七部
8、葉瑠音
グループGのフロアがあるビル前。午前4時を過ぎた。
中林は検査許可が下りた事を御手洗からの連絡で知った。
これであの壁の向うを調べられる。
すぐ御手洗の捜査チームと結城の科学班の出動を指示した。
数分で合同捜査班が来るだろう。ビルの管理者に事の次第を説明し、
まもなく令状をもって正式捜査を開始する旨を伝えた。
ただし、今回はビルの構造的なものが基準道理に運用されているかどうかの検査であり、
中林達の事件捜査の件は伏せて調べることになる。
そしてビルのオーナー側が不利益にならないよう、
捜査のことは外部には一切伏せておく事を条件に関係者から了承を得た。
この捜査を開始する前、葉瑠音から歩大尉が行方不明になったとの連絡があった。
学校の帰りに商店街に向かってその後足取りが途絶えたらしい。
今回も実芦と同じように突然所在不明になってしまったようだ。
それは同じ連中の仕業であることは予想できる。
今回の捜査にて必ず二人を見つけてみせる。中林の決意は強かった。
やがて、ビルの正面の道路に数台の乗用車、
ワンボックス、トラックの一団が乗りつけた。
いずれの車も工事関係のような外観で、
ビルの設備調整などの仕事に来たとしか思えなかった。
先頭の車から御手洗が中林を見かけて窓を開けた。
その姿はヘルメットに作業着という井出達だ。
「先輩、お待たせしました。準備はいいですか?」
中林がすばやく走り寄り御手洗に手を上げ駐車場の入り口を指し示した。
「それじゃ、打ち合わせ通りに頼む」
その声を合図に車は地下駐車場に整然と入り奥へ向かった。
車両の一団は最下階より一階上のフロアの一角に止まった。
中から作業員の格好をした捜査員が降り必要機材を準備し始める。
「あくまでもこのビルを調整、メンテナンスをしている様に頼む。
例の奴らも普通に出入りするだろうから、
そのときは感づかれないよう慎重に振舞ってくれ。
中に入れるようになってもすぐには行動しないで欲しい。
捜査対象が人質として監禁されていた場合は、
さらに次の手順を用意して再度確認の後、
捜査開始とする。いいな」
準備作業をしながら、静かな声で中林がメンバーに指示を促した。
御手洗と結城を呼ぶ。
「あの壁を調べる手順はいいな。御手洗は出入りの車を見張っていてくれ。
奴らの車がきたらみんなに合図を。結城は俺と一緒にあの壁まで行く。」
「はい、大丈夫です。とりあえず必要最低限の機材をもっていきます」
結城が中林の後をついて最下階へ向かうと、
それを合図に御手洗と数人が各主要な出入り口に散っていった。
中林たちが最下階の一番奥に着いた。
例の壁は相変わらず何の変哲も無いままである。
ただし、その壁の床には勢いよくその壁の奥に向かっている事を示す、
タイヤの跡がある以外はである。
「これは実に不思議なことですね。
このタイヤ痕は壁を目の前にして一切停止していないですね」
「いや、俺はこの目で見ているから当然といえば当然なんだが、
解っていても理解できないでいる。
そこをお前にその手品の種を明かして欲しいのだ」
中林はどんな手順でこの壁のなぞを解き明かしてくれるのか、
期待を込めて結城に話した。
「では、少し準備させてください」
結城は手早く機材を壁から数メートル離れた位置に設置し始めた。
突然の車の出入りがあってもすぐには見えない柱の影を選び、
カメラのような物をその壁に向けていた。
「これで対象を確認します。
後はその開いた場所の四隅のマーキングを中林さんにお願いします」
結城は短いマーキングペンを中林に手渡した。
中林は渡されたペンの先を確認しながら壁の前に立ち、
車が出入りしていたときの事を思い出し、
床の位置、上部の位置の四隅にペンの先を押し付けた。
「何も印が見えないが、大丈夫か?」
中林がけげんそうに結城のほうに振り向いた。
「こちらのセンサーでそのペン先をモニターしています。
いま機材のほうで認識完了です」
そうなのか、と中林は納得した。
下手に印が残れば中の連中に出入りの際に感づかれてしまう。
機材の後ろ側にまわり、
壁の様子が見える位置に来た中林は結城の様子を見ることにした。
準備が出来ると結城の動きがせわしくなってきた。
センサーカメラの後ろに設置したモニターに、
中林がマーキングした部分が映し出されている。
キーボードから調整用の入力をして、そのつど画面が変化していく。
モニター全体が波を打っているように見える。
しばらくするとマーキング位置を基点に四角いものが色違いで表現された。
「では、これから特殊光を照射します。このゴーグルを掛けて下さい」
中林は手渡されたゴーグルをつけた。小さな音が聞こえると壁が薄くなってきた。
明らかにその場所が空間であるように見える。
ただ、中の様子は見えない。
ゴーグルをはずすと壁は前のままだ。
「壁は消えないが、どうしてだ」
「いまは構造を確認しています。
あと数分ですべての位置を限定して、
この壁が維持されている周波数を認識できれば、
いつでも壁を消すことができます。もうしばらく待っていてください」
結城の作業を見守りながら、中林はすでに突入の準備を考えていた。
上階までの駐車スペースを考えるとこの中はかなり広い筈だ。
ほかに出口があるとすれば地下通路のようなものだろう。
これは奴らが実際に逃げ出さないと位置特定は難しい。最悪は立てこもった場合だ。
交渉が長引けば二人の身が確実に危険な状態になる。
中林は考えられる状況を模索していた。
「中林さん、準備できました。分析結果は私たちが研究しているものと同じですが、
構造維持と分子レベルの再配置技術が革新的です。
これを考えた人間はまさに天才でしょう。
転送というよりは分子構造で再配列し、完全に既存の壁との融合を成功しています。
その技術によりまったく継ぎ目の無い壁が可能になっています」
「まあ、詳しいことはお前に任せるとして、すぐに消すことは出来るのか?」
「はい、大丈夫です。ただ中に同じ壁があった場合は現在の周波数と同じでないと、
次の壁を消すのに数分から数十分かかるかもしれません」
「となると、最初の壁までが勝負だな。場合によって長期戦は避けられないか」
中林は腕を組んだ。せめて中が見通せれば作戦も立てられるのだが。
「結城、単純に中の構造は調べられないか?」
「いま、同時に外部より構造を調べていたのですが、
なにか内部の壁全体にコーティング素材のようなもので覆われているようで、
はっきり見分けるのが不可能です。
あらゆる周波数で確認していますが、
すべて反響してしまいどのような形のフロアか認識不可です」
「となると、突入は無理か」
中林が残念そうに顎をなでると、突然、結城が振り向いた。
「そうだ、これは賭けですが内部の人間は多分外部との連絡を取るために、
携帯電話の無線機能を設置しているかも知れません。
一瞬ですが壁を消してその隙に小型センサーを内部に送り込めば、
携帯通信で内部の構造を確認できるかも知れません」
「よし、今は出来る事をすべて試してみるしかなさそうだ。すぐに始めてくれ」
結城はすでに小型センサーを中林に渡そうとしていた。
雨豆裸は話が終わるとゆっくり立ち上がり奥のスペースに向かった。
「シャワーを浴びてくる。実芦も使うかい?」
実芦は軽く首をふった。
「いい。私はこのままで平気だから」
歩大尉のほうに視線を向けながら小さな声で返事をした。
歩大尉は疲れたのかだいぶ前に赤い台を背中に、クッションの上で寝息を立てていた。
ここに連れられてきて、危害が加えられない事が解ってから、
雨豆裸と実芦と歩大尉はすっかり打解けて、
三人は与えられた時間をお互いの話で過ごしていた。
それは三人が同じ年齢であったのもひとつの要因であろう。
いろいろな話題がでた。
ほとんどは実芦を中心とした高校生活の話題や、
最近街に出来たショップに、ファッションの事。
意外だったのは雨豆裸のファッション関係の話題だ。
そのことには広い見識で自分のこだわりを語っていた。
実芦と歩大尉は感心していた。
激しい気性を感じさせる雨豆裸が、
ことファッションになると肌理の細かいセンスが感じられたからである。
そして、雨豆裸が一番興味を惹かれたのは歩大尉の料理の話である。
小学校の頃から身につけ、
今では出来ない料理が無いのではないだろうかと言わんばかりに語る様子を、
雨豆裸はあきもせずに聞き、逆に質問攻めにしていた。
料理は出来ない雨豆裸であったが、
どこで覚えたのか料理の種類はよく知っていた。
歩大尉の説明するいろんな料理はほとんど知っているようである。
ただ素材の詳しい料理方法は知らないので、
歩大尉の話すことに一つ一つ、ああ、あれはそういうものだったのか、
と相槌をうち長々と会話は続いた。
実芦は今まで歩大尉と料理はすることはあったが、
その考えまではあまり気にしていなかった。
改めて二人の会話で歩大尉の料理に対する情熱を感じた。
一通り話題が一巡すると歩大尉は疲れたといって横になった。
実芦と雨豆裸は相変わらず話が続いていた。
そしてそろそろ夜明けが近いとなると、雨豆裸がシャワーを浴びに立ったのである。
このフロアの環境は最適に保たれているようだ。
暑くも無く寒くも無い。乾燥もなく心地よい空気が漂っている。
窓も無いのに時間や人の出入りに会わせて、
最適の明かりが間接的に上下から来る。
ただ入り口から一番奥まで壁のくねりだけで区切られているだけで、
脇へのドアは無い。
雨豆裸たちが特定の壁を前にして腕を上下させると、
そこに空間ができて出入り出来る様になっている。
ここのメンバー全員が腕につけている細いリングがその鍵になっているようだ。
一方、徒具呂は研究室にはいったまま出てこない。
だいぶ前に無限と平田は出かけていったきりだ。
その後、グレーのセダンに乗って実芦を連れてきた、
キャップ帽の男が戻ってきていたようだ。
雨豆裸がキャップ帽に話をしに行っていたが内容は不明だ。
ただキャップ帽は入り口近くで休んでいるようだが、
ここからは遠いので何をしているのかはまったく解らなかった。
これからの事を考えると実芦は不安になったが、
きっと葉瑠音ばあと中林さんが必死になって二人を探しているはずだ。
いや、すぐ近くまで来ていてすぐに助け出す準備をしているかもしれない。
実芦はそんな感じがしてならなかった。
そのために、いつでも歩大尉のそばにいなければと実芦は強くそう思った。
キャップ帽の男はフロアの入り口近くで車の整備をしていた。
もともと機械整備の技術は持っていた。
その能力も活かすように徒具呂から指示されていて、
グループで使う車両はすべてキャップ帽が整備改造を手伝っていた。
車両はフロアの入り口があると思われる場所から10メートルぐらいの場所である。
その壁が一瞬瞬いた。
そして空洞が出来、下の隅に小さな球状のものが転がって静かに止まった。
すでに壁は元のままになっている。
キャップ帽はちょうど壁に向かって背を向けていたのでまったく気づかなかった。
整備も片付いたので、
休憩をするために飲み物をとりに近くの収納スペースに移動したキャップ帽であったが、
何かざわめく様な気配を感じ後ろを振り向いたキャップ帽の身体は凍りついた。
そこには中林が銃を構えて立っていた。
さらに後ろには御手洗と数人の作業員の格好をした警官達が銃を構えて周辺を見張っている。
「よう、下手な真似は無しだぜ、素直にそこに手を上げてうつ伏せになってもらおうか」
言われるままにキャップ帽は床に這った。
御手洗がキャップ帽の手を後ろに回し手錠を嵌めて、
身体をしらべて武器らしきものがないと確認すると、
後続の警官に確保するように指示した。
実芦たちがいる奥のフロアに中林が突入した瞬間、照明が赤い色に変わった。
突然の変化に実芦は歩大尉を揺り起こした。
「大変、何かあったみたい。起きて歩大尉」
少しだるいのか、ゆっくりした態度で目を覚ました歩大尉は、
周りが真っ赤なのに一瞬たじろいだ。
「え、どうしたんだいなにか起こったのか」
「いえ、照明が突然変わっただけだけど、なにか変よ」
そこへ、雨豆裸が壁の中から出てきた。着替えていた。
「奴らが来たようだ。悪いけど一緒に来てもらう。すまない」
雨豆裸がこっちへと合図をした。
その瞬間今まで出口方向の一番狭くなっている所に壁が出来ている。
侵入者を防ぐ為だろう。
仕組みは解らなかったが一瞬にして出口は塞がれた。
歩大尉は緊張していた。実芦が腕をつかんで歩大尉を見上げていた。
「大丈夫、雨豆裸ちゃんが私たちを守ってくれるから」
その言葉には信頼できるものがあった。
今までの歩大尉たちに接してきた雨豆裸の態度だ。
それを思うといくらか落ち着いていられた。
雨豆裸が指し示したところが空間になっている。
そこは部屋ではなく真っ直ぐに奥へ続く通路であった。
「さあ、必要な荷物はもって、私に付いてきて」
それぞれの鞄とそのほかの荷物を手に持ち、歩大尉と雨豆裸はその通路に入った。
その瞬間壁は消えフロアの中も照明が普段の明かりになり、出口方向の壁だけが残った。
中林はキャップ帽以外その周辺に誰もいない事を確認すると、
警官たちと奥へ進んだ。大体の大きさは把握していたが、
実際に踏み込んでみるとかなり深い。
ゆっくりと周りを確認しながら一番奥と思われたところに来たが、
センサーのデータと若干深さが違うようだ。
結城が一番奥の壁を調べた。
「ここに新しい壁が作られたようです。すぐに消します」
結城が背中に背負った機材をすばやく床に置くと、端末のキーを押した。
一瞬にして壁が着えた。
そこには巨大なモニターと赤い台が置いてあり、何人かがそこに今までいた痕跡があった。
「しまった。逃げられたか」
「中林さん、これは、高校の制服の一部じゃありませんか」
御手洗が白いスカーフを手にとって、中林に見せた。
それには高校の校章のマークとイニシャルのM・Aと刺繍があった。
「確かに、これは実芦がいつも制服の首に巻いているものだ。
やはりここにいたのだ。
くそ、あと一歩だったのに」
中林はそのスカーフを強く握り締めた。その間、結城は次の壁を調べていた。
左右に居住スペースがあるようだ。次々と壁を消していく。
すぐに警察隊が中を確認したがいずれの部屋にも誰もいない。
あの検査室にも徒具呂の姿はなかった。雨豆裸たちより先に逃げたようだ。
そして最後の壁が消された。
そこは雨豆裸たちが歩大尉と実芦をつれて出て行った場所だ。中林は叫んだ。
「ここだ、この通路はきっと外部に通じている。
すぐに探査して出口を突き止めてくれ。
健治、お前は外の車に待機して結城からの情報を確認したら、
すぐに出口の先に行け。いいな」
御手洗は周りの数人を集めて駐車場に向かっていった。
結城が探査を開始した。
数分で結果が出た。
「かなり先は長いです、2キロ近くはあります。
出口はこの先の正面に当たる駅構内の地下と思われます」
「よし、健治に場所を教えて地上で待機するように。俺はこのまま進む。
あと二人着いてきてくれ、残りは結城と共に現場保持と調査してくれ。頼んだぞ」
「了解です」
中林は言い終わると、彼らは通路に入っていった。
中央総合病院,その駐車場に黒いセダンが止まっている。
建物の外からは目立たぬように多くの車の陰になる様な位置だ。
しかも植栽の多い直接日が当たらない隅のほうで、
病院の入り口が見える方向を向いている。
中には男女と思われる二人の人影が見える。
「さあ、行っておいで。母親はお前を待っている」
「でも、あんたはどうする」
葉瑠音の言葉に無限は問い返した。
「安心していい。私は待っているよ、いまさら逃げようなどとは思わない」
解ったと頷き、無限はドアを開け静かに閉めると病院の入り口に向かって歩き出した。
受付で名前を確認し母親のいる病室番号を聞いて、ゆっくりとエレベーターに乗り込む。
木崎 安子 障害診療棟 503 Cベッド
確かに無限の母親である。受付で母親の今までの経過を聞いた。
担当者が名簿一覧を見ながら答えた。
「木崎さんはここに来たのが、ちょうど私が担当になってまもなくでしたから、
2年前です。
でそれまではまったく意識が無かったようで名前も何もかも不明だったのですが、
ここに来てまもなく一時的に意識が回復したときがあって、
そのときに木崎さんだと確認できました。
でもまもなく様態が悪化していまは一日中意識が朦朧としている状態です」
そんな状態では、きっと俺だと気づかないのではないだろうか。
いや、気づかないほうがいい。
ここまで来てはみたものの、何を報告すればいい。
親に棄てられたと思い込み、何もかも投げやりに生きてきた少年時代、
成人してもろくな仕事に付く事もせず挙句に人の恨みを買い、地獄に突き落とされてしまった。
そのまま死ねばよかったのに死に切れず、悪魔と契約をして、
さらに人の道から外れる一方の人生だ。こんな事をいまさら母親に言えるだろうか。
だまったまま帰ろう。
そう思いながらも無限の足はいとしい母親のいる部屋の前まで来てしまった。
部屋の中に入ると4人部屋だった。
誰もが見るからに障害を負っていた。
「こんばんは、えーとどちらの方に面会です?」
入ってすぐのベッドの患者が語りかけてきた。
上体は起きていたが、多分自分で歩くことは無理なようだった。
意識はしっかりしているようで、語りかけてきた表情はにこやかだった。
「あのう、木崎ですがどちらでしょう」
その患者に返事をすると、患者は驚いたように奥のベッドを指差した。
「木崎さんのご家族の方ですか、めずらしいわ。初めてじゃないの。
いままで誰も木崎さんに面会なんてなかったわ。
私がここに来てから誰も訪ねては来てないはずだから」
「そうね、木崎さんはご家族がいないものだと思っていたから。でご関係は?」
隣の患者が治療中の右腕をかばいながら無限に視線を向けた。
「息子です」
ごく自然に無限は答えた。
そう答える自分がなぜかうれしかった。
周りの患者は驚いていた。
事情はどうであれ子供が尋ねてきたことに、みな自分達のことのように喜んでいた。
「よかったねえ、木崎さん。息子さんだよ。やっと会えたねえ」
みな歓迎してくれた。無限は来てよかったと思った。
ゆっくりと一番奥のベッドに近づいた。
躊躇はなかった。
そこには小さい老女が鼻に管を通されて眠るように横たわっていた。
目はうつろで髪は真っ白であった。
思い描いていた母親は変わり果てていたが、その表情には確かに昔の面影が残っていた。
小さく感じたが、最後に見たときの自分は少年であった。
そのときから自分は無駄に大きくなっている。
その分を差し引けば、当然母が小さく感じてもおかしくない。
ただずっと寝たきりなのであろう、
身体は痩せ細り過ぎ去った年月がその身体に無数のしわを刻んでいる。
でもこれはあのやさしく迎えてくれた母親に間違いはなかった。
無限の目は涙であふれていた。
「おかあさん」
言葉にならない声がでた。
そしてそのやせて枯れ木のようになった手を無限は両手で包み込む様に握った。
小さく硬くなっていたが、何よりもいとおしかった。
あの少年の頃に握ったやわらかく暖かい手と同じに感じた。
無限はベッドの横にしゃがみ込みその手を自分の口に当て、
そしてほほに押し当てた。
涙がその手を濡らしていた。
「おかあさん、やっと会えたね。丈だよ。帰ってきたよ」
こぼれる涙をぬぐおうともせずに無限は、小さな木崎丈になっていた。
木崎安子の息子の丈に。
無限はその時かすかな手の反応を感じた。
安子の顔を見た。無限を見ていた。
さっきまで意識が感じられなかったのに、いまその目ははっきりと無限の目を捉えていた。
「かあさん!」
無限は安子の顔に自分の顔を近づけた。
「丈、丈だね。お帰り。やっと、会えたよ。
ごめんよ。迎えにいけなくて」
ゆっくりと言葉を選ぶように、でもはっきりと無限に話しかけた。
「かああさあん!」
その小さな身体を無限は抱きしめた。もう言葉は要らないと。
今までのことはどうでもいいと。すべてこの時だけでいいと。
安子は丈の頭をなでた。ゆっくりとやさしく。
周りの患者たちの嗚咽がきこえる。
誰もがこの親子の気持ちを感じていた。
事情はわからないがやっと出会えた喜びに涙があふれていた。
「丈、お前は、私の大事な、息子だよ。やっと、願いが、かなった。
お前も、大きくなって、よかった。
私は、もう、思い残す、ことは、無い。
もう、そろそろ、お父さんの、元に行くよ。
あの人ずっと、私を待ってるから。
丈、ごめんね。
今度は、お父さんの、そばにいて、あ、げ、た、い、の」
残った力を振り絞るように、安子は丈に伝えた。
その言葉を言い終えると、安子の身体から少しずつ力が抜け生気が失われていった。
「かあさん、だめだ、もっと生きて。だめだあ!」
無限は抱きしめたまま、安子の魂が抜け出ないように抱きしめた。
しかし、そのまま安子の身体から大きなため息と共に力が抜けていった。
「ああ、かあさん」
無限は安子をもとのベッドに静かに戻した。
その顔はとても穏やかに見えた。
一番幸せなときに笑っている母親の顔であった。
さようなら、かあさん。
無限は心の中でつぶやいた。
そっとその手を放し、
もう二度と見ることの無いであろう姿を、
目に焼き付けるようにじっと見ていた。
そしてそのまま病室を後にした。
ほかの患者たちのすすり泣く声を聞きながら。