11
「そう、そこで針をくぐらして。…そうそう、上手よ」
「綺麗にできるかしら?」
「楽しみね。きっと素敵な品ができるわ」
午後の日差しが柔らかく室内を照らし出す中で、母娘は刺繍に勤しんでいた。
この時セラフィナは十二を迎えており、いつしか難しい作業もこなせるようになっていた。娯楽の少ないこの離れにおいて、刺繍は貴重な楽しみの一つなのだ。
セラフィナは半分まで完成した青い小鳥を満足げに撫でると、ふうと息を吐いて手を止めた。母の手元を見れば複雑な文様が出来上がりつつあって、小鳥との見映えの差に少し落ち込む。
「ねえ、母さま。それってハイルング文様っていうのよね?」
「ええ、ハイルング人に代々伝わる文様なのよ。私たちは目の色が青いから、青色を使うの」
少しずつ色味の違う青い糸を何本も使ったその刺繍は、植物を象った優美な図柄で、アウラがセラフィナの部屋着にと刺してくれている物であった。
「私もやってみたいわ」
「セラフィナにはまだ早いかしらねえ…」
「やっぱり難しい?」
「それなりにね。でも……そうね。小鳥さんが終わったら、やってみましょうか」
「本当? 約束よ」
「ええ、約束。ちゃんと完成させたらね」
「わかった、私、頑張るわね!」
にわかに目の色が変わり作業に没頭しだしたセラフィナに、アウラは苦笑しつつ自身も作業を再開した。
鳥の鳴き交わす声だけが聞こえる静かな部屋。穏やかな昼下がりであった。
それは本当に突然のことだった。
「本当に行くの、母さま?」
「ええ、陛下からの呼び出しだもの」
国王陛下からの呼び出しだなんて、セラフィナの記憶の中では初めてのことだ。
一体なんの用事なのか見当もつかない。もしかしてこのまま母は二度と帰らないのではないかと取り留めのない不安に駆られ、ともすれば行かないでと縋り付いてしまいそうだった。
しかしそのような事は許されない。国王が実の父として一切の責務を果たさなくても、セラフィナ達母娘にとっては唯一の生命線なのだ。そんな人物からの呼び出しを無下にして良いはずがない事は、子供とはいえよく理解していた。
「セラフィナ、これをあなたにあげるわ」
その不安を、アウラもまた感じ取っていたのだろうか。差し出された手の上に乗っていたのは、ハイルング文様の刺繍が施された小さなお守り袋だった。
「これ、なあに?」
「ハイルング人に伝わる伝統のお守りよ。シヤリという樹の実を入れてあるの」
「でもこれ、母さまが故郷から持ってきたものでしょう? そんな大事なもの」
「いいのよ。このお守りはね、相手の幸せを願って渡す物なの。母さまは充分幸せを貰ったから、今度はあなたの番よ」
幸せ。この暮らしを母は幸せと感じていたのか。
セラフィナはもちろん幸せだ。母がいて、姉がいて、お兄さんみたいな人もいてくれて、こんな幸せなことはないと思っている。
しかし母はどうなのか。元はハイルングの隠れ里で生き、外の世界を見るために飛び出してきたのに、今は塀の中で暮らしている。一切の自由も無く、日がな一日家事に精を出す母の手が硬く荒れているのを知っている。時折寂しそうに遠くを見つめているのを、知っているのだ。
だが、そんな母が幸せだと言った。それは幼いセラフィナの胸に確かに刻まれ、大きな喜びとなって熱を放つ様だった。
「ありがとう、母さま! 大事にするわね」
「ええ、そうしてちょうだい。あと、一つだけ覚えておいて」
「なあに?」
「そのお守りは誰かに渡したくなったらシヤリの実を半分だけ出して、新しく作り直したお守り袋に入れてあげるの。本当なら両方に新しくシヤリの実を足さなきゃいけないのだけど、今は手に入らないから何か別の物で代用したらいいわ。幸せを願って大切に縫うのよ」
「それがこのお守りの伝統ということ?」
「そうよ。今回はそのまま渡してしまったけれど」
「わかったわ。その時までずっと大事に持ってるわね」
「うん、良い子ね」
アウラはいつものように笑うと、セラフィナの頭を撫でてくれた。行ってきますと母が言ったので、絵本に載っていたのを思い出して行ってらっしゃいと返す。そのぎこちない挨拶に笑みを深くしたアウラは、ブルーグレーの髪を隠すように頭から布を被ると、そのまま背を向け出て行った。
わからない。目の前のこの状況は、一体何?
セラフィナはまるで眠るように横たわる母を、一切の瞬きなく見つめていた。まるで眠っているかのように安らいだ顔をしているのに、その胸に咲いた赤があまりにも鮮やかでどうしても目を離せない。
どうして、どうして。昨日の夜も、今日の朝も同じように微笑んでいたのに。無事に帰ってきてくれると信じていたのに。
やっぱり無理にでも止めるべきだったのだ。父王の命令なんて、母の命に比べれば砂のごとく軽いものなのだから。
母を運んできた大人たちに聞けば、何か分かるだろうか。騎士服をまとった彼らを仰いだセラフィナは、震える唇を開こうとした。
しかしそれは叶わなかった。彼らが俄かに緊張をたたえ、一斉にひれ伏してしまったからだ。これは見たことがある。確か、レオナルドがベルティーユに対してよくとっていた姿勢だ。確か、さいけいれい、といっただろうか。
セラフィナは彼らが礼をしたその先に視線を送る。果たしてそこには、部屋に入るのを躊躇するように、どこか儚げな雰囲気をまとった男が立ち尽くしていた。
「セラフィナ、なのか……? なんてことだ、こんなに、大きくなって」
男は泣きそうに顔を歪ませ、幽鬼のような足取りで一歩を踏み出した。セラフィナは微動だにしないままその男を見上げていたのだが、自分にそっくりのプラチナブロンドと、口にしたその言葉の内容、更に騎士達の態度からその正体を察してしまった。
瞬間、言いようのない怒りが胸を焼いた。初めての感情に戸惑いながらも、セラフィナはその激情を言葉に載せていく。
「母さまは、どうしてしんでしまったの?」
ハイルング人は無敵ではない。治せる傷は「致命傷と欠損以外」だというのは、早いうちから教えられていた。しかしそれでも、普通の人間よりは圧倒的に死ににくい。それなのに。
「どうして、今更母さまを呼び出したりしたの? ……どうして、守ってくれなかったの!?」
セラフィナの剣幕に、国王フェルナンは死人のように顔を青くして歩みを止めた。それはさながらぜんまいの切れた絡繰り人形のような唐突な動きだった。
「母さまは、待ってたの。あなたが会いに来るのを、ずっと待ってた! なのに、なのに……!」
セラフィナのあまりに無礼な振る舞いに、騎士たちが背後で神経を張り詰めているのを感じる。しかしそんなことはどうでもよかった。今はただ、この激情を吐き出さずにはいられなかった。
「あんまりじゃない! こんなのひどすぎるわよ……!」
目が熱を持って霞んでいて、国王の表情も今はよく見えない。
セラフィナは荒い息をしてその場に座り込んでしまった。ひっきりなしに溢れてくる涙を拭うが、それは一切の意味をなさず、次々とワンピースに染みを作っていく。
「……すまない」
やがてぽつりと告げられた謝罪は、自身のしゃくりあげる声に阻まれて届くことはなかった。フェルナンがおぼつかない足取りで出ていくのも、その後に騎士たちが付き従ったのもどうでもよかった。
次の日の朝、使いの者が王宮に居を移すよう告げに来るまで、セラフィナは蹲ったまま泣き続けていた。
*
「セラフィナ? どうした、疲れたか」
不意に頭上から降ってきた声に、セラフィナは過去に沈んだ意識を急浮上させた。
見上げるとランドルフが凛々しい眉を寄せてこちらを見下ろしている。一見すると怒っているような顔だが、これは心配してくれているのだろう。せっかく忙しい中連れてきてくれたというのに、随分と失礼な事をしてしまった。
「申し訳ありません! 疲れたわけでは」
「無理をしなくていい。これだけ展示品を見てきたんだ、疲れて当たり前だろう。顔色も悪いようだ」
「そうでしょうか?」
「ああ、もう出たほうが良い」
自分はそんなにひどい顔をしていただろうか。いやそれよりも、せっかく一緒に出かけられたのに。後悔の念に苛まれ、セラフィナは慌てて首を横に振る。
「私は平気です! 連れて来ていただいたのに、疲れたからといってすべて見ないうちに帰るなんて…」
あまりにも身勝手ではないだろうか。恐縮して余計に青ざめるセラフィナに、ランドルフは安心させるように微笑んで見せた。
「なんだ、そんなことを気にしていたのか。博物館くらいまた連れてきてやれるし、そもそもここは広い。一日で全て回りきる者の方が少ないくらいだ」
「ですが」
「そんなに具合が悪そうなのにこれ以上連れ回すことはできない。さあ、手を」
半ば強引に手を取った彼は、迷いのない足取りで歩き出す。
セラフィナは思わず回想のきっかけとなったお守りを振り返っていた。きっとあれは、本物だ。アイゼンフート家の先祖の誰かに、ハイルング人がその幸せを祈って渡したものなのだ。
そう告げたらこの方は一体どれほど驚くことだろう。
そんな事を考えてその広い背中を見上げたセラフィナは、なんだか無性に苦しくなって俯いてしまった。
--きっと平和を願う、穏やかな種族なのだろう--
先ほど穏やかな笑みとともに告げられたその言葉にどれほど救われたことか。
この人ならばもしかしたら、自分の出自をも受け入れてくれるのではないかという思いが脳裏を掠めた。
しかしそんな事が許されるはずもない。
セラフィナがハイルング人の末裔であることが露見した場合、それは歴史を覆す程の大発見となる。突然変異としてのハイルングの落とし子であるという言い訳は、純潔のアルーディア人であることを是とするアルーディア王家出身とあっては通用しない。どのような国際問題となるのかは前例がないだけに未知数で、最悪の場合その力を取り合って戦争が巻き起こることすら考えられるのだ。
重大な隠し事をしている罪悪感が、澱となって胸中に降り積もっていく。苦しさに顔が歪みそうになるのを堪えながら、セラフィナは無言で足を動かし続けたのだった。