第三十七話 愛しているわ
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「ママ」
勇気をもらい背中を押されたエラの声は力強く。
「……エラ」
対して気持ちの定まらないジェシカは腰が引けている。ただ、それでも背を向けることはなかった。
エラはもう一歩二歩踏み出せば手が届きそうな距離まで近づくと足を止めた。そして、まだなにから話せばいいのか定まっていないのか逡巡したのちに、こう切り出した。
「エラね、パパがもう帰ってこないってずっと前から知ってたよ」
ジェシカの目が大きく見開かれる。
「あの日、パパがお船でお出掛けしちゃった日ね。エラ見てたの。お船からおっきな火が出てて、ドンドンって怖い音が聞こえてきて、ママとじいじ、ずっとパパの名前呼んで泣いてた」
それは幼心に焼き付いた生涯癒えぬ傷の物語。
「お魚取りの人たちが急いでパパたちを助けに行ってくれたでしょ。でも、そのときにはきっともうパパは帰ってこないんだってわかってた。だって、ママ言ってたもん。パパ死んじゃったって」
「そんなこと……言ってない」
信じられないというように、ジェシカは力なく首を横に降る。
「その後にね、エラのことじっと見てこう言ったの。エラがいるから貴方と一緒にいられないって」
そして、続いた言葉の意味にその場の全員が息を呑む。
「ママは……パパと一緒にいたかったんだよね。でもね、エラもママと一緒にいたかったんだよ」
エラは実年齢以上に聡い子供だ。バゲンズが亡くなったときにジェシカから言われた言葉と、昨晩ヴェルデーナの話を盗み聞いて知った事実を合わせてきっとこう思ったのではないだろうか。
ママはエラのことが嫌いだから、じいじのところに預けるんだ。ママがパパと一緒にいるためにはエラはいらない子なんだと。
今になって考えれば、弟を欲しがった本当の意味は別にあったようにも感じる。
例えば、病気のエラはいらなくても健康な弟だったら一緒にいてもいいと思うかもしれない。もしそうなったらエラが弟を大切にしていつも一緒に入ればもしかしたらママも、もう一度エラを見てくれるようになるかもしれない、とか。
これは単なる根拠のない想像だ。しかし、そんなことを思っていたとしても不思議はない。
ただ、それが真実であろうがなかろうが、一つだけ確実なことがある。
全てはバゲンズとの約束のため。全てはジェシカのため。
まだ幼い子供が一人で親のために奮闘した、そもそもの原動力は。
「エラ、頑張ったんだよ。どうすればママが元気になれるか一杯考えて、考えて。どうすれば、ママがエラのこと見てくれるのか考えて。……マ、ママは……エラが、嫌い、なの? 好きじゃないの……?」
きっと親に愛してほしいという気持ちだけだったのではないだろうか。
「ママ、は……エラがいる、から、辛いの……?」
こんなこと勇気をわけてもらえなければずっと言えなかっただろう。
「嫌いだから、昨日は返ってこなかったの……?」
「エラちゃん……」
ライカはようやく思い至る。
なんとも思わないはずがないじゃないか。
普段は夜になれば迎えにきてくれるはずのジェシカも、いつだって一緒にいてくれたはずのウォーヴィスもいなくなり、一人で留守番をさせられる。ここに違和感を覚えないはずがない。
「なんで、なんで、ママきてくれなかったの……!」
昨晩エラを迎えに行ったときに、窓から顔を覗かせて通りを見ていたのは、ジェシカがくるのをずっと待っていたのではないだろうか。
「エラ、違うの……エラ」
「エラね、なにもできない子だけど……でも、でも、わがままかもしれないけど、ママと、一緒にいたいよ」
纏った殻を脱ぎ捨てて思いの丈をぶつけて残ったのは、まだ五歳になったばかりの女の子。小さな手をぐっと握りしめて目から涙が零れても、拭わずにただ愛を求める小さな小さな子供。
「エラ……そんなことを思っていたの……」
ジェシカの瞳から大粒の涙がとめどなく落ちていく。
あまりにも眩しくて切ない。エラの心を揺さぶる純真で真っすぐな想いを直視できなくなったジェシカは手で顔を覆ってしまう。
「ママだってエラとずっと一緒にいたいよ……。でも、ママが馬鹿だったから、エラに寂しい思いを。ママには、そんな資格が……」
バゲンズを失った悲しみと、エラから父親を奪ってしまう結果になったことを悔やみ、心を閉ざして病んでしまっていたジェシカは、きっと母親としての資格がないと自らをずっと責め続けていたはずだ。
「ママは、ママは駄目なママだから……。エラを悲しませるママだから」
自分を責める言葉は心に深い傷を作り、形を変えてしまう。一つの愛を失い、一つの愛を否定して変形してしまったジェシカは、母という形に自分を当てはめることができずに苦しんだ。
全てを投げ出されば心を歪にしなくてすんだかもしれない。時間が経てば元には戻らずとも、元の形に近いものは保てたかもしれない。しかし、ジェシカはそんな無責任なことをできる性分ではなかった。
だからここまで苦しんでいる。変わってしまった自分が、エラを悲しませている自分が、もうあの頃の母親には戻れない自分が再びエラを抱きしめる資格があるのかと。
「ジェシカ。エラを見てあげなさい」
それまで沈黙を貫いていたウォーヴィスがジェシカの方にそっと手を置く。
「儂は今まで大切な人をたくさん失くしてきた。そのなかには妻もお前の母親もいた。儂は……怖かったんだ。今までの愛した人たちが変わっていく様を受け入れることができず、自分自身も変わってしまってどうすればいいのかわからなかった。向き合おうとしてこなかった。その結果が今の儂だ。お前には儂のようになってほしくない」
「お父さん……」
「ジェシカ、人っていうのはね、帰る場所が必要なんだよ。大人になって不安を抱えながらも世界に飛び出して生きていこうと思えるのは帰る場所があると思えるからなんだ。儂の帰る場所は、妻と時間をかけて作り子供たちを見守ってきたあの家だ。ジェシカはどうだ? 帰る場所はあるかな」
「あたしは……バゲンズと暮らした家がある、よ」
「そうだね。では、エラはどうだろうか。エラの場所もジェシカとバゲンズが作った家だね。でも、その帰る場所にいてほしいのは誰だと思う?」
ジェシカは二度瞬きをして、それから擦れる声で「あたし?」と言った。
「そうさ。エラの帰る場所はジェシカとバゲンズが作ってくれた家であり、愛しているジェシカの元なんだ」
ジェシカの流れ続けていた涙が止まった。大きく見開かれた瞳はウォーヴィスを映し、それからゆっくりとエラに向けられる。
「ジェシカの帰る家はバゲンズとの思い出がたくさんあるだろう。でも、それだけでいいのかい?」
「違う……あの子が、エラがいてほしい」
「だったら、エラがしてくれたようにジェシカも気持ちをぶつけなさい。そして、愛を伝えてあげなさい」
「でも、怖いよ」
「大丈夫。今度は儂もおる。家族が一緒にいるのならばきっと乗り越えられるさ。儂が今までジェシカを裏切ったことがあるかい?」
「……ない」
ジェシカは小さく首を横に降る。その様子を見てウォーヴィスはジェシカの背中をそっと押した。一歩踏み出したジェシカはその場に跪いてエラと視線を合わせる。
「エラ、ママね」
言葉に詰まってももう視線を逸らすことはない。口が上手く動かなくても、ジェシカの瞳はもう見るべき人をしっかりと捉えていた。
「……抱きしめても、いいかな?」
二人の間にできた亀裂は塞ぐことは不可能で、親子の絆は断たれてしまったように見える。しかし、実はそんなことはないのだ。
「して、くれるの……?」
「うん。ママ、エラちゃんのことぎゅってしたい」
「……ママ!」
ジェシカの胸に飛び込んだエラは始めは遠慮がちに、次第にしがみつくように背中に手を回して。
「ママ、ママ!」
今までの寂しさをぶつけるように大きな声を上げて泣いた。
「ああ……ああ……こんなに、大きくなってたのね……」
エラを抱きすくめ、何度も頬ずりをする。
二人に必要だったのは、たったこれだけのことだった。想いをぶつけて、抱きしめ合うことだけで、色褪せた親子の絆は再び輝きを取り戻し新たな形へと姿を変えていく。
本当にそれだけのこと。だが、それがどうしても難しかったのだ。
「エラ、愛してるわ」
陽光が二人を優しく包み込む。抱きしめ合いながら涙を流す二人の頬を潮の香りを纏った春風がそっと撫でていく。
ライカは親子の絆をとり戻した二人を見つめながら、二人の想いが海の果てにいるバゲンズに届くといいと切に願った。
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