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セラフィナの過去編です。
幼い頃、セラフィナの世界は三人の優しい人たちで構成されていた。
一人は異母姉、ベルティーユ。
もう一人はベルティーユの護衛に着く近衛騎士、レオナール。
そして母のアウラ。
他の誰にも会うことはなかったし、塀に囲まれた小さな離宮から出ることは叶わなかったが、それでも幸せだった。彼らが居てくれるだけで小さな姫君の心は満たされていたのだ。
その平穏が危うい均衡の上に成り立っていた事など知る由もないままに。
*
「セラフィナ! ベル姫がきてくれたわよ。こっちにいらっしゃい」
優しい声に呼ばれて振り向くと、テラスにアウラとベルティーユが立ってこちらに手を振っているのが見えた。セラフィナは嬉しくなって、一直線に庭を駆け抜けていく。
「ベル姉様! いらっしゃいませ!」
「セラフィナ、久しぶり! 元気だったの?」
幼い姫君たちは手に手を取り合い、再会を喜びあった。血の繋がった姉妹だというのに、彼女らは自由に会うことができないでいたのだ。
現在十二歳のベルティーユはこの国の第一王女であり、王妃フランシーヌのただ一人の嫡子。二歳年下のセラフィナは、国王の妾であるアウラの娘だ。
本来ならセラフィナ達母娘はそれなりの待遇を受けられたはずだったが、王妃フランシーヌによってこの離宮に閉じ込められていた。
王妃こそが正統な王家の血筋であり、国王は親戚からの入り婿であった為に強く出ることができない。そして悪いことにこの母娘の出自を隠さざるを得なかったことが、王妃に迫害の口実を与えてしまっていた。
「あらベル姫、あなたまた傷を作っているわね。貸してごらんなさい」
ベルティーユはここに来るまでに幾つかの無茶をしている様だった。アウラも最初は危ないから来るべきではないと止めたものの、言っても聞かないので今は諦めている。
ベルティーユの血が滲んだ腕に優しい手がかざされた。時間にして恐らく五秒程度だっただろう。アウラがその手を退けた時、そこにあったはずの傷は綺麗さっぱり無くなっていた。
「ありがとう、おばさま! もうすっかり治ってしまったわ」
「怪我は隠さずに言うのよ。すぐに治してあげるから」
アウラは青灰色の髪を耳にかけ直すと、上体を起こして子供たちの手を握った。
「さあ、中に入って。お茶にしましょう」
アウラはハイルング人だった。
以前母から聞いた話によると、世界のどこかにハイルング人の隠れ里があって、母はそこから出奔したのだと言う。
明るくて働き者で優しい母は、女神もかくやというほどの美貌の持ち主だった。そして強力な癒しの力を持っており、ベルティーユの怪我を見つけてはすぐに直してしまうのだ。
セラフィナはそんな様子を見てはいつも羨ましい思いをしていた。ハイルング人との混血とはいえ、人と比べれば圧倒的に傷の治りが早く、アウラに言う前に治ってしまう。それなのに他人の傷を治してやれるほどの力は無く、こういう時は決まって蚊帳の外。それがなんだか無性に寂しかった。
中に入って手作りのパウンドケーキを三人で囲んでいると、外扉に取り付けられたベルが鳴らされるのが聞こえた。
ベルティーユがあからさまに顔をしかめる。彼女がここへ来ている時の訪問者といえば彼しかいない。
程なくしてアウラに導かれてやってきたのは、予想した通りの人物であった。
「姫様、やはりここにいらっしゃったのですね! 今日はピアノの先生がお見えになることはご存知だったはずでしょうっ!?」
気の毒な程顔を青くして駆け込んできた彼は、ベルフィーユの護衛を務めるレオナール・ブランシェである。
十六歳にして重大な責務を任されたこの少年は気が弱くも真面目で、自らの職務を全うしようとするあまり、よく貧乏くじを引かされるという過酷な運命を背負っているのだった。
今日もまたお転婆な姫君に振り回された彼は、いつもはきちんと整えられた焦茶色の髪を乱し、今にも泣き出しそうに顔を歪めていた。
「だって私、ピアノって大嫌いなんだもの。辞めたいって言ってるのに辞めさせてくれないお母様が悪いのよ」
「そう仰らずに……! ピアノは楽しいですよ、お好きな曲を選べるよう私からも願い致しますから、何卒」
「落ち着いて、レオナール。そんなに早口で喋ってはベル姫も嫌になってしまうわ」
「っ! アウラ様、申し訳ありません。お騒がせしてしまい…」
「それは構わないのよ。あなたたちが来てくれるのは、私達にとって嬉しいことだもの。ねえ、セラフィナ?」
「うん! 私、ベル姉様もレオナールも、大好き!」
セラフィナにとって母との二人暮らしは苦にならなかったが、二人が来てくれることは代わり映えしない毎日にもたらされる数少ない幸せの一つだ。
ベルティーユは力一杯セラフィナを抱きしめ、レオナールもまた微笑んでくれた。
「セラフィナ! もう、私も大好きよ!」
「セラフィナ様……ありがとうございます。光栄に存じます」
その様子をアウラが目を細めて見つめている。
ああ、なんて暖かいんだろう。セラフィナは子供心に確かな幸せを感じて、うっとりと目を閉じそうになった。
しかし直前で先ほど抱いた疑問が思い出されて、好奇心のままにその質問を口にする。
「ねえ、そういえば、ピアノってなあに?」
すると、今までの和やかな空気が嘘のように凍りついてしまった。顔を強張らせた三人に、セラフィナは自分がまた「やってしまった」事に気付く。
それはセラフィナが塀の外の世界に興味を抱いたときに起こる。そんな時、皆は一様に緊張し、決まって次には悲しそうに目を細めるのだ。
ああほら、今回もまた。
「……ピアノっていうのはね、楽器の一種なのよ。まあ、母様も弾けないんだけどね」
そうやっていつも明るい母が悲しそうに笑うから、セラフィナはいつしか外の世界について尋ねなくなっていた。
きっと娘に外の世界を見せてあげられないことが悲しいのだ。こんなにも優しい人達を困らせるくらいなら、私は外の世界なんて知らなくたっていい。そんなものはいらない。
「楽器? 私音痴だから、きっと下手くそね。やってみなくてもわかるわ」
ベルティーユは沈痛な面持ちでゆっくりとセラフィナを解放すると、そのまま俯いてしまった。気にしないで、と声をかけようとしたのだが、思った以上に彼女は早く顔を上げてくれた。
「私、戻るわ。嫌いだけど……ちゃんと授業を受けてくる」
「姫様?」
決意みなぎる瞳で立ち上がったベルティーユに、レオナールも困惑しつつ立ち上がる。
「私、わがまま言ったわ。なんでも学べる立場なのにそれを投げ出すなんて、そんなひどい事ないって思い出したの」
「ベル姉様……?」
「ごめんなさい、セラフィナ。私、頑張るからね。それじゃあおば様、おじゃましました」
「ええ、気をつけてね」
丁寧な礼をして踵を返したベルティーユは、そのまま振り返ることなく出て行ってしまった。その後を慌てて追いかけようとしたレオナールだが、ふと足を止め、少しの逡巡の後ぽつりと言葉を落した。
「姫様もお辛いのです。やはり、王妃様とうまくいっていないご様子で、時折ああして反発を」
「そう……辛いでしょうね、まだ十二歳なのに」
「ええ、ですが、あの方は強い。立派な女王になってあなた方を助けるのだと、この間は仰っておられました」
「え? ベル姉様、女王様になるの?それってとっても素敵ね」
小声で話す二人の言葉はほとんど聞き取れなかったのだが、唯一聞こえた女王という言葉に反応すると、揃って笑顔を見せてくれた。
「そうね、そうなったらとっても素敵だわ」
「きっとあの方なら素晴らしく立派な女王陛下になられましょう。さて、長居をいたしました。私はこれで」
「ええ、ご苦労様。レオナール、ベル姫に伝えてもらえるかしら。無理しなくていいの、休憩のつもりでここに来てくれたらいいから、って」
「は、確かに承りました。では失礼いたします」
レオナールは騎士のお手本のような敬礼をすると、折り目正しい動作で踵を返して駆けて行った。