六部
7、無限
研究室からフロアに急いで出てきた、雨豆裸と実芦だった。
グループGのフロアである。
赤い台にふたりで並んで座ると雨豆裸が実芦に話しかけてきた。
「いったいどうしてしまったんだ、徒具呂は。実芦、なにかしたのかい?」
どうにも解らないといった表情に戸惑いながら実芦が答える。
「私もよくは解らないけど、手を触れられたとき、なにか自分と違う力みたいなものが、彼に入って行ったような気がしたの。そうしたら彼がしゃがみ込んでしまって」
雨豆裸はいまだ納得できずにいた。
あんな徒具呂を見たのは初めてだからだ。
やはり実芦の身体によって徒具呂が異常をきたしたに違いない。
雨豆裸はおもむろに実芦の手を握った。
「何、どうしたの?」
実芦は突然の仕草に尋ねた。
雨豆裸は黙ったままその手を見つめ自分に変化がないかじっとしている。
しかし何もおきない。
でもその手は柔らかくとても暖かい。
そしてはっきりと理解できた。
自分は実芦を好きになっている。雨豆裸の中にはじめての友情が芽生えたのだ。
胸がどきどきしている。このことは素直に受け止めていいのだろうか。
雨豆裸の心は揺れていた。
「ね、雨豆裸ちゃん。このままこうしていてもいいよ。雨豆裸ちゃんが飽きるまで構わないから」
素直に雨豆裸は頷いた。そっと実芦を抱き寄り添ってみる。
良い匂いがしている。
懐かしい思い出に浸っているような、
あまいそしてゆっくりと心の平穏が訪れてくる。
雨豆裸はやがて眠っていた。
実芦はやさしく頭をなでていた。
この子はどうしてここにいるのだろう。
自分と同じ様に普通に暮らせるようになればいいのに、
友達だったらもっといいのに、と実芦は思っていた。
寄り添った二人の時は優しく静かに流れていた。
フロアの入り口に黒いセダンが入ってきた。
あわただしくドアが開き、二人の男はトランクから歩大尉を連れ出すと、
頭に布を被せたまま立ち上がらせ、手足の拘束具をはずした。
車の中から歩大尉の持ち物と鞄を床に置き、その近くに椅子を置くと少年を座らせた。
「これから頭の布を外すが、おかしな真似だけはするなよ、解ったか」
歩大尉はうなずいた。
その態度を確認すると無限は布を歩大尉の頭からそっとはずした。
一瞬、眩しそうにしていたが、すぐに明るさに慣れて周りを見渡している。
フロアは広く黒のセダンとグレーのワンボックスカーが止まっている。
グレーの車はコーヒー店で見かけた車に似ている。
フロアの反対側は同じ幅で奥に続いているようだが、
少し壁がくねっていてどのくらいの距離があるかは解らなかった。
もう一度車の方を見てみたが、車が入ってきた入り口らしきものが見当たらない。
ここまではどうやってきたのだろうか。
不思議に思った。
無限と平田は歩大尉から目を離すことなく休んでいる。
少しすると無限が近くのダンボールの中から、自分達の飲み物と軽食を取り出し持って来た。
「お前も腹がすいたろう、ほら好きなものを食え。そのうちリーダーが来るだろうから」
歩大尉は渡された物を手にした。
この様子では危害を加えられないと解ると急に腹が空いてきた。
とりあえず飲み物と軽食を口にして、しばらくこのままにしていようと思った。
車の中では自分はどうなるのか必死に考えた。
どこへ向かっているのか。
このまま帰れなくなるのか。
そう思う中で、もしかしたら実芦をさらった仲間だとしたら、この行く先には今自分が一番会いたい実芦がいるかもしれない、
と不安の中であっても、そうであってほしいと願っていた。
歩大尉は自分の身が危ないのに妙に落ち着いていた。
入り口の物音で、雨豆裸がそっと起き上がった。
「実芦、入り口を見てくるよ」
「わかったわ、私はこのままここに居るから安心して」
「解ってるよ」
軽くうなずくと雨豆裸はいつもの気位の高い少女に戻っていた。
無限と平田がいる場所まで歩きだし、長いフロアの入り口近くまで来ると、
彼らが静かに軽食を食べながらそれぞれの場所で休んでいた。
「例の少年を連れてきました」
平田が顔を上げて雨豆裸に視線を向けながら行った。
「こいつが水木がやられた家の者だね」
無限に目をやり確認の合図を送り、歩大尉に近づいてきた。
そしてその目をみて飲み物を持っていない手をゆっくりと握った。
歩大尉はじっと雨豆裸を見ていた。この子がリーダーなのか。
化粧をしてはいるけど自分と同じ16歳ぐらいではないのだろうか。
そしてあの二人を命令しているところを見ると少し不安な気持ちが高まった。
「ふん、何にもなさそうだ。あんた実芦に会いたいかい?」
突然の問いかけに一瞬とまどった歩大尉だが、雨豆裸の握った手はとても優しかった。
そのまま実芦のところまで連れて行ってくれるような気がした。
「会いたいです」
「わかった。私に付いてきて」
ふりむき、奥に向かう後姿に歩大尉は立ち上がって付いて行こうとしたが、
無限と平田をみて躊躇していると、無限が顎でいいから行けよといった態度をとった。
歩大尉は軽くうなずいて足元にあった靴を履き、自分の鞄と荷物をもって雨豆裸の後を付いて行った。
フロアの奥に向かうと一人の少女が、真っ赤な台の上に座っていた。
先頭の雨豆裸がその少女に合図をするとそっと微笑み、やがて後ろから歩大尉が歩いてくるのに気が付くと、驚きながらすぐに歩大尉に駆け寄ってきた。
「ボウイ、よかった。でもどうしてここにいるの」
「実芦と同じようにうちの連中が連れてきたんだ」
実芦が歩大尉の腕にそっと近づくと、雨豆裸が説明をした。
「だけど、何もしていないから安心しな」
歩大尉は実芦を見ていた。
会えなかったのは、ほんの1日だけだったがとても懐かしい気がした。
「よかった、無事なんだね。心配したよ」
実芦の手をとり素直に喜んでいた。
実芦もうなずきながら無事を伝えていた。
そんな二人のやり取りを雨豆裸は無言のまま見つめていた。
実芦のうれしそうな気持ちが自分にも伝わるような気がして、なんとも奇妙な感覚にとらわれていた。
今までは自分のことばかりで、他人のことなど気にもかけた事などないはずなのに、実芦の一つ一つのしぐさや表情に自分の感情が移っていく。
いまとても安心している実芦を感じている。
人と通じ合うことがこんなにもいいことなのかと。
そのとき奥の壁から、サングラスの男が静かに歩いてきた。
徒具呂だ。
「雨豆裸、そこの二人はこのまましばらく居てもらう。例の機械は使わないことにした。でもここの事を知られた訳だから、当分は帰れないぞ。いいか」
突然現れた男を歩大尉はじっと見つめていた。
雨豆裸と実芦は徒具呂の行った意味を理解し、頷いていた。
徒具呂はすっかり平静を取り戻しいつもの態度でいた。
「よし、後もう一人必要だ。無限と平田はどこに居る?」
「入り口にいるはず。呼ぼうか?」
徒具呂の普段のままの態度に安心したのか、
いつものように雨豆裸が入り口方向に行こうとすると、それを手で制して解ったと言う態度で徒具呂は自ら歩いていった。
「今のは、リーダーの徒具呂。そんな訳でしばらくいてもらうよ、実芦と、えーっとボウイ?」
雨豆裸は実芦に目配せをして、大丈夫だよと言う表情を見せた後、歩大尉に近寄り問いかけた。
「あ、歩大尉です」
そのままの姿勢で雨豆裸に答える。
さっきの男がリーダーでこの子は違っていたのか。と考えを巡らす歩大尉であった。
「こんな場所に連れてきてすまない。でも悪いようには絶対させないから」
雨豆裸は両手を差し出し二人の手を握った。
実芦はそっと微笑み、平気だと言うように頷いた。
それを見て歩大尉も静かに微笑み三人は無言で挨拶を交わした。
まるで懐かしい友達同士が出会ったかのように。
徒具呂の指示で再び黒いセダンで、外に向かっていく無限と平田がいた。
駐車場を出ると今度は住宅街を目指していた。
「まだ、足りないんですかね。一日に二人もさらって、きっと今度はやばいかもしれませんぜ。いやな予感がする」
平田が助手席から無限に話しかけた。
「確かにな、だが仕方が無い。たまにはやばいと解っていても従わなければならないのがこの手の仕事だ。それは平田、お前も解っているはずだろう」
「そうですが、いままで慎重に行動してきたのが、今回は違うような気がするだけです。なんか行き当たりばったりで、すごく心配ですよ」
平田の言うとおりだった。無限の思いも同じだ。
無事に行くかどうかは解らないが、今回の件が片付いたらそれなりの結論を自分なりに出さなければならないだろう。
もう潮時と感じていた。
目的地まで行く間、無限は何度もそのことを考えていた。
こんなに迷うのも初めてだった。
この仕事を辞めたとしても後は何がある。
今まで全てを捨てて来た自分に。
いや捨てさせられたのかも知れない。
遠い昔の記憶がよみがえる。
あの時のあの場所。
何が自分に起こっていたのかはっきりとは思い出せないが、物事に迷うとき無限の心はいつもその場所に行こうとするのだった。
車は静かな住宅街の坂に差し掛かり、そのまま上ってゆく。
静まり返った中心部の道路に車をとめて、無限は車を降りた。
「今回は俺だけで連れてくる。お前は車の中で見張っていてくれ。
何か変化があったら携帯で。もし間に合いそうも無ければ車ですぐに立ち去れ。それから携帯で連絡しろ」
「解りました。とにかく早く片付けてしまいましょう」
平田の返事に無限は解っていると言い目的の家に近づいていった。
玄関の扉の前に立つと無限は鋭くとがった金属を鍵穴に差し込んだ。
ほんの数回手首を動かすと鍵が外れる音がした。
外から見ている者がいるとしたら、その無限の行動はさも扉の鍵を持っていて自然に開けた様にしか見えなかった。
中に入ると電気は消されている。薄暗いが部屋の中の物の位置は見えていた。
人の気配はなかったが、この仕事のおかげで家の中を一見しただけでどこに人がいるのか、
即座に感じられるようになっていた。
無限は迷うことなく奥の扉を目指した。
とその時、扉のノブが動き、静かに開いた。
無限はとっさに物陰に身をひいて、出てくる人物を見極めようとした。
薄暗くてはっきり見えなかったが、その容姿は女性であることに間違いはなかった。
物陰に身をひいて相手の出方を伺っている無限に向かって、その女性らしき人物は語りかけた。
「そんな所に隠れていないで出てきなさい。私は何も抵抗はしないから。お前が来るのは解かっていたのだから」
小さいがはっきりと聞こえるその声を聞いた無限は、
一瞬にして押さえ込まれるような重圧を受けた。
だが次の瞬間、包み込むような暖かさが伝わってきて無限は無意識にその女性に近づいていく。
薄暗い中で見えてきたその表情は穏やかで、やさしさに満ちていた。
歩大尉の祖母、葉瑠音であった。
「ここに来なさい。そして手をだして」
無限は言われるままに、両手を差し出していた。
「今からお前の中で起こることは現実です。素直に受け入れるのです」
無限はこの女性の言うことの意味が解らなかったが、その両手に触れた途端、無限の心は遠い過去に飛んだ。
ランドセルを背負って、全速力で家路を急ぐ少年がいた。
木崎丈小学校4年生。
彼は遠い過去の無限であった。路地を曲がると家だ。
その玄関に近づきかけたとき、いつもは閉まっている引き戸が開け放たれている。
正面の道路には荷物を半分ほど積んだトラックが止まっている。
何も解らずそっと玄関をのぞくと、土間に片足を掛けて中で作業をしている者たちを指示している男がいた。
始めて見る顔だ。
玄関に来た丈に気が付くと男は振り向きながら話した。
「なんだ、おまえは。
はーん、この家のガキだな。残念だったな、
この家の住人はさっき出て行ったばっかりだ。
もう二度とここには戻ってこないだろうよ。
お前は捨てられたんだよ」
丈は訳が解らなかった。家の中の荷物が次々運び出されてゆく。
テーブル、箪笥、食器棚、母親が使っていた化粧台、そして丈の机も。
「やめろ、これは俺のだ、もっていくな!」
作業員を押しのけ机を取り返そうとした丈だったが、玄関口の男に襟を後ろからつかまれ外に引きずり出された。
「じゃますんじゃねえ、くそがき!これでもくらえ」
男のこぶしで顔面を殴られ、その場に叩きつけられた。
丈は激しい痛みで声もでなかった。
「今度邪魔したらこれじゃすまねえからな」
男はつばを吐きかけ、再び荷物の運び出しにもどった。
そこへ騒動を聞きつけて駆けつけた近所のおばさんが、丈を抱き起こして身体に付いた砂を掃ってくれた。
「ちょっと、あんたらひどいんじゃないの、まだ子供じゃないの」
「ちっ、うるせえなあ。文句があるならこいつの親に言ってほしいね。こっちとら借金踏み倒されて困ってんだからよ」
作業を続けながら男は言った。
しばらくその光景を丈は見ていた。
やがて何もかも運び出された部屋には何も残っていなかった。
外に自分のランドセルが横になって玄関脇に置いてあるだけだった。
「いったいどこに行ったんだろうね。木崎さん達。丈君は知らないよね」
おばさんが問いかけても、丈はなにも答えられなかった。
本当に自分は捨てられてしまった。
そう思うともうここにいられない。
なにも考えられないまま、丈はその場を走り去ってしまった。
「ちょっと、丈くんまって」
おばさんの声もいまの丈には聞こえなかった。
どこをどう走ったか覚えていない。
繁華街に迷い込み、やがて空腹に耐えられずスーパーで食料品を盗み、そこを警官に補導されてしまった。
その後、身寄りのない丈は同じ境遇の子供たちのいる施設に、しばらく預けられたが、
まったく馴染めず、施設を抜け出すが連れ戻されることを何度か繰り返した。
抜け出すと決まって夜の繁華街で接触してくる、町の不良グループの仲間となりやがて、16を過ぎた頃、町の住人とのトラブルで逮捕されてしまう。
その後少年院から更生施設を経て仕事には就いたが、
気が短くすぐに同僚と喧嘩をして会社を退社。
さらに街中で度重なるトラブルを起こし、何度も警察に世話になる。
あまりの素行のひどさを見かねた指導員に、体格もよく喧嘩も強いとの事で、格闘技のチームに紹介された。
チーム内は同じ境遇の者達の集まりであったが、似たような運命を背負った仲間の結びつきは今までの殺伐とした生活を一変させた。
以外にも同じ目的を持つことで皆が一丸となり大きな連帯感も生まれ、毎日が充実していた。
やがて丈は人並み外れた体力と持ち前の勝負勘で、
頭角を現しやがてチームの人気、実力ともナンバーワンになるまでになった。
しかしそれを素直に喜べない連中もいた。対立するチームの一部のメンバーだ。
彼らは反則を得意とし時には、丈のチームメイトを出場不能にする時も多々あった。
試合後の合同慰安会で丈はその反則メンバーをみんなの前で諌めた事がきっかけで、彼らの反感をさらに買ってしまった。
ある日いつものように巡業先の試合が終わり宿泊施設に帰ろうと、最寄の駅で電車を待つ為にホームにいたところを、不審者に突き落とされた。
酔っていたためとっさにかわしきれず、線路上に落下。その直後電車が通過。
丈はホームから付き落とされた所までは記憶にあったが、その後はベッドで目覚めるまで記憶がない。
そして目覚めたときの自分の状況に丈はもう二度とリングには上がれないと観念した。
身体はぼろぼろだった。
生きていたのが奇跡で、両足切断、右手と左肩は複雑骨折、頭部も一部損傷していたが、顔面、脳は無事だった。
しかしそれは気休めでしかなかった。
そして何よりも丈を打ちのめしたのは、二度と自分の足で立てなくなったことだ。
すぐにでも死にたかった。
多くのファンや仕事関係の人間が見舞いに来てくれたが、誰もがこの身体を見るなり、哀れみとあきらめの視線を投げかけてくる。
誰一人丈の気持ちを理解できる人間などいなかった。
ベッドで何ヶ月も横になっているときに浮かんだのは、子供の頃のあのやさしかった母親の姿だった。
あの日いったい何があったのか。どうして自分だけ取り残されたのか。
豊かではなかったが、毎日学校から帰ってくると、玄関の近くで内職をしている母の後姿があり、お帰りを言ってくれていつも丈の大好きな手作りのお菓子で迎えてくれた。
心は満たされていた。
少なくともあの日までは。
だが、あの日は誰も何も無くなっていた。
しかも知らない奴に殴られもした。
あの痛さは今でも忘れない。
痛みと共に心の中まで深くえぐったあの拳を。
死ぬのならせめて母親に会いたい。
そして理由を聞きたかった。
なぜ自分を置き去りにしたのか、本当に自分を捨てたのかを。
「母親に会わせてやるよ」
葉瑠音の言葉に無限はわれに返った。
本来の無限であればそんな言葉に見向きもしなかったであろう。
しかし今の無限は葉瑠音に出会う前の無限とは違っていた。
自分の本当の過去に出会い、今まで追い求めていたものに出会ったのだ。
このいつまでも落ち着かない飢餓感は自分の子供のときに、分かれた家族に会いたいといった気持ちにあることに気づいたから。
「本当か?場所がわかるのか」
以前のように人を疑い、暴力で言いくるめてきた無限はそこにはなかった。
葉瑠音の言うことに素直になれる自分に無限自身が驚いていた。
しかしその態度は自分が思っていたよりもずっと楽なことだった。
「会わせてくれ、それが本当に出来るのなら、ばあさん、あんたの家族にも合わせてやる」
無限の言葉に葉瑠音は頷いた。
「母親は中央病院の障害診療棟にいる」
それは隣町のこの地域ではかなり大きい総合病院だ。
こんな近くに母親はいたのか。
わずかな時間で母親に合える、その気持ちで無限の心は高鳴った。
無限は葉瑠音を連れ出し外の車に向かった。
車に近づいた無限は周りを見渡し異常がない事を確認する。
「平田、ちょっと降りて手伝ってくれ」
呼ばれた平田は車から降りると、無限の抱えている老婆のそばによろうと無限の正面にまわった。
その時無限の拳が平田の腹にめり込んだ。
声も無く平田はその一撃で、その場に崩れ落ちた。
「悪いな、平田。おまえとの仕事は楽しかった。もう二度と会えないかも知れないが、おまえはお前なりの人生を進んでくれ」
平田を歩道の横の住宅側の立ち木の陰になる場所の芝生に、そっと横たえながら無限は言った。
その胸ポケットから携帯を取り出しスイッチを切った。
再び平田の胸に携帯を戻すと、葉瑠音を助手席にのせて無限は運転席に着いた。
車はライトを付け病院のある方向に向かっていった。
葉瑠音は車の中で無限に語り始めた。
「お前の母親だが、お前をあの時捨てたのではない」
「なぜ、それを知っている。おれは誰にも話したことは無いはずだ」
突然の言葉に無限は驚いて言い返した。
「私はお前の心を読んだのだ。そして同じ精神波をたどってお前の母親の場所を見つけた。母親は今でもお前の事を気に掛けている。だから私にもすぐにお前の母親の居場所がわかった。母親はあの日からずっとお前に私はここにいると思いを伝えている。その母親の気持ちの中にはあの日、お前が帰ってくる前の状況も見える」
「わかった。あんたを信じるしかないな。すぐにでも教えてくれ。
あの日に起こった事を」
じっと前を見ながら無限は葉瑠音の一言、一言をかみ締めるように聞き入った。
「あの日、あの男たちが突然やってきて、父親と母親を連れ去ったのだ。
そのとき父親は彼らに抵抗したがかなり痛めつけられて、意識不明になった。
母親はその父親を守るように側に付いていたが、二人とも何も持たされずに、車に無理やり乗せられ男たちの管理する倉庫に連れ去られた。
その直後お前が帰ってきたようだ」
無限は無言だった。
父親はどうしたんだ。
母親は病院、でも父は。
さらに葉瑠音の話は続く。
「その後、倉庫に監禁された二人は、そのままにされていたがしばらくして父親の様態が急変した。意識がなくなったのだ。母親は倉庫のドアを叩き助けを求めた。しかし奴らは居ない。かろうじて鍵の壊れている窓から身を乗り出し外に助けを求めに出たところを、倉庫の様子を見に来た奴らに捕まってしまった。ただ助けてほしかっただけなのに、奴らは逃げにかかったものと思い母親を殴り倒した。やがて父親はそのまま死亡。母親は寝たきりになって意識ももうろうとしている状態で、今病院に居る」
無限は泣いていた。
運転しながらも目からとめどなく涙が流れていた。
あの日、誰も居なくなった日から一度も泣いたことの無い無限に、悲しみがこみ上げてきたのだ。
そうだったのか。
俺は棄てられたわけじゃない。それだけで救われた気がした。
いままで胸につかえていたものが取れたようだった。
車を路肩に停車して無限は泣いた。
ハンドルに上体を倒したままで。
それを見ていた葉瑠音はそっと無限の肩を抱いた。
無限の身体は温かいもので包まれた。
心のわだかまりはすべて涙となって流れ落ち、
孤独は愛に満たされ消えていた。
そして無限は葉瑠音を抱きしめた。
それはあの日うしなった母親のぬくもりを取り戻すようだった。
そして葉瑠音は無限に母親の精神波を送っていた。
それはまさに無限の母親が今そこに居るかのように感じさせた。
「ありがとう、あんたはすばらしい人だ。やっと俺は救われる。
きっとほかの人たちにもあんたは必要だ。今わかった。
あんたのその能力をほしがっている者がいることも」
無限はやさしく葉瑠音を助手席に戻すと、
再び病院に向かって車を動かし始めた。
歩道の住宅寄りの立ち木脇で、身動きをしている者がいた。
かなり痛むのかその顔はゆがみ、身体を労わる様に起き上がろうとしていた。
「ふー、だいぶ寝てたようだ。しかし無茶しやがる。結局こうなるのか。まあ、殺されなかっただけいいか」
身体に付いた葉っぱくずを掃いながら、平田は呟く。
薄々、感じてはいたがこんなに早くお払い箱とは。
最近、自分でも無意識にグループの批判ばかりしていた。
そんなところを他の連中にやる気の無い奴とか、裏切るのでないかと感づかれていたのかも知れない。
平田は、自分は根無し草だと思っている。
一つ所に落ち着くのはどうにも性に合わないし、持ってもせいぜい2、3年か。
この居場所も最初は良かった。
徒具呂達からの命令は定期的にあるが、
そんなものは金の為、等価交換みたいなものだ。
問題はやり方だ。
課題があって結果だけを要求されるといった感じで、
目的の為の手段はとやかく言われない。
そこが平田は気に入っていたし、掛かった費用も報酬以外にもらえた。
今まで落ち着くことの無かった平田にしては長く勤まっていたし、徒具呂や他のメンバーとの相性は悪くなかった。
いや、むしろ今まで係わって来たやばい奴らに比べればずっとまともだったろう。
徒具呂と雨豆裸、妙な関係の二人だが、徒具呂は秀才、雨豆裸は美少女、といったところが今まで平田が出合ったことの無いタイプであり、此処に長く居られればもっと親密になりたかった二人だ。
平田には家族も知り合いも居ない。
親戚など生きているのか死んでいるのかも解らなかったが、いまさらどうでも言いと思っていたし、自分から探す気もまったくなかった。
そんな中で唯一、平田が抱いたのが雨豆裸に対する恋心だった。
思うと今でも顔が赤くなりそうだ。
何時も勝気で容赦ない雨豆裸だったが、
一度仕事をしくじり瀕死寸前で無限に抱えられフロアに運び込まれた事があった。
徒具呂が検査室に平田を寝かせるように無限に指示をし、体の損傷具合と脳波を確認し最善の治療を施した。
だが平田の様態が一向に良くならなかった。
仕事をしくじった精神的挫折感と、長年の不摂生も加わり心身ともに疲れきっていたのだ。
そんな平田を見かねてか、雨豆裸はさりげなく暇を見ては平田に話しかけてきてくれた。
最初は話もろくに出来なかった様態のときは、平田の看病を兼ねて、口元まで顔を近づけて話を聞いてくれた。
今までの平田のろくでもない生い立ちにいろいろと耳を傾けて、そして質問をしてきた。
元気になるとまるで日課のように同じ時間に話し相手になってくれた。
今思えば日中は雨豆裸も待機が多くて退屈だったのかもしれない。
でも、男の病人にしてみれば、若く、しかもかわいい女子が毎日話を聞いてくれるのは何よりの治療だったし、そんな気遣いに恋心が湧いてもなんの不思議も無いだろう。
見る見る平田は本来の元気を取り戻した。
仕事に復帰してもしばらくは雨豆裸との会話関係は続いた。
平田も此処に居る意味があった。
だた、最近は徒具呂の計画も進み雨豆裸の出番が多くなると、話す機会も失われた。
一度離れてしまうと後はそのまま流されて、
二人の関係も昔のようにただの組織関係に戻ってしまった様だった。
雨豆裸はどう思っていたのか。
その真意を聞く間もなく此処にこうして捨てられてしまった。
平田はもう潮時と思った。
もう一度あの平田の話に夢中になっていた雨豆裸の姿を見たかったが、それもあきらめ、また昔のように根無し草になって人の流れの中に身をゆだねる。
それが平田の生き方だ。
そう言い聞かせるとその場所から少しでも、
遠くへと行くように歩き去ってしまった。