或る桜と笛の話
この話は今からどれぐらい昔の話でしょうか。
私の母から聞いた話です。
ある夜、母は父親……ここでは、私の祖父という事になりますね。彼につれられて、お出かけになられたそうです。
その日は、とても月が美しい夜で、父親は月明かりの美しさに誘われるように共をつれずに出かけたそうです。……わたしの祖父はやんごとなき身分でありながら陽気な方ですから、このようなことはよくあるそうです
先ほど、父親に連れられたといいましたが、実際は母が面白半分にくっついていっただけのようでした。
その夜、母は父親とともに、桜の森……と、言っていいほど桜の木のある所にいったそうです。
そこにある桜はとても美しく私も幼い頃何度か行ったことがあるんですよ。絵にもかけない美しさとはまさにこのことだと、幼心に思ってました。
母は父親とともに夜桜を楽しんでいたそうです。
ふと、父親は懐から笛をだし笛を吹いたそうです。……私の祖父は笛の名手で、祖父の吹く笛は美しいものですよ。
幻想的な夜桜にその笛の音も一段と美しく聞こえたと母は言いました。
ふと、父親が笛を吹くのを止めたので母は少し気になったそうです。
父親は、笛を吹くのを止めるとじっと耳をすましていました。
母は、父親と同じように耳をすましたそうです。
耳をすましているとかすかな風で揺れる、桜のザァとした音に紛れて別の笛の音がしたそうです。
二人でその笛の音をたどってみるとそこにはとても立派な桜があったといいます。樹齢は何百、何千とあるだろうその桜の木はここをよく訪れる、二人も見たことがなかったといいます。それもそのはず。その桜の木は人の通れる道を横にそれて、獣道をとおり、その先にあるという木なのですから。
その桜の木の枝にすわり、笛を吹いている一人の童子がいました。
おそらく聞こえてきたのは、その童子の吹いている笛のようでした。その笛は幻想的な音を奏でていましたが、幻想的なのは笛の音ではなく、むしろその童子の方だと母は言いました。
腰を通り越して膝裏まであるのではないかと思う長い髪は頭の高い位置で束ねられていて、その髪の色は月光を反射して輝く白銀の髪で、童子の肌は、まるで日に焼けたことのないようなくすみのない陶器のような白い肌。
その童子の前ではどのような美しい花も、月も、たちまち色あせてしまうだろう。と母は言っていました。
そのとき母は、幻想的な笛の音を聞いていました。
そして、父親はそのあまりの笛の音の美しさに誰何をすることもわすれて、ともに音を合わせて笛を奏で続けたとか。
月の位置も、ここに来たときからかなり西に傾いたとき、童子は今まで閉じていた眼を開き、笛を奏でるのを止めました。
このとき初めて見た童子の眼は、美しい金の眼だと、母は言っていました。
ふわり、と童子は人間では簡単に登れぬだろう、高い枝から降りてきました。降りてきてから、地面に足をつくまで、童子の動きは重力を感じさせぬような動きで、風に飛ばされないのが不思議に思えたとか。
童子は父親のすぐ前まで来ると上目遣いで父親を見ていたようです。
母も、お爺様も、そのときに童子を近くで見て、彼が人を傷つける牙や爪、角などを持たない、普通の人間の子供とそう変わらない姿をしていたことに少し驚かれたとか。
童子は無遠慮に母とお爺様を見ていました。
人ならぬ童子はすっと、自分の持っていた笛をお爺様に渡されたそうです。
お爺様はその笛を受け取りました。その笛には童子の手の温もりが残っていて、これは夢ではないと確信したそうです。
童子はお爺様が笛を受け取ったのを見ると、初めて口を開きました。
「あなたがこの笛を持つにふさわしき人ならば、この笛は美しい音を奏でるでしょう」、
子供に不似合いな言葉遣いからして、見た目こそ子供であるが、童子は長い月日を生きているのではないかと、思ったそうです。
お爺様はその笛を吹いて見ました。
その笛はとてもきれいな音を奏でていました。
笛を吹いたとたんに流れる天上の音楽。
それを聴くと童子はあどけない顔で、さっきの言葉とは裏腹な子供らしい笑みを口元に浮かべるときびすを返してその場を去ろうとしました。
それに気付いたお爺様はあわてて、童子の着物の袖をつかみました。
まだなにかあるのか、とでもいうように童子は二人を見たそうです。
お爺様は自分の笛を童子に手渡しました。
最初、よくわからないというように童子は首を傾げました。
その様子を見たお爺様は、
「あなたの吹く笛は私の吹く笛よりも美しい。それを聴けなくなるのは寂しいものだ。」といって、童子に笛を渡しました。
それを仕方なく受け取った童子はくすりと笑って、
「あなたにまた会うことなどなかろうに……」
「あなたの笛を聴きたいと思っているのは私だけではないはず。どうか受け取ってほしい」。
くすり、と童子は袖を口元に当てて笑いました。
「あなたは変わった人だ。……でもとてもやさしい方なのですね……」
言うと次の瞬間、強い風が吹き、桜の花びらで視界が埋め尽くされ、風が止むと童子の姿は消えていました。
その後しばらくして屋敷にお爺様の姿がないことに気付いた家臣たちがそこに駆けつけました。(お爺様の笛の音を聞いてそこまできたそうです)
家臣に先ほどのことを話したら驚かれたとか。
はい、お爺様は陽気な方ですから、鬼に取り殺されるとは思いもよらなかったでしょうね。
いったいあの童子は何者だったのでしょう。
母や祖父は私にこの話しをするたびに言います。
あの笛は今私の手元にあり、私が吹くと、お爺さまほどではありませんが美しい音色を奏でます。
笛をわたした童子は男子とも女子ともつかない調った顔立ちだといっていました。
私もこのことを私の子供たちに伝えていくつもりです。
私も幼いころ、話の童子と思わしき子供にあったのですよ。
私はあの話を聞いた日の夜桜の森に行くとその童子は大きな桜に腰掛けて笛を吹いていました。
童子はこちらに気がつくと、こちらを懐かしそうに見ました。童子は「あなたは笛を渡したときにいた娘か?」といいました。
童子は私をお母様と間違えていたようです。
私はお爺様とお母様から聞いた話に出てきた童子とはあなたのことかと聞きました。
それに童子は
「あなたがそう思うのであれば私はその童子でしょう。でも違うというのであれば私はその童子ではないでしょう」
「やっぱりあなたはお爺様からきいた人なのですね」
童子はくすりと笑いかけました。
私もつられて笑いかけました。
童子はしばらく考え込むとふしぎそうにいいました。
「あなたは人ではない私が怖いとか思わないのでしょうか?」
童子は不思議そうにこちらをみました。
「あなたのような人が人を食らうとは思えないのです」
我ながら正直な感想でした。
「狸や狐は美しい娘に化け、人を食らうというが?」
と童子もかえしてきました。
「あなたはそれにはみえない」
と、私も何の根拠もないのに言っていました。
童子は一瞬ぽかんとすると口元にやわらかい笑みを浮かべ「お優しいのですね」と聞こえるか聞こえないか、という小さな声でつぶやいた。その声は小さなものでしたが私の耳にははっきり聞こえました。
そして気がついたら童子はいなくなってしまいました。
この私のお爺さま、母、そして私のであった童子の話はあの美しい音色の笛と供にずっと語り継がれるでしょう。
少なくとも、それがお爺様の願いだと私は思います。
この話をしていたお爺様はとてもうれしそうでしたから。