はエルマがわざわざ布を用意してくれたのです。すごく深い色合いをしていたので、古典的な図柄にしたんですよ」

「それは良かったな。完成したら見せてくれるか」

「もちろんです」


 他愛のない話をしているうちに、いつの間にかセラフィナの部屋の前に辿り着いてしまっていた。

 いつもならここで挨拶をして別れるはずが、この日は違った。


「セラフィナ。……何か、心配事はないか?」


 ランドルフの表情は背後から照らすランプに遮られ定かではなかったが、金の瞳が真剣みを帯びて真っ直ぐに自分を見つめていることが伝わってきた。しかしその視線に答えを強制する強さはなく、また声も慮るように優しい。

 セラフィナはその心遣いにまた一つ心を痛めながら、顔に笑みを貼り付けて首を横に振った。


「いいえ、何もありません。こんなに良くして頂いているのです、心配事など」

「……違うんだ。私には、貴女がそんなことで解消されるようなものじゃなく、もっと」


 ランドルフは言葉を詰まらせると、そのまま視線を外してしまった。彼にしてははっきりとしないその動作に、言いかけた言葉の先が思い当たる気がした。

 もしかして彼は私が隠し事をしていることに気付いているのだろうか。

 そこまで考えて、セラフィナは一気に顔を青ざめさせた。何か言わなきゃと思うのに、喉が凍りついたようになっていて言葉が出てこない。

 そして何よりも腹立たしいのは、今ここで全てを打ち明けてしまいたいと一瞬でも考えてしまう、自らの弱い心だった。全てを隠し通す覚悟でここにやって来た筈なのに、本当になんて身勝手なのだろう。

 しかし、その短い沈黙はランドルフによって破られた。かすかな息遣いに逆光に遮られた顔が微笑む気配を感じて、セラフィナは思わず顔を上げる。


「いや、貴女が大丈夫と言うのなら、それで良いんだ。……おやすみ」


 挨拶を返す間も無く、彼はその大きな手でセラフィナの頭を撫でると、そのまま踵を返して去っていく。

 その大きな後ろ姿が突き当たりの部屋に消えるまで、セラフィナはその場に立ち尽くしていたのだった。



 それからはいつもの日々が続いた。ランドルフは相変わらず忙しそうにしていたが、必ず日に一度は顔を見せてくれるし、その度に他愛のない話をする。

 結局は結婚式の日を迎えるまで、心配事についての問いが繰り返されることは終ぞ無かったのである。

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