一部
初めての小説です。思うままに書いてみました。
読んでいただければ幸いです。
今後はこの中の登場人物をこれからいろんな作品で成長させてみようと思っています。
HARUNE
1 歩大尉
朝の日差しはカーテンの隙間から入り込むと、部屋の中を明るく照らし出し、一日の始まりを教える。
歩大尉はそれに答えるように上体を起こし、両手を挙げると背伸びをした。
窓の外からは都会に住み着いた小鳥達のさえずりが目覚めの号令のように駆け回る。
せきたてられるようにベッドから立ち上がり身支度を済ませる。
朝食の準備をするのだ。
キッチンで自分と祖母の葉瑠音の分を用意し昼の弁当も一緒に作る。
料理は得意な歩大尉であった。
先に一人で朝食を済ませると弁当と授業道具を鞄に入れる。
葉瑠音はまだ自分の部屋にいる。きっとまだ深い闇の中を瞑想しているのだろう。
「行ってきます」
玄関に向かいながら葉瑠音に声をかける。返事は無いが聞こえているはずだ。
今朝は準備に手間取ったせいで遅れ気味だ。
荷物を抱え玄関を出る。
見上げれば外は雲ひとつない快晴だ。
そしてさわやかな風が吹き抜けていった。
急いで坂を降りて行くと、いつもの路地に高校の制服姿が見えてきた。
実芦だ。
「おはよう、ボウイ」
小柄だが元気いっぱいに手を振って長い黒髪のポニーテールを揺らしている。
幼馴染の女子高生で隣のクラスだ。家も近いのでいつも一緒に通う。
そして荷物を手渡す。
「ありがとう」
実芦に渡したのは昼の弁当で、自分の分と一緒に実芦の分も作っておく。
「急ぐよ、出席に遅れない様にしないと。うちのクラスの担任は遅刻にはきびしいからな」
歩大尉が焦る様に言うと実芦は頷いて早足になった。
担任の稲津は几帳面なうえに、ヒステリックな教師で、遅刻にはとにかくうるさい。
自宅から校舎まではたいした距離はないが、その近さゆえに返って甘く見てしまうのだ。
ぼやぼやしているとあっという間に時間切れだ。
校舎に近づくと同じ様に数人の生徒たちが校門を目指している。
そんな生徒たちを追い抜きながら、見た目よりずっと運動神経のいい実芦と、
まるで競争のように校門を走り抜け、一気に校舎内へ、そして昇降口で靴を履きかえると、
「じゃあ、後で」
先頭を行く実芦が二本指を立てて敬礼のようなしぐさをしつつ、振り向きながら言う。
そのまま階段から廊下、そして1-Bの教室に入って行った。
歩大尉は1-Aの教室へ、そして自分の席に着地。何とか間に合った。
いつものように稲津が出席を取り終わると一時限目が始まる。
教科書を広げ、昨日の予習を思い出してノートを書き出した。
葉瑠音は雨戸を閉めたままの薄暗い部屋の中で集中状態から、精神を開放し一息ついた。
ゆっくりと立ち上がるとドアを開け明るいリビングに出る。
すっかり日が昇り小鳥達の時間は終わり、日常生活の騒音が聞こえ始めていた。
正面の棚には写真があり、満面に笑みの子供が飛び込んでくる。
小学生の歩大尉が夏休みに田舎の親戚の世話になった時のもので、
同級生の女の子と並びその周りを数人の大人たちが取り囲むように立ち、画面いっぱいに幸福感を湛えている。
歩大尉は今では高校に通うようになり、その写真からはすっかり大人びて来た。
それに伴って最近はその笑顔の回数が減ってきたと葉瑠音は思った。
物心ついた頃にはすでに両親と離れ離れになってしまい、気が付けば無口な年寄りと二人きりでは、気持ちも沈むであろう。
だからといって特別扱いしないのが、葉瑠音の性分なので、この年寄りには子供が親に向かって素直に甘えるようなことも、
やさしさに対する期待も歩大尉には無いようだった。
キッチンで歩大尉の用意した朝食を食べ終わると、葉瑠音はまた精神統一をするため部屋にこもった。
これはいつもの習慣で、精神を集中し体内のエネルギーの流れを調整することにより、自然のエネルギーをも自分に取り入れる事が出来るのだ。
葉瑠音が実年齢よりかなり若く見えるのはこのお蔭でもある。
ところが最近、葉瑠音が感知する外的精神の流れが乱れてきている。
過去にも度々、世の中の変化がある時に何らかの揺らぎが生じる事もあったが、近頃のこの精神エネルギーのぶれは、今までに経験したことのない乱れ様で、きっとこれは大きな変化の兆しかもしれない。
大抵のことでは動揺しない葉瑠音であったが、今回ばかりは落ち着いていられそうもなかった。
校内のチャイムが6時限目の授業の終わりを告げると、歩大尉はため息を吐いた。
ふと廊下側をみると教室の後ろの出入り口に実芦が立っていた。
小さくVサインをしている。
歩大尉はすぐに授業道具を鞄に入れると、クラスの友人に別れの挨拶をして、実芦が待つ出口から廊下に行く。
そしてそのまま校門まで二人で歩き学校正面の道路に出た。
「今日は、どうするの?」
鞄を右手に下げ、歩大尉の方を見上げながら、実芦が話しかける
「ショッピングモールに行こうか?」
歩大尉が答える。
「じゃあ、いつものコーヒー店ね」
うれしそうに歩きながら実芦が言った。
コーヒーが好きで、ケーキ系の甘いものや、スパイスの効いた調理パンなども食べる。
続けて実芦が言う。
「今日は、私がおごってあげるね」
「ああ、ありがとう」
今週はハルの機嫌が悪く、小遣いをもらい損ねていたので、ちょうどよかった。
ハルとは、祖母の葉瑠音のことだ。
学校からそのショッピングモールに寄ると自宅に帰るには遠回りになってしまうが、
何時もの事なのでたいした気にはならない。
コーヒー店はショッピングモール内の入り口付近にある。
「何にする?」
店先に着くと実芦が、オーダーの確認をしてきた。
「いつものでいいか」
「では、ボウイはブレンドコーヒー、で私はエスプレッソね、あとそのチーズケーキ2つお願いします」
店員に席の位置を教えて、小さなテーブルを挟んで向かい合わせに椅子に座る。
オーダー番号の札をテーブルの上に置き、その隣に鞄から出したノートを置きながら実芦が話しかける。
「今日は、宿題があるんだ、ちょっと片付けてもいいかな」
実芦は雑音や人ごみがまったく気にならないようで、いつも勉強や宿題の大半をこういった店のなかでこなしてしまう。
「ああ、かまわないよ 別に特別な話題もないし」
その言葉に頷くとペンを片手に課題のプリントと何時も持ち歩いている参考書とを見比べながら、実芦はノートを書き出した。
しばらくして、店員がコーヒーとケーキを持ってきた。
「おまちどうさま、ご注文の品です、ごゆっくりお召し上がりください」
「ありがとう。ボウイ、食べよ」
歩大尉の分を差し出しながら、実芦が言った。
高校に入学して一ヶ月が経とうとしているが、幼馴染の実芦とこうして過ごしているのが不思議な感じだ。
違和感がまったく無く、実芦が側に居るだけで落ち着いて居られる。
同級生なのに親のように自分の事を見守っていてくれるような気がするのだ。
両親が居ない事が実芦の存在にそんな期待を持ってしまうのか。
それとも実芦自身のあえて何も要求せずにただ一緒にいてくれる、そんな態度が自分にそんな感情を持たせるのか。
実芦がノートにペンを走らせるしぐさを眺めながら歩大尉はそんな思いに浸っていた。
コーヒーを飲み終えて、ふと実芦の後ろの方を見た。
歩大尉は壁際に座っていたので、外の様子は店のガラス越しによく見えた。
向かいの路上に大きめのグレーのワンボックスカーが止まり作業員風の二人が降りてきた。
彼らは辺りを見渡すと、歩大尉たちの居るコーヒー店に入ってきた。
二人とも同じブルーの作業着の上下を着ていた。
一人は大柄で作業着と同じブルーのキャップ帽を長髪の上に深くかぶっている。
キャップ帽のつばのせいで、あまり表情はわからない。
もう一人のほうは、帽子はかぶってはいないが、薄茶色のサングラスをかけている。
背はキャップ帽の男より少し低く、かなり身体は細いようだ。
彼らは店内のカウンターでオーダーを終えると、入り口近くの席に座り二人で何かを話し始めた。
店の雑音で内容は聞きとれないが、男たちの雰囲気では真剣な話らしい。
「ケーキ食べないの?」
宿題が一通り終わり、ノートを片付けながら、実芦が聞いた。
「あっ、これ食べる?かまわないよ、ほら」
歩大尉が差し出したケーキ皿に、うれしそうに手を伸ばしかけたが、すぐに腕を組んで、
「でも、やめとく。一度には食べすぎかもね」
残念そうに、ケーキに視線を落とす実芦が気の毒に感じたのか、逆に歩大尉は急いでその目の毒を一気に食べてしまった。
「あー、美味かった、これでさっぱりした」
あわてて飲み食いする様子を見て、実芦は下を向きながらくすくすしていた。
「何も、そんなに急がなくてもいいのに、口が汚れているよ、ほら」
テーブルに置いてある紙ナプキンを歩大尉に手渡すと、実芦はノートを鞄にしまいながら、立ち上がって、歩大尉の耳元にささやくと店の奥の化粧室に歩いていった。
渡された紙ナプキンで口元と制服を軽くぬぐいながら、歩大尉は先の作業員風の男たちに視線を向けた。
なにやら言い争っているようで小さなしぐさではあるが、それは尋常ならない雰囲気が見てとれた。
次の瞬間、キャップ帽がテーブルのコーヒーカップを片手で払いのけた。
落ちたカップが割れる音と同時に、キャップ帽はすばやく相手の顎めがけて、その硬く握られた拳を当てた。
サングラス男はいきなり襲い掛かられて、たまらず椅子ごと後ろに倒れた。
一瞬で店の中は騒然となった。客は全員総立ちになり、入り口近くの者は店の外に出ようと慌て、残りの客も今まさに男たちを避けて、同じく外に逃げ出そうとしている。
キャップ帽がそのまま倒れたサングラス男に襲いかかろうとするが、サングラス男は横に一回転して身をかわすと、逆にキャップ帽の腹めがけて強烈なキックを見舞わせた。
キャップ帽は後ろの壁まで飛ばされ背中を壁に打ちつけた。
そしてそのまま床に倒れると思われた瞬間、両足でしゃがみこむような姿勢をとり、素早く身体を伸ばすと勢いよくサングラス男の胸元に頭から飛び込んだ。
その場に立ち上がっていたサングラス男は避ける間もなく、キャップ帽もろともカウンターの中に落下した。
食器類は一瞬にして床に散乱し彼らの周りに飛び散った。
一連の物音にきづいて、実芦が奥から歩大尉に駆け寄ってきた。
「大変、ボウイ、そこのスイッチ押して、早く」
実芦の指差すほうに、非常ボタンがあった。
迷わず押すと店内には耳を覆いたくなるような警報音が鳴り響いた。
「ちっ!」
キャップ帽が今まさにサングラス男の息の根を止めようと、むなぐらを押さえていた手が、一瞬緩んだ。
辺りを素早く見回しこの警報音のきっかけを作った歩大尉を見つけ睨み付けた。
その目はまるで獲物を狙う猛獣の様に見えた。
その鋭いまなざしに狙われて歩大尉の中に痺れる様な感覚が走ると、身体が硬直し動けなくなった。
「どうしたの、ボウイ! しっかりして」
気が付くと、実芦が歩大尉の腕をつかんで、激しく揺すっていた。
キャップ帽はカウンターのなかで、苦しんでいるサングラス男の作業着の中をまさぐっていた。
サイレンの音が響き一台のパトカーが向かい側の道路につくと、開いたドアから二人の警官が素早く降りてきた。
野次馬たちは一瞬にして道を開けると警官はそのまま入り口を目指して駆けて来る。
サイレンと人々の動きに気がついたキャップ帽は、やおら立ち上がり店の入り口に向かって走り出ようとした。その手には手紙のような紙を握っていた。
しかし一瞬、警官達が早く店に駆け込んできた為、鉢合わせになってしまった。
キャップ帽は迷わず一人目の警官のあごにすばやく肘鉄をくらわせ、レジカウンターにはじき飛ばした。
それを見てもう一人の警官が、両手でキャップ帽の身体を押さえつけようとしたが、キャップ帽は素早くしゃがみ込み、警官の両足めがけて回し蹴りを食らわせた。
警官はたまらず上下反転するかのように空中を舞うと頭から落下しそのまま動かなくなった。
その様子に店の内外は騒然となっていた。
頼みの警官があっと言う間に倒されて皆そのすべを失ってしまった。
その隙に、キャップ帽は向かいに止めてあったグレーのワンボックスカーまで走り、
素早く乗り込むと一気に走り去ってしまった。
警報音はすでに消えている。気がつけば実芦は、カウンターの中を覗いていた。
「ボウイ、中の人まだ息があるみたい」
いったい何が起こったのか理解できずにいる店員と、あたふた動き回る客で騒然となっている店の中で、一番冷静に行動しているのが、実芦であった。
「大丈夫ですか?」
歩大尉は声をかけながら、実芦に背中を押されて、サングラス男の倒れているカウンターに入った。
何か言おうとしているのか、立ったままでは聞き取れないのでサングラス男の側にしゃがみ込むと、いきなり腕をつかまれた。
「こ、これを頼む、誰にも見せないでくれ」
反対の腕で作業ズボンの後ろポケットから出したと思われる書類を歩大尉の手に握らせた。
それは小さく折られていて、手のひらにはいる大きさになっていた。
歩大尉はそんなものを受け取りたくなくて押し返そうとした瞬間、実芦が腕を引いた。
「早く、こっちにきて!」
気がつけば数台のパトカーや救急車が店先の道路に整列している。
外では野次馬たちを押しやるように現場確保の警官が数人で店先を囲っている。
カウンターを出ると同時に他の警官が素早く店内に入ってきた。
先頭の警官のあとから、私服警官とおもわれる男がバッチをかざしながら、
「今から現場検証をします。皆さんは指示に従って勝手に動かないよう願います」
私服警官は店内をすばやく見渡すと警官にカウンターの中の、サングラス男を確保するように命令した。
先に倒された警官二人はすでに救急隊員に付き添われ、救急車で手当てを受けていた。
「君たちは大丈夫かい」
歩大尉とそのかたわらで歩大尉の腕を握ったままの実芦に、目を向けた私服警官が声をかけてきた。
「ええ、大丈夫です、店を荒らしたのは二人組みでした。一人はこの中に倒れている人、もう一人はグレーのワンボックスカーに乗って逃げました」
真直ぐに私服警官の目を瞬きもせずに見つめながら、実芦は説明した。
「これはしっかりしたお嬢さんだ。話を聞かせてもらってもいいかな」
めちゃくちゃになった入り口付近を避けて、奥の席に移動した私服警官が、
テーブルを挟んで前の席に座るように指示している。
そして席に着いた二人に一連の騒動の内容を聞き始めた。
「ああ、なんかあせった、あのまま帰れないのかと思ったよ」
明らかに不機嫌になりながら、歩大尉は実芦を見た。
「え?なにが」
家のほうに歩きながら、平然と実芦は答えた。
「なにが、って自分から刑事に向かって話しかけるなんて、いきなりだったからびっくりしたよ」
手に持ったカバンを足元において、両手を広げオーバーなしぐさで、実芦の前に歩大尉は立ちはだかった。
実芦はそんな歩大尉を見ながら、
「ごめんね、でも一番最初に事情聴取を受けたんだから、よかったじゃない。このまま順番で待っていたら、晩御飯までには帰れなかったよ、きっと」
その通りだった。あの場にいた客と従業員は全て警官に身元の確認と事情聴取を受け、全員が終わるのを待っていたら後2、3時間は掛かっていただろう。
実芦のまったく理にかなった行動と物言いにはかなわない。
おまけに言い終わった後には小首なんかかしげて、
「ね、よかったね」
なんていわれる始末。
「まあ、良かったのか、悪かったのかよく解らないけど、でも大変なことだよな。あんな騒動に立ち会うなんて。そう思わないかい?」
「そうかなあ」
歩大尉のことなど、構わずと言わんばかりに、軽く脇を抜けてそのまま帰ろうとする実芦だった。
「おい、おい!待って」
早足になった実芦を追うように、歩大尉はカバンを持ち上げながら走って追いついた。
ほんと、妙な所でしっかりした振りをするのがまるっきり大人の様だ。
実芦のそんな態度は知り合った時からあった。こんなときは素直に従うしかなかった。
これが恋人か夫婦ならば、完全に尻に敷かれているといった所か、と歩大尉は半分あきらめ気分になっていたが、
片や半分はそんな実芦と一緒に居られるのが心地よいのであった。
しばらくいつものペースで帰り道をたどって行くと、突然、実芦が立ち止まり慌てた様に歩大尉に言い出した。
「あっ、大変!どうしよう」
何のことか解らず歩大尉は驚いた。
「なんなんだよいったい」
実芦は、いま来た道を引き返そうと振り返り、歩大尉を見上げてさらに言う。
「さっきのお店のお金、払ってこなかったよう、どうしよう」
なんだ、そんなことかと思い、歩大尉は言った。
「明日払えばいいよ、実芦はあの店の常連じゃなかった?」
意外な返事だと思わんばかりの顔つきで、実芦は見ていた。
「そっかあ、だよねえ」
あっさり納得した実芦は再び帰宅方向に早足で進みだした。
いまいち解らない性格だ、と思いながら、実芦の後姿を追いつつ、歩大尉は制服から小さく折りたたまれた書類と、刑事の名詞を取り出し、
今日起こった出来事を思い出していた。
そして書類と思われた物は、今見るとそれは中に紙が入っている封筒だった。
「なにしてるの、おいてくぞお!」
実芦が振り返りながら、歩大尉を呼んだ。その足は相変わらずの早足のままで。
2 実芦
いつもの路地で実芦と別れた後、自宅の玄関の戸を開けると、薄暗い部屋の中から声が聞こえた。
「おかえり、歩大尉」
歩大尉の祖母、葉瑠音である。
「ただいま」
返事をすると歩大尉はすぐに自分の部屋にいった。
葉瑠音は感覚が鋭く、目で見るよりも確実に現状を把握できるのだ。
そのため、自分以外の誰もいなければ、家の照明はほとんどが消されている。
やがて廊下と台所に明かりが灯り、着替えた歩大尉がそこにいた。
「いま、食事の準備をするから」
リビングには葉瑠音がいた。明かりは窓際のスポットライトのみをつけている。
ただ、かなり小さい灯りのため、部屋の一部がかろうじて見える状態だ。
静かに椅子に座り瞑想をしている様に見える。そして静かに話す。
「解っているよ」
葉瑠音がいつまでも待てるといった感じに、ゆっくりと答えた。
何時からだろうか、歩大尉が食事の一切を作るようになったのは。
歩大尉を引き取りこの家で生活を始めた頃は葉瑠音が仕方なく炊事をしていた。
葉瑠音にとって料理を作ることは、苦痛以外のなにものでもなかったのである。
歩大尉と二人きりになる以前は、
食事は元より身の回りの細々とした生活の一切はあまり気にすることなど無かった。
一人であれば何もしなくてもどうにかなっていたからだ。
瞑想の間に軽く口に入れられる程度の物さえあればよかった。
葉瑠音自身はそれほど食事らしい物は必要としていなかったが、
子供連れになってはいい加減な食事をする訳にもいかない。歩大尉の健康のために考えたメニューで用意はしたが、
ただ作る物は必要最小限のパターンで後はそれの繰り返しであった。
台所はいつも薄暗く、煮炊きをする炎の明かりのみで調理をしていた。
夕食時などはさながらキャンプファイヤーの様でもあった。
これは、本来の料理の雰囲気からはまったく違う意味ではあるが。
でも、なぜか歩大尉は葉瑠音が作る料理には何も文句は言わなかった。
むしろ喜んで食べていたくらいだ。理由はわからないが、このことは確信がある。
何しろ葉瑠音は人の喜怒哀楽を感じ取ることができるのだから。
食事の時が葉瑠音が唯一、人と接する機会であったからなのかもしれない。
一日のほとんどを部屋の中で瞑想する葉瑠音を少ないながらも身近に感じられる時間は、歩大尉にとってはとても楽しみであったに違いないのである。
そんな歩大尉が料理に興味を持ち出したのは、小学校の頃からだろうか。
見様見まねで料理を手伝い、中学に入る頃には一人前の料理人ほどの腕前になった。
こんなに早く上達したのは、歩大尉にとって料理は心躍るものであったためだ。
いろいろな素材との出会い、数々の調味料は、その素材同士のハーモニーを引き出し、
何倍にも変化させる、まさにマジックのようだ。毎日が驚きと喜びの連続だ。
そして幼い頃に葉瑠音と過ごした暖かい時間を忘れない為に料理が出来れば、自分と葉瑠音が何時までも関わり続けていられるという思いもあったからだろう。
小学校の時に同じクラスに転校してきた実芦が、歩大尉の自宅に遊びに来る様になったのはちょうど料理に興味をもちだした頃だった。
料理の材料を山ほど抱え近くのスーパーから帰るのを手伝ってくれたり、歩大尉の自宅で、よく二人で料理を作りあった。
もちろん夕食時には葉瑠音と三人で食事をすることもあった。
実芦は初めてこの家に来たときに葉瑠音とすぐに馴染んでいた。
まるで自分の祖母の様で遠慮などすることも無かったのだ。
めったに人と会うことをしない葉瑠音も実芦とは歩大尉と同じように接している。
これは実芦の持つ何かに葉瑠音が興味を持っているからなのかもしれない。
「ハル、いいよ。ご飯が出来たよ」
歩大尉がキッチンから呼びかけた。
それに答えるようにゆっくりと葉瑠音が席に着く。リビング側の暗いほうだ。
テーブルの上に並ぶ料理はいたってシンプルで、野菜中心だ。
これは葉瑠音自身のレシピによるもので、4,5個の小鉢に盛り付けてはいるが、いずれも量は少ない。
それに比べ、キッチン側の歩大尉の料理は肉中心でしかも相当のボリュームがある。
育ち盛りで、標準の一人前ではまったく足りない。
さらに今日はコーヒー店での出来事が空腹を倍増させるには十分すぎた。
「いただきます」
歩大尉が席に着き軽く挨拶をすると自分の好きな物から食べ始める。
静かに食事をする葉瑠音に比べ、歩大尉は若者らしく口いっぱいにほおばり、次から次へと箸を巡らせる。自分でも思った以上に空腹だった様だと歩大尉は思っていた。
量は少なくてもゆっくりと食事をする葉瑠音とほぼ同時に歩大尉の食事も終わる。
ひと段落すると、テーブルに置いたウーロン茶の容器から自分の分をコップに注いで、歩大尉は飲み始めた。
「店でのことは、片付いたのかい」
唐突にまるで、歩大尉の思いを先回りするように、葉瑠音が問いかけた。
「まあね」
飲み終えたコップを置きながら歩大尉は答えた。
そんな話し方をする葉瑠音に歩大尉も今は慣れてしまった。
葉瑠音との会話は伝えようと思う、葉瑠音が答える、それで成立と言った訳だ。
これは葉瑠音の能力によるものであった。
精神エネルギーを受け取ることによりテレパシーのように相手の考えを読むのである。
大事な伝言は思ってさえいれば葉瑠音に伝わる。
その特異な会話方法は歩大尉が物心付いた頃からだったので、普段は何も不思議には思わなかった。
だが学校に通うようになって、葉瑠音以外の人間には通じないと解るまでは相当苦労した。
小学校に入った時にはまったくの無口で居た為、誰も自分の気持ちを解ってくれないと泣いた事も微かに覚えている。
そんな歩大尉を見かねた当時の学校の担任は、
自分が感じた事や思ったことは言葉で伝えなければ誰も歩大尉のことは解って貰えないと、何度も言われてやっと会話で意思をつたえること、つまり本来の人付き合いの基礎を覚えたのだ。
「ありがとう」
葉瑠音のごちそうさまだ。
「また、明日」
歩大尉が答える。食事が、終われば葉瑠音は自分の部屋に入り込む。
なにもなければ、明日のこの時間までお別れだ。
「明日、実芦を連れておいで」
扉を閉める直前の細い隙間から、葉瑠音の声が聞こえ、すぐに扉が閉まる音がした。
今日の事を聞くのだろうか。
実芦はこの家を尋ねて来た時によく葉瑠音と二人きりで何かを話している時がある。
歩大尉は思った。
葉瑠音と世代の違いはあるものの女同士ということもあって、そうやって話をしたいだけかも知れないと。
食器を片付け、明日の朝食の準備をし終わると、歩大尉は自分の部屋にいった。
誰もいない部屋の明かりは予備灯を残して、すべて消していった。
机の前の椅子に座ると、刑事の名詞と書類が入った封筒を机の上に並べた。
名刺には御手洗健治と書かれてある。
刑事からは、事件の事で何か思い出したら、この名詞の番号に連絡をくれるようにと言われていた。
でも、この封筒のことはどうしても言えなかった。まだ中身は見ていない。
いやな予感がするし、見てしまえば重大な責任を背負わされそうで、開く気になれなかった。
再び引き出しの中に名詞と封筒を重ねるようにしまい込むと明日の準備をし、その後はシャワーを浴びて、不安な気持ちのままベッドに入った。
部屋のドアが、ゆっくりと開いた。ここは郊外の病院の一室だ。
廊下をゆっくり見渡したその男は、周りに人の気配がないのを確かめると、前がはだけたシャツの中に片腕をいれ、傷む胸をかばいながら、ホールに向かって廊下を駆けていった。
部屋の中のベッドは、さっきまでその男がいた場所と思われたが今は空になり、横の床には下着姿の男が、うめき声を上げながら、うずくまっていた。
監視のために付き添っていた警官が、一瞬の隙をつかれ怪我人の男に襲われ着ていた私服を奪われたのだ。
廊下を小走りに移動しながら、逃げ出した男はシャツの中からサングラスを取り出すとすばやく顔にかけた。
そのサングラスは私服警官のもので形は多少違うが、その顔は紛れもなくあのコーヒー店で歩大尉に封筒を手渡した男だった。
男は廊下をホール側に曲がらず、真っ直ぐ行った突き当たりの扉を開け、非常階段に出た。
そしてそのまま地上まで降りると、駐車場の中を横切って闇に消えた。
それとほぼ同時期に、ホール側から逃げ出した男の居た部屋の方向に、廊下を曲がってくる男がいた。
目的の部屋の辺りを見て扉が開け放たれているのを見ると、その男は一瞬立ち止まり、その状況に慌てふためいて部屋の中に一気に走りこんだが、ベッドはすでに空だった。
「遅かったか。あいつめ何処に行きやがった」
長髪でがっしりした体の男は病院の白衣を着ていたが、その格好には似つかわしくない雰囲気を持っていた。
むしろ作業着が似合うようである。
いや、その男は、先ほど逃げ出したサングラス男を、この病院に送った張本人で、コーヒー店で争っていたキャップ帽の男だった。
「くそ、なんて奴だ。仕事は出来ないくせに逃げ回ることだけは早い野郎だ」
部屋のベッドを見て悪態をついていると、監視の警官が這いつくばりながら、男の足にしがみ付いて来た。
「にげられた、通報を、そして手当てを頼む・・・」
搾り出すような声で必死に助けを求めてきた。
「ばかやろう!なんでしっかり監視してないんだ、使えねえ奴だぜ」
キャップ帽はその警官を容赦なく殴りつけた。監視の警官は完全に気を失って動かなくなった。
その直後、ホール側から数人のかけてくる足音が聞こえてきた。
騒ぎを聞きつけた他の部屋の患者の通報によるものだろう。
キャップ帽は即座に隣の空き部屋のドアを開けると一瞬にして身を隠した。
警備員と医者、それと看護婦二人が部屋に入って行った。
彼らが部屋の中の状況に気を取られている隙に、キャップ帽は隠れた部屋から素早く出ると廊下を走り出した。
もうここには用はない。
そう確信したキャップ帽はそのまま突き当たりまで行くと非常階段へのドアを開けて、駐車場に向って階段を降りていった。
空は曇っているのか月も星も隠れ辺りがすっかり暗くなっている。
そのせいで街頭がないところは完全な闇になっている。
そんな町の中を額にうっすらと汗を浮かべながら走る人影があった。
時たま明かりのある所を通ると映し出されるその姿は、けっしてジョギングなどをするような格好ではなかった。
胸がはだけて着崩したシャツにサイズが合わないスラックス、薄汚れたデッキシューズ姿のサングラス男だった。
走る姿は苦しそうに喘いで足元がふらついている。
病院からどのくらい走っているのか本人にもわからなかったが、ただ、行く先だけは頭の中にはっきりしている。
あの場所へ、そう、あの女の居るあの部屋へ。
時折、車のヘッドライトでうっすらと辺りが明るくなるのを感じると、その光におびえるように素早く身体を隠した。
今、あいつらに捕まるわけには行かない。どうしても確認したいのだ。
赤いテールランプの筋を残し車が通り過ぎ再び夜の闇が覆いかぶさってくると、男は身を乗り出す様に走り出すのであった。
やがて繁華街の端の裏通りまで来ると、昔の土地勘に頼るように路地と路地のつながりを記憶の中でトレースして行く。
そしてそれが正しかったのを証明するようにアパートの前に着くと、ポストの表札を確認した。
「ここだ。やっと着いた」
かつて此処に訪れていた頃より周りの雰囲気がだいぶ変わっていたが、その建物はそのままであった。
部屋の前に立ち、チャイムを押す。
中からドアに近づく人の気配を感じた。
「由理、俺だ、早く入れてくれ」
かすれる声を振り絞ってドアの向うに語りかけた。
ドアのノブに手が掛かるのが解ったが、その動きは躊躇しているようだった。
鍵を開けるのを迷っている。
「頼む。一人でやっとここまで来たんだ。他には行くところもない。
一晩だけでいい。入れてくれないか」
男はドアにすがりつくように身を預け、サングラスをはずしその扉に顔を付け懇願した。
鍵がはずされ防犯用のドアチェーンも外れる音がした。
男はドアから離れ一歩下がった。そしてサングラスをシャツの胸ポケットに入れる。
ゆっくりとドアが開き部屋の明かりが暗い廊下を照らした。
扉を開けたその人物は女である事は解ったが、後ろの照明によって表情は見えなかった。
だが、たたずまいは男のかつての恋人の由理である事は間違いなかった。
「あんた、どうしたの」
その声はかすかに震えていた。語尾には愛しさがにじんでいた。
「変わりない様でよかった」
部屋に入れるため向きを変えた由理の横顔をちらと見て、
男は言い終わる前に中に入り、素早くドアを閉め鍵をかけた。
その動作は体が覚えていて勝手に動いた。
「いままで何処に居たの、恒。連絡もくれないで」
由理は恒の胸を拳で何度も叩くようなしぐさをし、
すぐにその胸に顔をうずめて恒の背中に両手を回すと持てる限りの力できつく抱きしめた。
「すまない。お前に迷惑をかけたくなかった」
由理に抱きしめられて恒は怪我の痛みに一瞬顔を歪めたが、由理に会えた気持ちのよさが勝ったのかすぐに安らかな気持ちで答えた。
恒は由理の髪を撫でながらその香りを確かめた。
髪が掛かった頬に顔を寄せると甘い匂いと首筋から漂うかすかな汗を感じ、今まで張り詰めていた心がほぐれていく。
二人で暮らした日々の思いが波のように押し寄せ、あの頃の熱い気持ちがよみがえった。
由理は何も言わずそのまま恒を抱きしめていた。
そして汗と埃にまみれて恒は疲れきっているのが解った。
「あんた、食事はしたの」
由理はゆっくりと顔を上げ、恒を見つめると言った。
「いや、なにかあるか」
恒は由理の顔を見つめ返しながら返事をした。
それに頷き由理は恒を部屋の中に誘ってソファに導いた。
「ゆっくりして。いますぐに食事を用意するから」
ソファに横たわる恒の手を離し、由理はキッチンに向うとすぐに料理を始めた。
恒はその後姿を見ながら安堵のため息を付いた。此処にきてよかった。
あの頃となにも変わっていない。
「由理、ありがとうな」
ソファに仰向けになりながら恒は言った。
「ううん、あんたは此処にきっと帰ってくると信じてた。だから待っていたの。
帰ってきてくれてほんとうれしいよ」
由理は振り向き笑顔で答えた。
恒はその声を聞きながら痛む身体をかばうように楽な姿勢をとった。
気がつくとテーブルの上に缶ビールとコップを運んできた由理がいた。
心配そうに見ている。
「怪我をしてるんじゃない。体が痛むの?」
「ああ、少しだけな。でも大丈夫だ。気にするな」
「そう。ならいいけど。喉が渇いているでしょ、これ飲んで待ってて。
それと先にシャワーを浴びるなら洗面所に掛かっているタオルを使って。」
恒はゆっくりと起き上がり、ビールを手に持ちそのまま飲み始めた。
気がつけば何も口にせずにここまで来ていた。
その液体が体中に染み渡り程よい苦味と、やがてアルコールの微かな火照りが身体を巡った。
由理の部屋はきれいに整理されていた。
まったく男の気配を感じさせなかった。
それは、ここに移り住んでから一度も男が居なかった事を物語っていた。
知らず知らずに涙がこぼれた。
恒の瞳の中にはキッチンに立つ由理の後姿がにじんでいた。
由理との出会いはどんなことだったか今では思い出せないが、やくざな男に金で縛られ
ているのをかわいそうに思い恒が自らを半ば犠牲の様になり自由にしてやったのだ。
人助けなどのつもりはなかったし、
今までの恒であったならそんな事は絶対にしないだろうと思って生きてきたが、由理に出会った事が恒の生き方に何かをもたらしたのは事実だ。
とにかく由理を自由にしてやりたかった。それを金で解決しようとした。
しかし金を工面するのは並大抵ではなかった。実の所、まともに働いて出来る金額ではなかった。
その男、矢敷から持ちかけられたのは、近いうちにでかい山があるからそれの仲間に加わり仕事をすれば女をお前にくれてやる、
と言った事だった。
所詮、いかがわしい奴らのことだから結果はある程度は解っていた。
しかし何も出来ない自分に直接、由理の自由を約束すると言われればそれを断ることもないだろう。
最後はすべて自分が責任を負えばすむことだ。
別に由理と一緒になれなくてもよかったのだ。
由理が自由になり自分の人生を取り戻せればそれが恒の本望だと思った。
そんな折、偶然に恒と由理に二人きりで居られる時間が得られたのだ。
その仕事が来るまで矢敷は由理を自由にしたのだ。
矢敷の本意は恒を仲間に留めて置く為に女をあてがったつもりなのだろう。
矢敷にとって女はただの道具と同じなのであった。
しかし、その仕事の日までの一ヶ月は夢のような日々であった。
由理と恒は心の底からお互いを受け入れた。思えば恒にとっては始めて本気になって愛した女だった。
そしてその好きな相手から愛されているという感情がひしひしと伝わってくるのだ。
恒にとって由理はそんな態度を何の遠慮もなく見せる女だった。
それは男には最高の女と言える存在だ。
まさに夢中になるとはこのことだろう。あっという間に一ヶ月が過ぎ去った。
仕事の日に矢敷が迎えに来た。それは突然で問答無用だった。
由理に別れも言えずじまいで車に乗せられた。
だが、恒はこんなこともあるだろうと思い、自分の荷物の中に由理宛の書置きと現金の全て、
そして自分がいなくなったら違う場所に移るようにと、秘密に借りたアパートの場所と鍵を用意していた。
仕事は盗みだった。大方予想はしていたがその場所はかなり危険だった。
だが、以外にも矢敷は用意周到だった。
完全な計画でまんまと金は盗み出せたが、逃げる間際に警備員の機転で逃げ道を閉ざされそうになったのだ。
矢敷は恒に犠牲になるように言った。
恒が奴らの盾になり男達を無事に逃げさせたら、女の自由を保障し出所後も金の心配は要らないと説得しに掛かった。
恒は最初から矢敷達の身代わりになるつもりでいたからなんのためらいもなかった。
ただ矢敷達の約束は信じてはいなかったが。
自ら警察に捕まり、恒は全ての罪をかぶり2年間刑務所で過ごした。
そこで同じ房にいた男と知り合い出所後に仲間にならないかと誘われ、あのグループに入ったのだ。
その後、由理とは連絡は取っていなかった。
自分の行方はあの男たちも追っていると感じたからだ。
「あれからもう4年もたったのね」
由理が恒を見つめながら言った。
その手にはビールがわずかに残ったグラスが握られていた。
「誰かいい人はいなかったのか」
恒が聞くが、すぐに恒は何を馬鹿な事を聞いたのかと後悔した。
「もともとあたいは家族もいないし、男なんてどれも皆同じ。だから見ての通り誰もいないわ。付き合おうと感じるいい男もいなかったし」
由理は冗談の様な返事をして笑みをうかべた。
「でも、恒。これだけは信じて。あんたは本当にいい人。あたいには最高の男だよ、そして愛してる。」
グラスを置くと由理は突然、恒に抱きついてきた。
そして恒の首筋に何度も唇を寄せた。
恒もそれに答えるように激しく由理を求めた。
愛情の高まるままに。
着替えてタオルを首に掛けた恒がバスルームからシャワーを終えてリビングのソファに座った。
その姿を見ると由理はキッチンの洗い物を終えて、恒の側に寄り添うように座った。
「ねえ、恒。これ、覚えてる?」
由理が見せたのは一通の手紙のように見える紙だった。
二つに折られ中は見えなかったが、恒にはすぐに理解できた。
かつて二人で暮らした部屋から、
男たちと犯罪のために由理に何も告げずに出て行った時に残した書置きであった。
「いまさら何をだすんだ、そんなものを今でも持っていたのか」
恒は由理のその手を軽く払うように言い捨てた。
「ううん、これはあたいの一番の宝物だよ。何度も何度も読み返した。
最初は涙がこぼれて、なんで出て行ったのかと恨みもしたけど、日々が過ぎると恒の優しさがあふれてることに気がついたんだ。
だって、そうでしょ。
その気もなければ絶対にこんな事はしないし、いままで一人は辛かったけど、これに書かれている事は何よりも希望だったよ。
何でも我慢できた。
そして、いま恒は此処にいる。あたいは幸せ者だよ」
恒の目を見ながら由理は本当に幸せな顔を見せた。
「解った。由理、俺はうれしいよ。そこまで愛してくれてるなんて」
その言葉を聞いた由理は恒の腕を両手でつかみ二度と離さない、と言わんばかりに身体を引き寄せた。
「もう、何処にも行かないで。ずっとここにいるんでしょ。ね、お願いだよ。お金の事は心配しないで。あたい、今の仕事でけっこう稼げるんだ」
その言葉を聞いた恒の瞳は曇った。
そのわずかなしぐさに由理は一瞬、身体を緊張させたが、すぐに笑顔で返事をした。
「いいの、こんなのあたいのわがままだよね。愛してくれてても、恒の心はもっと別のものを追いかけていたのは解ってたはず。いまさらこんな事を願っても無理だって。そうだよね。恒」
だまったまま恒はうつむいていた。
二人の間に沈黙が流れた。
「すまない。どうしても知りたい事が俺にはあるんだ。そのためにどんなことも耐えて来た。それだけは捨てるわけに行かないんだ。許してくれ由理」
無言の時を切り裂くように恒は言った。
由理の笑顔は引きつったようにそのまま悲しみに包まれていった。
「解ってるよ」
その言葉は由理自身を言い聞かせていた。
どうにもならない人の感情を何とか理解しようとしていた。
後ろ姿を見せ両手で顔を覆いこぼれ出る涙と悲しみを必死に隠していた。
由理の心は壊れる寸前だった。
今までの苦労が報われたと思った瞬間、
奈落の底に突き落とされた様で何もかもむなしく感じ始めてもいた。
恒はその由理の態度に自分の心が流されないよう必死に耐えていた。
俺には何よりもこだわる事がある。それを目指さなくてはならない。
由理、解ってくれ。それを手に入れなければならないんだ。
俺なんかよりずっといい男がきっと出来る。
だからもうこんな俺は忘れてくれ。
恒の心はすでに石になっていた。
それは由理の思いもいまや受け入れる事が出来ないのであった。
その夜はお互いに離れていく心を感じながらも、二人は最後の別れを惜しむように寄り添いながら眠りに着いた。
眠っていたはずの由理の気配がないのに違和感を感じ目を覚ました恒は、バスルームからかすかに湯気のにおいが漂うのを感じた。
だがその中に何か不快を感じさせるものも混じっているのが解った。
恒は飛び起きた。いやな予感がしたのだ。
勢いバスルームの扉を開ける。
「由理、いるのか」
開けながら呼びかけた。その瞬間に恒の目に映ったのは理解しがたい光景だった。
眠るようにバスタブの端に頭を掛けて由理が湯に浸かっていた。
その湯は真っ赤な濁った絵の具の海に見えた。不快に感じたのは血の匂いだったのだ。
「由理、なんてことを」
恒は赤い湯の中に両手を突っ込み、由理のからだを抱える様に抱き上げた。
すぐにバスルームから運び出しベットの上に横たえた。
唇は青く身体は血の気が完全に引いていた。
由理の唇に手を触れ、ゆっくりと胸の心臓の辺りに手のひらを恒は置いた。
あの由理の息遣いが今は消えていた。
完全に消え去ってしまっていた。
恒は由理の身体をゆっくりとバスタオルでしずくを拭い取りきれいにしてやった。
そして両手首に切り傷がありそこから由理の血液がとめどなく湯の中に流れ出ただろう事を恒は感じた。
心臓がえぐられるような感情が押し寄せ、今までにない苦しさで思わず首元を両手でかきむしった。
なんでなんだ。俺が由理を追い詰めてしまったのか。
いままで由理は喜んでいてくれているとばかり思っていた。
それなのに。
昨日のあの問いかけは由理にとって精一杯の思いだったのか。
此処に来るんじゃなかった。
少なくとも俺がいなければこんなことも起こらなかったはず。
なんて馬鹿なんだ。由理の事はよく知っていたはずなのに。
恒の目から涙がこぼれた。
今はきれいになってバスローブに身を包んだ由理の身体にとめどなく恒の涙が落ちていた。
由理の眠るような顔を見て今にも目覚めるのではないかと思うと、胸の中から押し寄せる悲しみに耐え切れず恒はひざを落とした。
そしてうずくまると床のカーペットを両手の指で千切れるほどの力で握り締め声を出し泣いた。
恒は由理の部屋をきれいにすると、バスタブにあったナイフを手に取り長い間見つめていた。
由理が最後にその命の終わりを決める為に使った鈍く光るナイフ。
そのナイフは今や由理の形見だ。
そしてその輝きが恒に自分の運命を決めるときが来た事を、まるで由理自身が語り掛けている様に思えた。
ナイフをズボンの背に隠すようにしまい、由理の部屋を後にした。
二人で暮らした想い出も何もかもそこに置き去りにするように、全てを捨てきった恒が扉から出て行った。
外に出ると朝の日が徐々に差し始めていた。
昨日と同じ日が何も変わらないように始まっていく。
商店街に差し掛かるとその地域に唯一ある公衆電話から警察に通報した。
アパートの名前、部屋、そして住んでいる女の名前。ベットに横たわり亡くなっていると。
電話を切ると、シャツから取り出したサングラスを掛け、痛む胸を押さえつつその場を足早に去っていった。
翌日の放課後、校門を出ると実芦は、
「お店に昨日のお金を払いに行くから先に帰っていいよ。後で寄るね」
と歩大尉に言うと、さっさと店のほうに駆けていってしまった。
葉瑠音が用がある旨はその前に伝えていたが。
「なんか、ほっとかれた感じだな」
歩大尉は、その走り去る姿を見送ると思わずため息をついた。
実芦は時々、目的が見つかると夢中になり、それまでは寄り添っていたかと思えば、次の瞬間にはそっけなくなる時がある。
今回もそのパターンか。
仕方ないので帰りにスーパーによって買い物をしてから帰ることにした。
一方、実芦は修理されてすっかり元通りになったコーヒー店で昨日の飲食代を払うと、
「わざわざありがとうございます。これは私どもからの感謝の気持ちです」
と店長から感謝されて、手渡されたのはセットメニューの無料券だった。
実芦は上機嫌だった。
これは、来店の際のポイントカードのスタンプが、満点にならなければ貰えない物だ。
「えー、本当にいいんですか、やったー」
実芦は、この無料券をもらうためにコーヒー店に通っているようなものだったから、
大感激して思わずその場で踊りだしそうだった。
大事そうに、制服のポケットに無料券をしまいながら、
「やっぱり、神様って居るのかなあ。あっ、こんなこと言ったら葉瑠音ばあに叱られるかも」
ぺろっと、舌をだして自分の頭を拳で軽く小突きながら店を出ると、歩大尉の自宅方面に向かった。
コーヒー店からしばらく行くと住宅街に入る。
ここからは坂道を登れば、まもなく歩大尉と葉瑠音ばあの家だ。
もう少しと思いながら早足になる実芦だった。
その後ろ姿を見逃さないように、そして気づかれないようにと、
気配を消した男が付かず離れず後を追っていた。
昨夜、病院から抜け出したサングラス男、恒だ。
コーヒー店の中で少年に手渡した封筒を取り返しに、店の近くで張り込んでいたのだ。
少年は来なかったが、そのときの連れの女子高生を見かけたので今まさに尾行しているのだ。
このまま行けば、きっとあの少年に会うはずだ。と確信していた。
しかし恒は追い詰められていた。
傷の痛みが何時まで押さえられるか解らないし、あのキャップ帽に発見されるとも限らない。
そのすべてが悪い方向に進んでいるようで、逃げ場がなくなっていた。
早くあの封筒を取り返して、目的の場所へ行かなくては。
実芦が歩大尉の家の前からのチャイムを押すと、しばらくして玄関の扉がゆっくりと開いた。
「こんばんは、来たよ」
「思ったより早かったね。コーヒーでも飲んでゆっくりしてくるかと思ったよ」
歩大尉が扉を開きながら、実芦を、招きいれようとした瞬間だった。
「おい!静かにしろ、騒ぐんじゃないぞ」
扉の影からサングラス男が現れ、実芦の首にその腕を回し、即座に自分の前に抱え込むと、片方の手でドアノブに手をかけ、家の中に入りながら後ろ手で扉を閉めた。
歩大尉はとっさのことに、声が出せずにサングラスの男の迫力に押され、そのまま後退りしていた。
男の腕にしがみ付いて、少しでも楽な体制を維持しようともがく実芦だが、小柄な女子高生の力では、大の男の足元にもその力は及ばなかった。
苦しそうに表情は歪んでいたが、その視線は歩大尉に向けられ、私は大丈夫、と言っている様に落ち着いていた。
「おい、おまえだ! あの封筒はどうした?まさか開けたんじゃないだろうな」
サングラスの男は、歩大尉の返事を待てないのか、さらにたたみ掛けるように言い放った。
「とにかく、ここに早く持ってこい!こいつの首を絞めてやるぞ!」
実芦の表情は硬かった、瞳はさらに増した苦しさの為か涙で潤み始めていた。
歩大尉は動けなかった。
目の前で起こっていることは、とてつもない危険なことだ。
実芦を助けたい、その事で頭がいっぱいになり今にも破裂しそうだった。
「おい、早くしろ!」
男のあせりは加速しているようだった。
額からとめどなく汗が流れ出し、進入してきた勢いが止まり、何か思い道理にならない自分にも苛ついている。
傷が痛み始めたのだ。
「くそー、何てことだ!」
かすれた声で男はつぶやく。
「此処まで来たのに、どうにも成らないのか。」
サングラスで表情があまり見えなかったが、歩大尉に近づくために、奥の明かりの前に進み出た男の表情は、蒼白であるのがはっきりと解った。
辛うじて実芦を抱えているといった状態だった。
そのとき、葉瑠音の部屋の扉が開くと同時に声が聞こえた。
「その子を放してやりな。私たちは、なにもしたりしないから」
かすかな声だが、ゆっくりとその場にいる者たちに、伝わる声だった。
「葉瑠音ばあ、」
実芦はこれで安心できると思い明るい表情にかわって、ささやいた。
男は葉瑠音を見ると、こんな場所に何で?といった表情になり、実芦を絞めていた腕をゆっくり下ろした。
「あ、貴方は?!」
男は完全に実芦を離し、痛む胸を押さえながら葉瑠音にゆっくり近づいていた。
「ボウイ!」
実芦は小さな声で、歩大尉に走り寄ると、その腕にしがみついた。
歩大尉は両腕で実芦を抱くようにすると、硬い表情で実芦を見つめた。
そして、ゆっくりと葉瑠音のほうに視線を向ける。
「あの方ですよね?」
サングラスの男は滴る汗を拭うおうともせずに、葉瑠音を見ていた。
「なにも喋るな。傷はだいぶひどいようだから、無駄な消耗をしないほうがいい。
そしておまえの言いたい事はすべて解っているから」
葉瑠音は本当にその男の気持ちのすべてを理解していると思えるような、やさしい目で見つめた。
「それならば俺の目的は達成された。これですべて救われる。」
男は歓喜の表情を浮かべ痛む身体を休めるように、その場にしゃがみ込んだ。
葉瑠音はその男の肩に手をふれてささやいた。
「残念だが、私はお前が思うような立場の人間ではない」
男は、いったい何が、と言った表情で葉瑠音を見た。
「そのような人々も居なければ、集まりもないのだ。お前が考えているような形ではありえないのだよ」
「それは嘘ですよね、俺の記憶が正しければ、貴方です。いや絶対そのはずです」
歩大尉にはその二人の会話の意味が理解できなかった。
この男の頼る先が葉瑠音だとしても、そのようなことはまったく感じないからだ。
サングラスの男は、しゃがみ込んだままうめきだした。
もう、傷のいたみに耐えられなくなったようだ。
「ううー、なんとかしてください」
歩大尉がとにかく手当てだけでもと思い、あたりを見渡していると窓越しに、一台の車が家の前の道路に静かに乗付けるのが見えた。
そして明かりを消して止まったままだ。
車の中から運転手らしき人物が家の様子を伺っている様だ。
そんな歩大尉の様子を見て、葉瑠音も感じたのか窓の外を確認した。
車のドアが開き中から人影が降りて、こちらに近づこうとしている。
葉瑠音はそのタイミングを計っていたかのように、まだ歩大尉の腕にしがみついて、サングラスの男を不安げに見つめていた実芦に、ひときわ鋭く視線を投げた。
その合図とも取れる視線を受けると、実芦は表情を一変させ、強い意思が現れた鋭い顔つきになり、その両手で歩大尉をゆっくり奥へ押しもどすと、自らは反対の玄関の扉の方に歩き出した。
突然、何をするのかと、歩大尉は実芦を止めようとしたが、
葉瑠音の視線を感じてその表情を見ると、そのままで動くなと語っていた。
それに答えるように歩大尉は頷いた。
実芦の動きに気がついたサングラスの男は、痛さにゆがむ表情のまま立ち上がり、ドアノブに手をかけて外に出ようとする実芦を捕まえようと近づいたが、すでに実芦は扉をあけて外に身を乗り出していた。
その瞬間男は実芦の腕をつかみ上げ、背中に隠していたナイフを握り、その手を振りかぶりながら耳元でささやいた。
「この、娘め!」
さらに腕に力が込められ、振り下ろされようとしたその時、鋭い声が響いた。
「おい、やめろ、こっちを見ろ!」
サングラスの男が振り向くと、拳銃を構えた男がいつでも発砲できる体制で狙いを定めていた。
それは家の前にとめた車から降りてきた男だ。
もうすでに傷の痛みとすべてが思い道理に行かなくなった事で、
体力の限界になっていたサングラスの男に冷静な判断をすることは不可能だった。
「くそ、もうどうでもいい」
実芦を突き刺そうと、サングラスの男のナイフが微かに光ったその瞬間、男の拳銃が炎を発した。
男の脳裏に一瞬のきらめきが走った。
その男、恒の愛した女、由理が目の前に佇んで微笑んでいるのが見えた。
「由理」
声にならない声を発し、恒は一瞬の夢の中で両手を差し出し由理の手をつかもうと身を乗り出していた。
恒の手を由理は確かに握った。
そのとき光が瞬き由理の身体を覆い始める。
ゆっくりとその身体を振り向きながら後ろ手に恒の手を引き光の彼方に向って飛び込む。
暖かな温もりと由理の微笑と全ての感覚が一体になってゆく。
恒は光の中に解けていく。その一瞬がまるで永遠に続いていたかのように。
発砲音と同時にサングラスの男はその場に崩れ落ちた。
実芦はその場にしゃがみ込み震えていた。
「だいじょうぶか、実芦」
拳銃を撃った男が素早く駆け寄り、サングラスの男の状態を確認する。
すでに息は無く抵抗は無理と判断すると、男は実芦をその場から引き離すように抱きかかえた。
実芦は外に飛び出した時の表情は消え、今は自分の足元をじっと見つめ起こった事の全てを理解しようとしていた。
「中林さん、大丈夫です。助けてくれてありがとう」
顔を上げながら実芦は、すでに冷静を取り戻しゆっくりと答えた。
男は中林剛汰といい、葉瑠音とは知り合いで、皆とも顔見知りであった。
元警察官で今は私立探偵をしている。
「よかった。葉瑠音と歩大尉は大丈夫か?」
「うん、大丈夫だと思う」
振り返ると、玄関口に倒れ身体を血に濡らしているサングラスの男を見つめ、呆然と立ち尽くす歩大尉がそこに居た。
「歩大尉、大丈夫か?葉瑠音はどうだ」
中林の声に我に返った歩大尉が二人を見て答えた。
「はい、大丈夫です、ハルも無事です」
歩大尉は近づいてきた二人を招き入れるようにして、玄関の扉を全開にする。
部屋に入った中林は、葉瑠音を見ると近づきながら頷いた。
そして、無事を確認すると葉瑠音を部屋の奥の椅子に座らせた。
歩大尉は実芦とすでに反対側の椅子に二人並んで座っていたが、表情は血の気が引き見るからに疲れきっていた。
そんな歩大尉を気遣ってか、実芦はしっかりと肩に手を掛けて庇うように寄り添っている。
その姿は実芦自身に起こった事など、まるでなかったかのように毅然とした態度であった。
しばらくすると外にはサイレンの音が遠くから響いて来て、数台のパトカーと救急車が騒がしく集まって来た。
最初に到着した車からは警告灯が内部から光り、それは覆面パトカーと解った。
中林の車の前に勢いよく停車すると、中から私服刑事らしき二人が降りて足早に近づいてくる。
刑事達は玄関の前に倒れているサングラスの男を確認した。
そして一人は救急隊員に声をかけ処理するように指示し、もう一人は開いたままの玄関に入ってきて、中を確認した。
住人の中に中林を発見すると、声を掛けて来た。
「やはり先輩でしたか、外に先輩の車があったもので。どうしたんですか?こんな所に」
葉瑠音と部屋の奥で、なにやら相談をしていた中林が振り向きながら答える。
「おお、健治、おまえか。まあ、成り行きでな。とりあえず片付けておいたよ」
二人は知り合いのようだ。
刑事は他の連中を家の中に入れまいと、外の制服警官に誰も入れないよう指示し、
すばやく扉を閉めた。
「この家の住人の事に付いては穏便にたのむぜ」
中林が刑事に歩み寄りながら伝え、そして事件の経緯を説明した。
「解っていますよ、先輩。第一、外の男は脱走犯ですからね。
この家には何の落ち度もないってことになるでしょう。
そして、先輩は事件を解決したヒーローですから」
笑いながら中林に話しかけている刑事をみて、歩大尉は思い出した。
それは、コーヒー店で話を聞かれて名詞を手渡された御手洗刑事だった。
その視線を感じた刑事は、改めて歩大尉と実芦を見て話しかけてきた。
「君たちか、大丈夫かい?」
「はい、大丈夫です」
歩大尉は座ったままで、軽く頭を下げて答える。
隣の実芦も御手洗に視線をむけて挨拶をした。
「君たちが襲われたと言うことは、奴は君たちを探し当て此処に来たのか」
御手洗は二人に確認するかのように言った。
「そうかも知れません。実芦を家に入れようとした時に、突然後ろから出て来ましたから」
歩大尉はその瞬間を思い出しながら答えた。
「奴は、よほどの用があったのかもしれない。何か思い当たる事はないかな」
今度は家の中の全員に問いかけるように視線を振り分けながら質問した。
即座に答えたのは葉瑠音であった。
「此処に来た理由ははっきりとは解らんが、私の事を見ると誰か知り合いと思い込んで、
何かをしきりに伝えたがっていた」
歩大尉に視線を送り軽く首を横に振って、葉瑠音が皆の発言をさえぎるように答える。
その葉瑠音の行為に何も言うなと感じた歩大尉は発言を抑えた。
「人違いと解るとかなり気落ちしていたようだったし、さらに怪我が痛み出した事と相まって、
自暴自棄になり、助けを求め外に出ようとした実芦に襲い掛かった結果が、このようになってしまったと言う訳だ」
さらに付け加えるように葉瑠音が話を続けた。
簡潔な物言いの葉瑠音に頷くようにして、御手洗は納得した様だった。
「とりあえずみなさん無事のようですから、この家のことは先輩に任せます。
あとで、所長のほうから先輩に連絡が行くかもしれませんが、そのときは適当にあしらって置いてください。
報告書はそれなりにまとめて出して置きます。
私たちは外の後始末とマスコミの処理をしますので、家の中で休んでいてください」
御手洗が中林に言う。
「ああ、何から何まですまないな」
「なに、大した事ないです。この所轄で事件解決の処理が早くて他の管轄より成績がいいのは、先輩のお陰ですしそれで私たちもだいぶ助かっていますよ。では皆さん私はこれで失礼します」
玄関のドアを背に姿勢よく立ちながら、皆に軽く会釈をすると中林に敬礼をしてその後、御手洗は外に出て行った。
しばらくして、外の警官たちも引き上げ、皆が落ち着き始めた頃、
「なんか、おなか空いてない?」
と実芦が言い出した。
「そうだね、じゃ、今からすぐに作るよ」
歩大尉が席を立つと、
「わたしも、手伝うね」
実芦も同時に席から立ち上がり、二人で一緒に台所に向かい食事の準備を始めた。
歩大尉が食材を吟味しながら、中林に声をかけた。
「中林さんも、食べていってください。大丈夫ですよね」
中林は葉瑠音とテーブルで向かい合わせに座って、小さな声で何かを話していたが、
声をかけられて台所の歩大尉のほうに向きを変えた。
「ああ、久しぶりだから、ご馳走になるよ。なんせ歩大尉の作る料理は天下一品だからな。」
歩大尉はその言葉に照れたのか、うつむき加減に小さな笑顔を見せた。
その横顔をちらりと見た実芦は、振り向きながら中林に話しかけた。
「えー? じゃあ私のは要らないのね」
「そ、そんなことはないよ。実芦ちゃんの料理も最高だよ」
中林はあわてて手を前に出して、否定のしぐさをしながら、付け加えた。
「ウソですよ、ゆっくりしていってくださいね」
実芦が小首をかしげて言った。
「いやあ、まいった。実芦ちゃんには、かなわないなあ」
中林はやられたと言う格好で、思わず吹きだした。
そんなやり取りで、部屋の中は、みんなの笑いにあふれていた。
やがて、歩大尉と実芦が4人の食事を運んできて、食器が、次々と並べられていった。
今までのことが、嘘のように楽しげな時間が流れていた。
和やかな時の中で、葉瑠音はサングラスの男のもたらした事を思い出していた。
その事はなにやら今以上に、自分の身辺が騒がしくなりそうだと感じさせずにはいられなかった。