第三十八話 エピローグ 幸せな夢を
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「こんにちは」
とある日の昼下がり。ヴェルデーナ宅を訪ねる人の声があった。
「はいは──ああ、ウォーヴィスさんじゃないんですか。こんにちは」
ライカが玄関の扉を開けると、相変わらずの好々爺な笑みを浮かべたウォーヴィスが立っていた。
「急にきてしまってすまんね。ちょっとだけ手が空いたんで約束していたことを、と思って」
「約束、ですか?」
ライカは首を傾げて入っている予定に思考を割く。
うん。そもそも予定なんて入っていなかった。となると、ウォーヴィスの約束というのはなんだろう。
そんなライカの心中を察してか。
「ほら、これだよ」
ウォーヴィスはそういって手に持っていた籠を掲げた。
「高級な茶葉を持って行くと約束しただろう?」
◇◇◇
「わあ。すっごくいい香りがしますね」
「そうだろうよ。これはリンダロン産の最高級品だからね」
ティーポットにお湯を差した瞬間から立ち昇ったローズヒップの芳醇な香りにライカが感嘆の声を上げると、ウォーヴィスは満足そうに何度も頷いた。
「でもすみません、ウォーヴィスさんにお茶を淹れさせてしまって」
「いいんだよ。これは儂なりのお礼だからさ。それにこの茶葉を一番美味しく飲む淹れ方は儂しか知らんしね」
「最高級品なんてよくそんなもん買えたな」
椅子の上で足を組んだヴェルデーナが目を丸くさせて言う。どうやらヴェルデーナも始めての経験らしく、漂ってくる香りに目を細めてうっとりとしていた。
「本当はエラのためにと買ったものなんだけどね、もうその必要はなくなったからさ」
そう答えたウォーヴィスの横顔はどこか清々しく、また、晴ればれともしていた。
「そっか。まあ、じいさんにしてはいい趣味してんじゃない。ローズヒップなんて似合わないけどさ」
そんな憎まれ口を叩くのは嬉しいと思っている気持ちを隠したいからか。
素直に嬉しいと言えばいいのに、とライカは嘆息する。すると。
「ローズヒップには、美肌や老化、また病に抵抗する力を強くする効果があるとされている。酒の飲みすぎでボロボロになっている人にはお勧めだよ」
「べ、別に肌綺麗だし。ろ、老化だって若い私には無縁だね!」
「別に女史のことを差して言ったわけじゃないさ。ただの老人の独り言だよ」
片目を吊り上げてしたり顔のウォーヴィスに、ヴェルデーナは「なっ」とか「くっ」とか呻いていたが。結局白旗を上げたのか机に突っ伏してしまった。
ほらみろ。意地の悪いこと言うから反撃されるんだ。
「でも、本当にいい香りですね。俺、紅茶っていうのはヴェルデーナさんに教えてもらうまでほとんど知らなかったんです」
ライカは目を瞑って香りを胸いっぱいに吸い込む。豊かな香りのなかに混じる酸味が心地よく、さわやかな残り香は気持ちを穏やかにさせてくれる。
「正直高い安いの差ってわかってなかったんですけど、最高級品ともなると香りだけでこうまで違うんですね」
ヴェルデーナが好むレモングラスもお湯を差した瞬間から、レモンの清涼感のある香りはするし、飲めばその特徴をより主張してくる。
しかし、今ウォーヴィスが淹れてくれているローズヒップは、香り立つ瞬間からして違うように感じた。
種類の違いはもちろんあるだろうが、それにしたってこうまでして差があると、さすが値段が張るだけのことはるのだなと少し緊張してきてしまうほどだ。
「ライカ君がそう言ってくれると儂も持ってきた甲斐があったよ」
ハーブに詳しくないライカの素朴な感想も、ウォーヴィスは受け止めて喜んでくれた。
「ローズヒップはね、もともと妻が好きだったんだ」
「奥さんが、ですか……?」
「うん。自分の名前が入っているから好きなんだってさ。単純な理由でおかしいでしょうってローズは笑っていたけど、儂はその笑みに惚れてしまったんだよ。全く男っていうのは女の笑みには本当に弱いもんさ。実を言うとね。元々儂はローズヒップが嫌いだったんだ。でも、彼女が好きだったから好きになった」
ウォーヴィスは遠い記憶を懐かしむように目を閉じて、幸せそうに笑った。
「惚れた弱みとは違うかもしれないが、それでも好きな女のために苦手を克服するくらいの気概はあった歳の頃だったからね」
「本当にそれが理由?」
いつの間にか体制を正したヴェルデーナが悪戯な笑みを浮かべながら問う。
「……ははは。女史にはお見通しかね」
ウォーヴィスは三人分のカップに紅茶を注ぎ、それぞれの前に差し出してくれた。
「ローズはね、ある茶葉農家の娘だったんだ。その当時の儂は行商の身でね。茶葉農家として有名だったローズの実家となんとかして繋がりを持てないかと考えを巡らせていたんだ。そんなときに町でたまたま出会ったのがまさかのローズだったんだ。長い稲穂色の髪とブラウンの瞳がとっても綺麗な人でね、目的の農家の娘だと知ってこれはいい巡り合わせを引いたぞと下心満載で近づいたんだけど、気がついたらそんなものはどこかに落としてきてしまっていた。彼女の甘い声、仕草、儂を見つめる春の日差しのような瞳。どれも乾いてカビのはえたパンのような儂の心を癒すには強すぎた。愛してしまっていることに気がついたときには、商売のことよりも彼女と一緒になるにはどうすればいいのか、と考えを巡らせる毎日だったよ」
「どうやって夫婦になったんだ?」
「言えんよ。ただ、ローズは全てを納得した上で、儂を選び付いてきてくれた。嬉しかったなぁ。儂を受け入れてくれたときの胸の高鳴りと幸福感は今でも鮮明に思い出せる。こうして話している今も少し心臓が早くなってしまうくらいにはね」
ウォーヴィスはカップを手に取り鼻に寄せて香りを楽しむ。そして、少しだけ口に含んでから時間をかけて嚥下した。
「うん。やはりハーブティーで一番はこれだね」
そうして噛みしめるように言う。
ライカとヴェルデーナは互いに目を合わせてからカップに視線を落とし、それから口をつけた。
「ほう」
「うわぁ」
「どうかな?」
「今まで頂いた紅茶のなかで一番美味しいです」
「こんなにいいものを知ったら他には戻れないかもしれないな」
「はっはっは。そうだろう。お求めなら儂の店で頼むよ?」
仄かに感じる上品な甘みと心地よい酸味は、鼻から抜けるとよりその主張を強くする。まるでフルーツの果汁を飲んでいるのではと思ってしまうほどに鮮やかで、味わい深く、飲み込んでしまうのが勿体ないくらいだ。しかし、喉を通ってしまえばいつまでも後味が残るわけではなく、すっきりとした印象を残すためとても飲みやすい。
「儂もこんなにいいものは始めてだけどね。女史じゃないけど、こりゃしばらくは他の茶葉は飲めそうにない」
「違いないね」
しばらくは最高のローズヒップに舌鼓を打つ時間が続いた。
一口、また一口と口に含むたびに、若い頃のウォーヴィスとローズの人生が瞼の裏で流れてくるような気がしてライカとヴェルデーナは静かにその時間を堪能した。とても甘く、切なく、そして胸が暖まる時間だった。
「ありがとう」
静寂を破ったのはウォーヴィスだった。
「儂は……後悔ばかりの人生を送ってきた。大切な人が去り、残されたものを必死に守る人生は過酷できっと心が折れかかっていたんだと思う。だから、真実から目を背けようとしていたんだ」
「じいさんもある程度はわかっていたんだろ?」
「ああ。どこまで、と聞かれると答えられないが家族だからね。ただ、やっぱり感じるものはあったよ。でも、受け入れられなかったんだ。見たくなかったんだと思う。だから……そうだね、女史の言っていた表と裏の中間で足踏みをしていたんだ」
「必要なことさ。誰にだってそういうことはあるでしょ」
「そうだね。でもいつまでもそうしてはいられないことはわかっていた。勇気が足りなかったんだよ。怖かった。でも、漁港でエラが恐怖を乗り越えて一歩踏み出した姿を見てこう思ったんだ。ああ、あんな小さなエラだって前を向いて歩こうとしているのに、どうして儂が立ち止まっていられるのだろうかってね」
グラント一家を襲った苦悩はとても一言で片付けられるようなものではない。幾重にも折り重なった様々な出来事が絡み合い、複雑な状態を生み出していた。
その絡んだ糸を一番始めに断ち切ったのはエラだった。
「ありがとうよ。儂はもう少しで三度目の過ちを犯してしまうところだった」
「私たちは私たちの都合で動いていただけだよ。礼を言われるようなことじゃない」
「それでもさ。二人がいなければきっと今も儂たちは互いを見ずに、すれ違っていたままだろう。それは悲劇さ。そうならなかったのは儂たちを気にかけて、救ってくれた二人がいたからこそだ」
ウォーヴィスは視線を正して深く頭を下げた。
「改めて言わせてほしい。救ってくれてありがとう」
「……そう言ってくれるなら受け取っておくよ。と言っても、今回活躍したのはライカだけど」
「え? 俺はなにも……」
「いいや、ライカ君きてくれてからエラはとても嬉しそうにしていた。今じゃ、毎日ライカくんの話をしているくらい大きな存在になっているんだ。そんなに謙遜しなくてもいいんだよ」
「そうだぞ。私がしていたことは単に引き延ばしだけだ。エラと言葉を交わして信頼を築いたからこそ、エラは最後に勇気をもって一歩を踏み出せたんだ。もっと誇っていい」
二人にそんなことを言われてライカは視線を落とす。
そうだろうか。本当に俺は役に立てたのだろうか。
「ライカ君がいてくれてこその結果だった。女史は随分といい弟子をとったもんだ」
「だろー! ほしいって言ってもやんないぞ。ライカはあたしんだ」
「ライカ君、もしよければ女史よりも好条件を提示するから儂の弟子にならんかね」
「だからやんねーつってんだろうが! 誘惑すんな!」
「そう言えばライカ君は十八の歳だったね。儂の取引先に娘の婿を探している人がいてね。誰かいい人がいないかと相談されているんだけど、ライカ君なら儂も自信を持って推薦できる。どうかな?」
「は、はあ!? 急になに言い出してんだくそじじい!」
突如として始まったライカ争奪戦に思わず苦笑する。
いや、これでよかったんだ。無力感は拭えずとも、こうしてウォーヴィスの憂いのない顔を見ることができただけでもきっと意味がある。
「まあ、冗談はこの辺にしてだね。何度も言うようだけど本当に感謝しているんだ。儂たちの気持ちを受け取ってくれると嬉しい」
そう言うとウォーヴィスは席を立つ素振りを見せた。
「え、もうお帰りになるんですか? まだきたばかりなのに」
「うん。いつまでもいると本当にライカ君を弟子にしたくなってしまうからね」
「やんないやんないやんないやんないやんないやんないやんないやんないやんない──」
「それに……家でエラが待っているし、ジェシカ一人に店番を頼んできてしまったからね」
「ジェシカさんが店番を?」
「ああ。造船所の仕事は辞めたんだ。その方がいいって三人で話して決めた。今は儂の店で働いているんだよ。ジェシカ曰く、今まで寂しい思いをさせてきたお詫びに可能な限り一緒にいたいとさ」
それはきっとエラだけに向けられた言葉ではない。
「店は儂が動けなくなったら閉めるつもりだったけど、そう言われちゃあね。全くこんなとして新しい弟子ができるとは思ってもみなかったよ」
ため息交じりにそんなことを言うも、ウォーヴィスの表情は喜びを隠しきれていない。
「そうですか。それはよかったです」
「ああ、よかったよ。本当に」
そう笑みを浮かべるウォーヴィスを見て、もう大切な人を失う未来はこないだろうと、ライカは思った。
◇◇◇
開いた日記に想いを綴り終え、椅子の背面に体重を預けて天井を見上げた。
「俺はやっぱり半端者だ」
しんと静まりかえった室内で誰に聞かせるでもなくぽつりと零した本音。
「でも、皆笑ってくれた」
ライカがウォーヴィスたちのためにできたことは本当に些細なことだった。しかし、砂粒程度の小さなライカという存在が彼らの背中を押すきっかけになれたことは間違いない。
今までの人生ではあり得なかったことだ。ただ消費され、使役され、打ちのめされ、捨てられる人生だったライカの胸には経験したことのない充足感が満ちている。
反省するべきところはあった。考えさせられることはあった。ただ、今はこの胸にある暖かさを大切に抱きしめていたい。
「もう寝よっと」
蝋燭を消してベッドに潜り込む。また明日も変わらない日常がライカを待っている。それがどうしよもなく待ち遠しい。
ヴェルデーナがいて、町の皆がいて、新たな目標を目指す日々がどうしようもなく愛おしい。
「おやすみなさい」
ライカの希望に満ちた終わりの言葉が闇に溶けて消えていく。
閉じた瞼に映る景色に辛い過去はない。
あるのは大好きな人たちの笑顔と、胸に宿った暖かさが見せる幸せな夢。
おやすみなさい、いい夢を。
また明日も幸せな時間がやってきますように。
──第二章 了──
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