古に恋ふる鳥
古に恋ふる鳥
その日は朝から屋敷中あわただしくて、時折激しい父の怒声が届いたりするものだから、こんな日は部屋にじっと身をひそませておいた方がよいと、わたくしは姉様に差し上げようと縫いかけていた帯を取り上げたのでした。
帯はきれいな茜の色。
姉様はあでやかな様子がよくお似合いになる方なのです。
わたくしは一針一針、心を込めて縫ってさしあげるのです。
帯はもうほとんどできあがっています。後は端々の始末を付けるだけです。
わたくしはきれいにできあがる様子を確認するため、針を休めて帯を持ち上げてみました。自分の腰に当ててもみます。
ああ、でも、この色は姉様にはおとなしかったかしら。
床に広げておいてみると、なんだか姉様には物足りなくてお似合いにならないような、胸のしぼむような心地がしてきました。
わたくしは、そんなことない、と言い聞かせます。
姉様は、きっとこれを大切にしてくれるはずです。そしてわたくしたちの部屋へおいでになるときには、わたくしにだけわかるように目配せを下さって、わたくしが見やると、きっとこの帯をなさっているのです。
姉様は今日から、お部屋をいただくことになりました。わたくしの部屋は母様と続きで、今までは姉様もそうでした。でも姉様は、今日からは離れに造られたご立派なお部屋で暮らすのです。
わたくしもお部屋が持ちたいですわ。
あまりの立派さに、わたくしはついそんなはしたないことを言ってしまいましたら、姉様は明るく笑まれて、
もうすぐよ。
とおっしゃいました。
母様と離れるのは心細いけれど、どこか遠くへ行ってしまうのではありませんもの。同じ敷地に住むのです。
「媛様」
部屋の外からわたくしを呼んだのは家令(召使)でした。わたくしは針を置きました。
「どうしたの?」
「はい、お母上様がお越しになります」
母様はわたくしの前に坐られるのももどかしげにそわそわとなさって、
「媛や、ここへ姉様がお越しにならなんだか?」
とたずねられました。
「いいえ」
わたくしは不思議に思いながら返事をしました。だって姉様は、一人お部屋をいただくあれやこれやのご用意があると、父様母様とご一緒にいらっしゃるはずですもの。
「そうですね。いろいろと姉様も心騒いで、一人になりたいだけなのでしょう」
母様はそう言い、でもどこか不安を拭えない様子で戻って行かれました。
わたくしはふたたび針を取り上げ、それからふと、落ちつかないような思いにとらえられて目を上げました。
庭で鳥が鳴きました。
霍公鳥です。
わたくしは突然胸をつかまれたとでもいうのでしょうか、そのような不安を覚えました。それは姉様がお部屋をいただくことが決まったときにも感じたような気持ちでした。わたくし、姉様が遠くに行ってしまわれるような気がするのです。もうわたくしだけの姉様ではなくなられるような気がするのです。
母様にそう言うと、
姉様にとって、これはとてもおめでたいことなのだから、あなたはわがままを言って姉様を困らせてはいけません。
と言われました。きっと母上様のおっしゃるとおりなのです。わたくしは、わがままだから。けれども、寂しい気持ちも本当なのです。
「媛様」
そっと声がかけられました。
その声に、わたくしはすぐさま物思いに滞りがちだった針を置き、立ち上がりました。
「翔?」
声が弾んでしまいました。
「はい」
わたくしは家令も呼ばずに御簾を上げました。初夏のくっきりと青い空を背後に背負うように、翔は庭に立っていました。
「翔兄様!」
「しい」
翔は口を押さえるしぐさをします。
わたくしも急いで口を押さえました。
翔の年齢はわたくしと姉様の、ちょうど間でした。だからわたくしは翔を兄様と呼び、姉様は弟と呼びました。三人で山や川へ行っては、よく一緒に遊びました。
翔は一族の、今では力を持たない分家の息子で、わたくしは宗家の媛。小さかった頃はそのように兄と呼んで許されていたことも、十歳を過ぎると、翔と遊ぶことは禁止されてしまいました。
それでもこうして人の目が途絶えた時、やっと言葉を交わしたりしました。そういう時、声はかすかでなければなりませんでした。
そのことを忘れていたのではありません。ついうれしくて、つい、なのです。
「これを」
翔が差し出したのは、山道ででも手折って来たのか、橘の一枝でした。花がついています。
「まあ」
「お使いの途中で見かけたものですから」
翔はどこか決まり悪いような、居心地の悪いような様子です。
翔はいつもそうです。ことにわたくしが十歳を越えてからは父様母様がわたくしと翔が一緒にいると翔を叱るので、わたしたちはいつもいつもいけないことをしている後ろめたい気持ちで、そっと目を見交わすばかりなのです。
翔はきっとお使いの道を歩きながら、この枝をふと目にとめて、もうあまり言葉を交わせないわたくしのことを思い出してくれたのでしょう。
「ありがとう、翔」
橘はぬくぬくとした日向の匂いがあります。わたくしは翔の気持ちがうれしくて、一生懸命ほほえみました。翔はなにか言いたそうな、それを我慢するようなそぶりでした。でもあちらから父様がやってこられて、翔は急いで姿を隠さなくてはなりませんでした。
「媛や!」
父様の強い声が廊下を揺するように聞こえました。すぐその後に、母様の声がしました。
「あなた! お願いですから」
「媛!」
とうとう父様がわたくしの前に来られました。
「そなたはいくつになる?」
たずねられた瞬間、わたくしは胸が寒くなるような気がしました。わたくしは父様がおいくつになられたか、存じておりますのに。
でもわたくしは言い聞かせます。父様はお忙しくていらして、それで思い出せないでいらっしゃるのだ。
「十三歳でございます」
「親不孝な姉とは三つ違いか」
わたくしの胸は、またうずきました。
そこへ母様がとても心乱された様子で入ってこられ、わたくしの体をかばい抱くようになさいました。
「お願いでございます。それはこの子があまりに不憫です!」
どうなさったというのでしょう。母様は泣いておられます。
「ばかをいうな。婚礼の夜、花嫁がいませんなどと、茅濡王にどのような言い訳が立つというのだ! あの方は朝廷一の実力者。その方のご不興を買っては、わが家は破滅だ!」
「そのようなこと。わが家はあの方が不遇を囲っておられたときから大変な援助をさせていただいておりました。ならば我らの苦衷も察していただき、これをよい機会といくらかのお返しをしていただいたとて罰は当たりますまい。あなた様がお屋敷にうかがい、今しばらく、婚礼を延ばしていただくよう……」
「ならぬ! あの方がこの恥辱を我慢して下されても、まわりが黙ってはいまい。あの方とて、失笑をかって我慢なさりはしまいぞ。そら、すぐに用意しろ!」
父様はなにをいっておられるのでしょう。母様はなにを取り乱しておられるのでしょう。
父様が合図をなさいますと、家令たちがわたくしと母様を引き離そうとし、母様は取り乱されてわたくしにとりすがられましたが、とうとうわたくしは別の部屋へと連れていかれてしまったのでした。
わたくしは家令たちによって、生まれてはじめて髪を結い上げられ、美しい衣裳を身にまとわされました。母様が斎の時などになさっていたような、きれいな宝玉の首飾りや耳飾りや腕飾りもつけられました。
見に来られた父様はとても満足なさりました。
「衣裳が少々大きいようだが、なに、夜目でははっきりすまい。媛や」
父様はわたくしによく言い聞かせるようになさいました。
「媛の名前は今からは越智じゃ」
「越智……」
それは姉様の名前でした。
「そうじゃ、越智じゃ。よいな。以前の名は忘れるのだ。みなもな」
家令たちが一斉にうなずきました。母様はすみでまだ泣いておられ、たびたび独り言のように、
「そなたは本当にいい子じゃ。いい子じゃ」
と申しました。
夕刻になると、わたくしは母様のお部屋から連れ出されました。一番前を母様が、それからわたくしの前を二人、後ろを二人、家令が静かに歩いています。
「どこへいくの?」
たずねても誰も答えてくれません。わたくしもたずねるのをやめました。
だって、わかったのです。
この道は、以前姉様に手を引かれた道でした。
あれよ。
その時、姉様が指さしたのは、姉様がいただいた新しいお部屋でした。
「こちらです」
今、家令が指さしたものも、同じ姉様がいただいた新しいお部屋でした。
「ここは姉様のお部屋でしょう?」
「はい、……あ、いえ。越智媛様のお部屋でございます」
越智は姉様の名前です。でもさきほど、父様がわたしの名前はこれからは越智だとおっしゃいました。
部屋の中は姉様のために用意されたこまごまとしたものがきれいに並べられていて、この部屋の主に手に取られることを待ちわびているようでした。
わたくしが部屋に入ると、家令が言いました。
「お酒はこちらにございます」
わたくしはまだお酒を飲んだことがありません。
「灯明はこちら」
火はついていません。いつもは家令がやってきてつけてくれるのです。
「床はあちらでございます」
真新しい床が用意されていました。
「ではこれで失礼いたします」
わたくしが呼び止めるよりも早く、家令はすっと去ってゆきました。
一人きりになると何となく手持ちぶさたで、わたくしはする事もなくぼんやりと坐るばかりでした。
姉様へさしあげる帯、まだ出来上がっておりませんでしたから、あれを持ってくればよかったのだわ。明日にでも取りに行かなくては。
わたくしはあらためて部屋を眺め、それからようやく思い出して、携えてきた橘の一枝を、小さな瓶に挿しました。
その部屋はもともと姉様のためのお部屋だったせいでしょう。なんだか、わたくしによそよそしいのでした。橘の枝だけが、わたくしを振り向いてくれているようなのでした。
霍公鳥が鳴いています。
あの鳥を夏告鳥と教えてくれたのは、姉様でした。
去年、その年はじめて霍公鳥の鳴き声を耳にした晩でした。
あれは緑濃き深い森の木々に夏を告げまわる鳥よ。
そう、あれは薬草を摘みにいった帰りで、姉様が森へどんどん深入りされるものだから、とても遅くなってしまったのです。
満月が出ておりました。
新緑は暖かくなるにつれその枝葉をよく繁らせており、森は少し蒸し暑いようでした。わたくしと姉様は片手に薬草をたっぷり入れた篭を抱え、お互いの手を取って森を歩いたのでした。
あの後母様からたいそう叱られましたが、どうしてか姉様を心の頼りと二人きりでお暗い森を歩いたこと、思い起こすと胸が暖かいような気がするのです。
ああ、それにしても、いったい、姉様はどうなさったのでしょう。今日はずっとお姿をお見かけしておりませんし、その上姉様のお部屋にわたくしが入ることになって。
そのように一人心細くしておりましたら、ガサガサと音をたてて、簾が上がりました。わたくしは姉様のことばかり考えておりましたので、てっきり姉様がいらしたのだと思いました。
「媛」
驚いたことに、それは見ず知らずの男性でした。月明かりを頼りに見やりますと、父様よりはずっと若い、翔よりは見目麗しいお姿です。
「あの」
「明かりをつけずにいたのか、越智媛」
わたくしは何と答えたらよいものかわからず、おろおろとなりました。
「よい、月明かりで麗人との噂に高いそなたを眺めるのも一興」
水底から浮かび上がる泡のように、わたくしの胸に浮かび上がるものがありました。
口にするまい、思うまい。そんなことをしたら真実になってしまう。その思いにずっとこらえていたものです。
「こちらへまいれ」
ぐっと手を引かれ、わたくしはとっさに袖をあげ、わたくしの顔がその人の目に触れるのをさえぎりました。
「恥ずかしがるには及ばぬ」
恥ずかしい?
この方はわたくしを姉様だと思っておられるのに。妹のわたくしから見てもあのように美しい姉様と。
恥ずかしいのではありません。悲しかったのです。胸が潰れるくらい、嫌だったのです。
わたくしはいよいよ強くその方の手を払い、部屋の隅に逃れました。
どうぞこのままお帰りになるようにと、わたくしは強く願いました。ですがその方は満月の青白い光の中、ぎらぎらとしたまなざしをわたくしに当て、たくましい体躯を寄せてきました。
「母様」
恐怖がわたくしの口をつきました。
「姉様!」
その方は三晩部屋を訪れました。三日目の夜が明けると、ところがその方はお帰りにならず、やがて父様母様がわたくしとその方をおまねきになり、参りますと宴の用意が調っておりました。
宴の席に、みなさま晴れがましくにこやかにしておられましたが、やはり姉様の姿はございませんでした。わたくしはひどく心細い心地のまま、用意された席に座りました。隣の席は空席のままでした。いつまで待ってもその席に人は来ませんでした。そして父様も、宴の席にはいらっしゃいませんでした。
人々がそれを不審に思いはじめた頃でした。
わたくしは、あの方のたいそう不機嫌なお声を耳にしたのです。
「その方にはなにかと援助を受けた身だ。今更とやかくいいはすまい」
座がざわめき、そして静まりました。
「杣人(きこり)がからかってよこした言葉を逆手にとってやり返すほどの快活さ。越智媛といえばそのような才気煥発な噂ばかりを耳にしていた。あれは噂だけだったのか、それとも?」
父様の返事はよく聞き取れませんでした。
「ぐじぐじと泣いてばかりいる、人形のような女をあてがわれようとは思わなかった」
「不調法な娘にて、申し訳ございませぬ」
「そなたとは手を切らぬ。この娘はわたしの女だと認めもしよう。だがそれだけだ」
ばさりとご衣裳を捌く音が、それは厳しく届きました。
「親のお膳立てした夜以外、男に通ってもらえぬ娘と笑われるがよい」
その方はそう言葉を残し、足音も荒々しくお帰りになられました。
宴は白々とした空気のまま、お客様が一人去り二人去り、父様母様のおとりなしもむなしく、ついには誰もいなくなってしまいました。
「親の期待に応えられぬ、なんとふがいない娘だ!」
父様はわたくしをののしりました。
母様はため息をつかれました。
わたくしは申し訳なさに胸を潰しました。
ああ。わたくしはいつも父様母様を落胆させてばかり。いつもいつも。姉様のように、せめてその半分でも、美しくて聡明であれば、この様にお二人をがっかりさせることはなかったでしょうに。
わたくしは姉様のお部屋に一人きりでした。
わたくしは思い立って御簾を上げ、高い空に目を放っておりました。雲雀がいつまでもいつまでも、空の高さを測るように飛んでおりました。
以前から物怖じたようにしか微笑まれない媛様だったけれど、あれ以来ちっともお笑いにならないの。
家令の声が、木陰に落ちる日の光のように、くっきりと聞こえてきました。
おかわいそうではあるけれど、青白い顔をいつもうつむかせて、確かにつまらない方ですもの。
茅濡王様のお足が遠ざかるのもごもっともね。媛様が相手なら、たいがいの男がわたしを選ぶだろうって自信があるわ。
笑いが途中で凍りました。四〜五人の年若い家令たちが、わたくしが聞いていることに気がついて、棒のように立ち尽くしておりました。
わたくしは御簾を下げました。彼女たちは身をすくめるように、でも失笑を隠せぬ風情で戻ってゆきました。
わたくしは下ろした御簾に寄り掛かってしまいました。
あれ以来、誰もわたくしを訪ねにいらっしゃいません。お部屋の調度も最初の日のまま。瓶に挿した橘の花は、しだいに色をくすませてまいりました。
それでも夕刻になると家令がやってきて、わたくしに化粧を施し、美しい衣裳を着せるのは、毎日のことなのでした。誰も見になどいらっしゃらないのに。
衣裳は重いばかりのように感じられました。
「姉様」
姉様がいてくださいましたら、きっとわたくしはこんな頼りない思いになりませんでしょうに。
そうして、秋が来ました。
冬が去りました。
春が訪れました。
そして、夏告鳥が鳴きました。
その年、夏告鳥が最初に鳴いた朝でした。
その日、なにやら屋敷中があわただしくて、時折父様の激しい怒鳴り声などが聞こえて参りますと、叱られでもしたような心持ちにとらわれて、わたくしは御簾もあげずに部屋に閉じこもっておりました。ガチャガチャと金属の触れあう音などして、寒々と空恐ろしいのです。そのような騒々しさが、昼を過ぎた頃、ようやく遠のいていったのでした。
わたくしはほっと安堵しました。
つぎに屋敷がざわついたのは、あれから数日後のことでした。その日は父様の声ではなく母様のお声が届き、家令たちが行ったり来たりしている様子でした。
そして昼になると、いつもは夕刻にやってくるはずの家令がわたくしの部屋へやってきて、わたくしに真新しい衣裳を着せ、化粧を施し、見たこともないきれいな宝玉の首飾りや腕輪をたくさんつけるのでした。驚いたことに、その日は母様もやってこられ、わたくしの装った姿に厳しい批評の視線を当てられました。
姉様ならばより一層引き立つものを、わたくしではいくら美しい衣裳を着たところで、わたくしの貧相さが際立つだけ、と思っていらっしゃるようで、わたくしはうつむいてしまいました。どれもこれも、本当は母様や姉様のものなのです。
やがて母様も家令たちも行ってしまいました。
わたくしは、いつも長い時間そうだったように、部屋に一人で取り残されました。
そしてふと気が付くと、森を揺する風の音、鳥のさえずり交わす声、夏告鳥のひときわ響く声だけだったのです。
屋敷から、人という人、その気配がすっかりなくなっているのでした。
何かが起こったのです。
わが家に何かが起こったのです。
きっと、とても大変なことが。
でも、正直に申せば、わたくしはすこしく安堵していたのでした。これでなんの煩いもなく外に出ることができるのですもの。
それでもわたくしは用心深く、そっと御簾を持ち上げました。誰かがひそんでいるとも知れません。誰かに見られるのはいやでした。
そうやって、わたくしは、とうとう外に出たのでした。
屋敷の様子は、人がいないとこんなに寂しくて、それなのにほっとやさしい空気があると思われました。それでわたくしもなんだかほっとして、普段は母様に厳しく禁じられているのですが、渡殿(廊下)に腰掛けて、足をぶらぶらとさせました。
まるで豪華な衣裳が不釣り合いでした。ようやく気持ちがほぐれてきて、わたくしはぐんぐんと高まっていくまばゆい雲を見上げました。
ふと、足下に名もない小さな花が咲いていると気づき、わたくしは身をかがめてその花に心をそそぎました。
「媛様」
声をかけられたとき、わたくしはあまり驚いてしまって声も出ないくらいでした。
でもそれが翔だとわかって、わたくしはとたんに顔をほころばせました。
「翔。一人だけここに残ったの? 母様やみんなはどうしたのかしら?」
こんな事を翔にたずねたけれど、本当は母様やみんなのことなど、考えていませんでした。
「みんな、行ってしまわれました」
翔は居心地が悪い様子でそう言いました。
「もう戻ってこられません」
人が住まなくなって、屋敷はきっと朽ちていくでしょう。
でも見上げる柱や屋根や、踏んでみる床板は、そんな自分の運命などわずかも気にならない様子です。
「そう」
わたくしは小さく答えました。
みんな、母様も、わたくしを残して行ってしまった。悲しい気持ちはわずかでした。ああ、やっぱり、という気持ちの方が、ずっとまさっていたのです。
「媛様」
翔がようやく言いました。
「逃げましょう」
わたくしは顔を上げました。
「どこへ?」
翔は屋敷の地所を示す塀の先を指さしました。
「森へ」
わたくしはそちらを見ました。森は濃い緑でわだかまっています。
怖いと思いました。でもその時、夏告鳥が鋭く鳴いたので、
「ええ」
わたくしはそっとうなずきました。
そして一度自分の、いえ、本当は姉様のお部屋に戻りましたが、何か携えていきたいものなど一つもないことを知りました。わたくしは、枯れた橘の枝だけを手にしたのでした。
森の中を、翔に手を引かれて歩きました。
その道は、いつも姉様と歩いた道よりも、ずっと遠くまで続いている道でした。でも翔はよく知っている道のようでした。
どんどん、歩きました。森はどこまでも続きました。
夏告鳥がさんざん森に夏を告げ回ったおかげで、森は夏の巡りにようやく気が付きはじめた風情でした。
「媛様」
突然翔が足を止めたのは、戻る道の記憶もあやふやになるほど、ずいぶん森をはいったところでした。
「どうしたの?」
翔は、楠の巨木の脇を指さしました。短い下草が茂る地面に、大振りな石が落ちていました。
「越智媛様です」
わたくしは目を見張りました。
「え?」
「越智媛様は、ここに眠っていらっしゃいます」
「眠って?」
翔はこくりとうなずきました。
わたくしはただ言葉もなく翔を見つめました。翔のその暗いうつむいた顔を。
よもや、という思いと、まさか、という思いが、同時にわたくしの胸によぎりました。
「翔?」
冷たい沈黙が落ちました。
「あの晩、わたしの元に越智媛様がやってこられて」
翔の声は静かでした。
あの晩、越智媛様は一人でやってこられたのでした。そしておっしゃいました。
翔、わたくしを森の向こうへ連れていってくれない?
翔が越智媛様を見やると、媛様はまるで家令のように質素なお召し物でいらっしゃるのです。
いったいどうなさったのでしょう。不思議に思いましたが、翔はその時、なにもたずねませんでした。
はい。ですがしばらくお待ち下さい。松明の用意をしましょう。
いいえ。月明かりがあるから十分よ。
二人は並んで森を歩きました。もうずいぶんお屋敷から離れてから、翔は越智媛様にたずねました。
いったい、森の向こうに行かれてどうなさるのですか?
越智媛様はあでやかに微笑まれました。
逃げるのです。
逃げる?
ええ。森の向こうに、わたくしの恋人が待っているの。父が自分の都合で勝手に決めた婚礼など蹴って、その人とどこか遠いところへ逃げるのです。
越智媛様はしあわせの予感であふれていました。
振り上げた石の重さは感じられなかったのです。
石を打ち下ろすことは造作もないことでした。
翔が、姉様のことを好きなのだと気が付いたのは、いつのことだったでしょう。その時わたくしは、ただ、ああ、やはり翔も姉様がいいのだと、ただ、少し、悲しいような心持ちがしただけでした。
そのことに、姉様も気が付いていらっしゃるようでしたが、姉様は、翔に微笑みを向けたかと思うとつんと身をかわし、やさしげにお言葉をかけられたかと思うと翔の手の中のものを取り上げたりなさいました。翔の気持ちがそのたびに舞い上がり落ち込む様子は、わたくしには見ていてとても心痛むものでした。姉様は楽しそうでした。
そしてわたくしは、恐ろしいことに、そんな姉様が嫌いでした。わたくしには決して手に入らないものを軽々ともてあそぶ姉様を、わたくしは、確かに、憎んでいました。
かたわらの楠が、風に鳴りました。顔を上げると、梢の向こうの空が、すでに茜色に染まっていました。
あの夜、翔はここに一人で穴を掘ったのです。そして姉様をそこに横たえ、両手ですくった土を、かけてさしあげたのです。
何度も。
あの夜は確かに満月でしたから、月明かりの姉様はたいそうお美しかったでしょう。
すべてが終わると、翔は姉様のいらっしゃる場所を忘れないように、石を置いたのです。
石だけが、姉様がいらっしゃることを示しているのです。それだけです。草も樹も、虫も鳥も、聖域を犯していることを知りません。
わたくしは持ってきた枯れた橘の一枝を、そっと石の前に置きました。そしてじっと土の下に横たわった姉様のことを思いました。
土は冷たく、湿っていて、日の光も届かず、ただ土中の虫が呼び集まって姉様の体を蝕んでいったことでしょう。
そんな様子は、あの輝くような姉様にはいかにもふさわしくありません。わたくしは涙をこぼしました。
「茅濡王が亡くなられたそうです」
翔が言いました。
茅濡王とは、いったいどなただったでしょう。
「戦に負けて、首切られたそうです。お父上様もご一緒に戦に出られて、やはり、首切られたそうです」
「そう」
父様が亡くなった。
わたくしは父様がもういらっしゃらないことに、何とも心がさわぎませんでした。
「媛様の弟君に家を継がせるには、敵に、越智媛様をお渡しするのが条件だったそうです」
「越智媛を」
「それで、媛様だけを残して、屋敷から人がいなくなったのです」
「そう」
わたしたちの沈黙の間を、風が吹きすぎました。なんだか、静かで冷たい笑みがこぼれました。
「越智媛という人は、もうずっと前からいないのに」
わたくしはしばらく、人の頭ほどの石をじっと見ておりました。石はわずかに苔もむしています。名も知らぬ草が、姉様の墓標を、やがては覆い隠すでしょう。
「翔。行きましょう」
わたくしは立ち上がりました。翔はわずかに驚いたような表情で、わたくしを見ています。
「行きましょう。森の向こうへ。わたくしのこの衣裳や飾りを売ればいいのよ。それで生きていくのに必要なものを手に入れるの」
わたくしは翔と手をたずさえて、森の道を歩いていきました。
その後、母様や弟や一族の者たちがどうなったのか、わたくしは知りません。
【了】
お読みいただき、ありがとうございます。
この物語は、1999年に書き、個人サイトにアップしていたものを加筆修正し、PCを処分するにあたり個人的な保存も兼ねて、こちらに登録したものです。
時代設定は、日本古代、古墳時代後期。
越智媛は、天智天皇の妻で持統天皇の母の名前(正確には遠智娘)で、この物語の元ネタ。
翔は、遣唐使で唐に渡った羽栗氏の息子の名前を拝借。
タイトルは弓削皇子と額田王の贈答歌。




