第六話 ひさしぶりに町の外に出たから少しぼーっとしちゃってさ
06
冬は終わったとはいえ、この時期の水はまだ冷たい。
刺すような水に足を浸していれば、今の時期でも唇の色が真っ青になるくらいには寒い。
しかし、ライカは額に汗をにじませて湿地帯を進んでいる。
その理由は──。
「おい、見ろよあの草の溜まってる場所! 魚の群れが出たり入ったりしてるぞ」
年甲斐もなく(実年齢は知らない)背中で騒いでいるヴェルデーナにあった。
「ちょっと、あんまり暴れないでくださいよ」
「いつもより高い位置から見るとなんだか新鮮な気分になるもんだな! いいなあ、私ももっと背が欲しかった!」
ライカの話など聞く気もないヴェルデーナは大騒ぎだった。ただ、それはライカが汗ばむ理由ではない。
ヴェルデーナをおぶさるために、ライカが背負っていた荷物入れはヴェルデーナの背にある。なので、二人の体はこの上なく密着しているのである。
そんな状態でヴェルデーナが落ち着きなく体を動かすものだから、背中に生々しい感触があるのだ。
落ちないよう支えるために足に触ることすら躊躇したというのに、胸の暖かくて、えも言われぬ感触に熱でも出てきたのかと思うほどに体が熱くなっているのだ。
「おんぶなんて始めてされたかも。すっごい楽しいぞ!」
「そりゃよかったですね……」
対してヴェルデーナはそんなライカの葛藤など露知らず、やりたい放題である。
ライカにできることは、足元に最大限注意を払いつつ、ヴェルデーナの感触を生涯忘れないように記憶に刻み込むことだけであった。
◇◇◇
水没している地域であっても全てがそうであるわけではなく、地面が高くなっている場所であれば水から逃れているところもあった。
そういった場所を見つける度、ヴェルデーナは休憩をとらせてくれた。流石に冷たい水に足を浸して歩き通しというのは、ライカも辛いと思っていたのでこれは助かった。
そんなことを繰り返しながら湿地帯を進み続けると、ようやく水没地帯を抜けて一面に草原体が広がっている場所に出た。
話によるとこの一帯は他よりも盛りあがった地形をしており、ちょっとした丘のようになっているそうだ。
「ようやく着いたな」
「ええ」
全く大変で幸せな時間でした。
「うーん……採取を始める前に昼食にしようか。労働は腹が膨れてからってな」
「そうしましょうか」
荷物入れに仕舞っておいた包みを広げる。中身はライ麦パンに燻製のハムを挟んだ簡単なものだが、齧ってみるとハムの塩気と、ライ麦パンの食感が絶妙にマッチしていて美味しい。
「そうだ。これも持ってきたんだ」
ヴェルデーナは荷物入れのなかから水筒と木製の小さなカップを二つ取り出す。
「中身は私の好きなハーブティーだ」
そういえば家を出る前、居間からとてもいい香りがしていたのを思い出した。なんの匂いだろうと不思議に思っていたが、ハーブティーを用意してくれていたらしい。
「どうだ?」
ライカはそっとカップに口をつける。流石に暖かくはないが、それでも清涼感のある香りは十分堪能できるし、ほのかに甘味を感じて食事に合うお茶だった。
「とっても美味しいです」
「レモングラスで淹れたんだ。私のお気に入りのうちの一つさ」
パンにハムを挟んだだけの食事をすませてハーブティーを堪能すると、早速採取にあたる。
探す薬草はカドリアという白い四つ花弁をつける花と、コウライシダと呼ばれるシダ植物らしい。
始めはヴェルデーナに花の見分けを教えて貰い、隣り合って探した。
見分けがつくようになると、段々と採取するのが楽しくなり始めて、気がついたときには一人で離れた場所まできてしまっていた。
「しまったな。ちょっと夢中になりすぎた」
薬草の採取など、小さい頃に近所のおばさんに連れられて以来だった。子供の頃は薬草よりも野原を駆け回る方が楽しく、腰を曲げて花を摘むなど苦痛以外のなにものでもなかったが、こうして大人になってからやってみると案外熱中してしまうものだ。
黙々と作業をこなすのが好きな性分なのだ。ライカは帰りしなにもう一度ざっと目を通しながらヴェルデーナの元に戻った。
「すみません。夢中になってちょっと離れた場所まで──」
一陣の風が吹いたせいだろう。ヴェルデーナはライカの声には気がつかないようで、北の方角を真っすぐ無表情で見つめていた。
風に攫われる白銀の髪。
寸分の狂いも許さない陶芸家が魂を込めて作り出した芸術品のような横顔。
白を基調とした服を着ているので、これで背中に翼でも生えていれば、大地に降り立った天使だと見間違えてしまうのではないだろうか。
隈がなければ絶世の美女と評しても誰も文句を言わないだろう。
ただ、隈があるからこそ完成されていない人間味を感じることができるとも言えた。
「ヴェルデーナさん!」
神秘的な雰囲気を纏った彼女をもう少し眺めていたいという願望を押し殺し、今度は風に負けないくらいに声を張り上げた。
「ごめんなさい。少し夢中になりすぎて離れちゃいました。でも見てくださいよ。こんなに採れたんですよ」
ライカはヴェルデーナの元まで行くと、籠一杯になった薬草を見せつけた。
ヴェルデーナは無表情のままライカを見つめ、それからゆっくりと籠に視線を落とす。
「……ヴェルデーナさん?」
「う、ん。ああ、なんだやるじゃないか」
ヴェルデーナは油の切れた歯車のようにぎこちなく頬を吊り上げながら笑った。
「どうかしたんですか?」
「うん。いや、なんでもないよ」
いくら女性経験がないライカといえど、今の言葉が真っ赤な嘘だというくらいはわかる。
「久しぶりに町の外に出たからぼーっとしちゃってさ」
そう言うヴェルデーナの頬には薄く涙の流れた後があった。
「おおっ。すごい採ってきたなー。こんだけあれば今年分はなんとかなりそう」
どうして泣いているんですか。
そう聞きたい衝動に駆られる。ただ、それが悪手なのは考えるまでもない。それに──。
「なあ、どうせきたんだから他のも採っていきたいんだけどいいか?」
そう聞いて、帰ってきた言葉を受け止める覚悟はライカにはない。
◇◇◇
「うーん……」
「よい……しょっと」
背負ったヴェルデーナの位置を直し、ライカはフォルゲンスタリアへ続く道を歩いている。
結局あの後もあれやこれやと薬草を採ることになって、当初予定していたよりも長くゴルデナ湿地で採取をしていた。
帰りも行きと同じくヴェルデーナを背負うことになったが、潮が引いたおかげで水に浸かることなく歩くことができた。
なら何故背負っているのかというと、所望されたからだ。荷物をまとめて帰路についたのは、空に薄くかかった雲が茜色に染まり始めたばかりの時間で、少し肌寒さを感じていた。だから、もしかしたら湯たんぽ代わりにライカを使いたかっただけかもしれない。
雇用主の命には逆らえないライカは、めでたく帰りも背負う名誉を得たというわけだ。
帰り道、ヴェルデーナはたまに思い出したように一言二言口を開くだけで、随分と大人しいものだった。
はしゃいで疲れたのかもしれない。そのうちなにも喋らなくなったと思ったら、寝息が聞こえてきた。
ゴルデナ湿地を抜けても起きる気配がなかったので、仕方なく町の近くまでそのまま背負って帰ることにしたのだ。
時折ぐずるように背中に顔を擦りつけてくるのがくすぐったいが、起こしてしまうとかわいそうなので我慢しなければいけないのが辛い。
空はもうほとんど夜を迎えつつある。視線の先にあるフォルゲンスタリアの町の明かりが、闇に覆われた大地に浮かぶ島のように見えてとても綺麗だ。
今日は本当に濃い一日だった。ヴェルデーナの体温や、匂いや、ある部分の柔らかさや……いや、待って欲しい。決してやましい気持ちはない。
誰に聞かせるでもなく焦りながら心のなかで言い訳をして、ふと昼間のことを思い出した。
泣いていた。
理由が気にならないわけではない。あれから何度も聞いてしまおうかと思ったくらいには、ずっと心に引っかかっている。
でも、とライカは踏みとどまる。自分はただの客で臨時の従業員だ。こうして一緒にいるのは代金を支払う代わりに手伝いをさせてもらっているからにすぎない。
踏み込んでいい関係ではない。適切な距離を保って接するべきだ。
それがぎりぎりで踏みとどまっているライカの言い分だった。
間違ってはいないと思う。しかし、心のどこかにしこりがある。
そんなことを延々と考えて悶々としていると、ぐう、と後ろから音が聞こえた。
全く寝ていても騒がしい人だ。
今はあれこれと考えるのはやめよう。俺にはやるべきことがあり、他に思考を割いている余裕はない。
ライカは再びずり落ちてきたヴェルデーナを背負い直しつつ、そんなことを思うのだった。
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