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妖精と黒獅子  作者: 水仙あきら
第一章 その結婚、皇帝陛下の勅命につき
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12

 外に出ると時刻は午後四時を回ったところであった。

 入館してから既に三時間近く経過したことになるのだから疲れて当たり前だ。もう少し配慮すべきだったと後悔しつつ、ランドルフはセラフィナの様子を伺う。先程よりは顔色も良くなっているが、やはり元気が無いように見えた。


「大丈夫か? 馬車まで歩けるか」

「はい、大丈夫です。ご心配お掛けして申し訳ありません」

「なら良いが……」


 この後は食事でも取ろうかと考えていたのだが、こうなっては真っ直ぐ屋敷に戻ったほうが良いだろう。

 ともかく馬車に戻ろうと歩を進めようとした時だった。博物館の出口から楽しげに走り出してきた少年が、二人の目の前で盛大に転んだのである。


「大丈夫か?」


 ランドルフは反射的に駆け寄って、少年を抱え起こしてやった。膝に痛々しい擦り傷を拵えていたが、彼は気丈にも泣いていなかった。

 ——黒獅子将軍と目を合わせるまでは。

 しまったと思った時にはもう遅い。少年は見る見る瞳を潤ませると、声を上げて泣き始めたのだった。


「うわああああああ! こわいよおおおおお! たすけてええええ!」

「や、やめろ! 人の顔を見て泣く奴があるか!」

「うわあああ! あくまあああああっ!」

「あ、悪魔だと? 私は怖くないぞ、怒ってもいない! 頼むから泣かないでくれ……!」


 泣き喚く子供と強面の男という組み合わせは、否応にも人目を引く。遠巻きにひそひそと囁き合う衆人の気配を感じ取ったランドルフは、さらに焦って子供をなだめようとした。しかし必死になればなるほど恐ろしい形相になり、それを見た少年が更に声を大きくするという悪循環には気付いていない。

 一騎当千の黒獅子将軍が軽く絶望しかけた時、救世主は現れた。

 横から白い手が伸びる。その細い手が少年の頭を撫でると、彼はその優しい感触に顔を上げた。


「大丈夫ですよ。この方はあなたを助けようとしただけ。もう泣かないで下さい」

「う、うええ……だってえ……」

「では、お姉さんに膝、見せてもらえませんか?」

「ひざ……? はい」


 その時点で少年はすでに喚くのを止めていた。

 私を相手にしていた時と随分態度が違うではないか。

 あっけに取られていると、痛々しい膝小僧にセラフィナの手がかざされた。


「うう〜ん。んんんんん! むむむむっ!」


 そしてやたらと真剣な顔をして唸りだした姫君に、今度は少年があっけに取られることとなった。


「……おねえちゃん、なにしてんの?」

「治しているんです。こうすると痛くなくなりますから、待っていて下さいね。むむむーっ!」


 それは真剣味に溢れすぎて、逆にユーモラスな動きだった。

 少年にとっても同じように感じられたらしく、彼は思わずといった様子で吹き出してしまった。


「……ぷっ! あはははは! おねえちゃん、おもしろーい!」

「ね、治ったでしょう?」

「……あれ? 本当に痛くないや。おねえちゃんは、天使さまなの?」


 少年は頬を染め、輝く瞳でセラフィナを見つめていた。

 見とれている。明らかに彼女の美貌に魅了されている。天使なのかという問いは恐らくその美しさに対する疑問なのだろう。

 しかしセラフィナは痛みが取れて驚いていると解釈したらしく、「ふふ、そんな大層な者ではありませんよ」と微笑むと、彼の頭を撫でてやっていた。

 そこで博物館の出口から駆け出してくる人影があった。慌てた様子で周囲を見渡すその婦人を認めると、少年は「お母さん!」と叫び、にわかに立ち上がった。


「もう大丈夫ですね。お母さんが心配していますよ」

「うん! お姉ちゃん、おじちゃん、ありがとう!」

「……あ、ああ。もう転ぶなよ」


 笑顔一つ残して駆けていく少年の背を見送りながら、ランドルフは素直な驚きを得て立ち尽くしていた。

 子供に笑いかけられたのなんて、いつ振りだっただろうか。


「すまないな。助かった」

「いいえ、これくらい」

「いや、見事な手腕だった。私は見ての通り、女性や子供には酷く受けが悪くてな。貴女がいなければ危うく憲兵を呼ばれるところだ」


  冗談めかして肩を竦めて見せると、セラフィナは堪え切れないといった様子で吹き出してしまった。


「ふふっ……なかなかの慌てぶりでしたものね?」

「ああ、子供と相対するのは久しぶりだったのでな、油断した。あそこまで大声で泣かれるとは」

「ランドルフ様は体が大きいですから、驚いたのでしょう」

「む……そういうものか?」

「はい。次はもう少し屈んであげたら、きっと大丈夫ですよ」

「なるほどな。善処しよう」


  真面目に頷いたランドルフに、セラフィナもまた嬉しそうに頷き返した。

 それにしても彼女はランドルフに対して全く怯えた様子がない。萎縮しているところはあるようだが、それは恐怖心から来るものではなさそうである。


「貴女は私が怖くはないのか?」


 怖がっていないのならそれで良いと思っていた。

 しかし、ランドルフにとっては先ほどの子供の反応こそが当たり前で、セラフィナの好意的とも取れる態度は驚くべきものなのだ。出会ってより抱いていた疑問をここへ来てついに口にしてしまったのも、無理からぬことではあった。

 セラフィナは一瞬驚いたように目を見張ったが、特に悩む様子もなく笑みを浮かべてくれた。


「初めてお会いした時に、目が、とてもお優しそうでしたので」

「目? そうだろうか」


 自分の目が優しいなどと形容されるようなものではないことはよくわかっているつもりだ。目を合わせただけで怯えられたり、戦場で出会った敵兵に至っては命乞いをされるのが常で、間違っても優しそうなどとは言われたことがない。

 訝しそうに目を細めたランドルフに、セラフィナもまたその考えを察したらしかった。

 彼女は少し考えるように間を開けると、苦笑気味に話を始めた。


「あまり明るい話ではないので、特に申し上げるつもりはなかったのですが……私は、アルーディアの王宮で疎まれる存在でした。母は、その……異国の市井の生まれで、身分意識の強いアルーディアの貴族社会においては、到底受け入れられるものではなかったのです。関わりを持つ相手は限られていましたが、生きるためには周囲の人々の顔色を常に伺わなければなりませんでした」


 朝から感じていた可能性が事実へと形作られていくのを、ランドルフは明確な怒りを持って受け止めることとなった。

 この遠慮がちな姫君が何をしたというのか。彼女らを迫害したという隣国の貴族どもに詰め寄りたくなる衝動を、長く息を吐くことによって堪える。


「そうしていつしか、目を見ることによって信頼していい方とそうじゃない方、その二つを見分けることができるようになっていたのです。といっても、それも絶対ではなく、なんとなくなのですけれど」

「……そう、だったのか」

「はい! ランドルフ様の目は、確かに力強さが印象的ですが、同時に真面目さや誠実さが滲み出るようです。とても、とても信頼できる目です」


 セラフィナはあくまでも明るく自らの生い立ちを語った。それは何でもない事のように、過ぎ去った過去をふと振り返るような気安さで。

 しかし、ランドルフは「そうか、大変だったな」などと労って、簡単に受け止める気には到底なれなかった。

 気の利いた台詞の一つも出てこない自分が嫌になる。こんな時ルーカスなら何と言うだろうか。あるいはシュメルツや、皇帝陛下だったら。

 女の扱いに長けていると思われる男達の顔が無意味に通り過ぎて行くのを見送ったランドルフは、結局のところ難しい顔をして黙り込んでしまった。

 その厳しい顔つきに何を思ったのか、セラフィナは今までの明るい様子から一転、顔を蒼ざめさせて慌て始める。


「あ……で、ですが、もちろん味方になってくれる人達もいたのです。その人達もまた、ランドルフ様と良く似た目をしていました。ですから、そんなに辛い事ばかりではなく! そもそも、どんな国でも王宮というものは敵味方入り乱れる魔宮と化しているとはよく聞きますし、さして特殊な状況というわけでもなかったのだろうと」


 セラフィナは何やら必死の様子で言い募っている。

 これはもしかしなくとも、気を遣わせてしまったのか。その事実に気付いてしまえば、何も言えない悔しさよりも、慰めるべき相手に気を遣わせてしまった情けなさの方が上回った。


「つまり、ランドルフ様が気に病まれるような事では……! 申し訳ありません、私っ」

「セラフィナ」

「はいっ!?」

「私は、貴女には伸び伸びと過ごしてもらいたいと思っている。何にも怯えず、何をするにしても伺いを立てる事なく、人並みの自由と幸せを貴女が当たり前に受け取れるように。私には心を尽くす義務があると…そう、思っている。だから」


 思うことは口に出してほしい。困ったら頼ってほしい。もっと自然な笑顔を見せてほしい。


「だから、貴女はそんなに遠慮しなくていいんだ」


 伝えたいことは山ほどあったが、ようやく口をついて出たのはあまりにも拙い一言だった。

 しかも必死になるあまり顔が怖くなっているはずだ。あまりの不甲斐なさにしゃがみ込みたくなる衝動を堪えていると、セラフィナが泣き笑いのような表情をしていることに気付く。この表情は先程見たように思う。そう確か、二人であのお守りを見ていた時の。

 しかしなぜ彼女がこのような顔をするのか、ランドルフにはわからなかった。


「ありがとうございます、ランドルフ様。本当に、ありがとうございます」


  何もしてやれていない。身一つで嫁がされたこの健気な人に、自分は何ひとつ与えることができていないというのに。そんなふうに笑って、礼を言ってくれるのか。

 この悲しそうな笑顔の理由もいつか教えてくれたらいいと思う。出会う前はただ何不自由なく過ごしてもらえればそれでいいと思っていたのに、もっと知りたいと思うのは、一体何故なのだろうか。


デート編終了です。

次の日常回の後、ようやく結婚式に入れるかと思います。

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