第三十六話 きっとそれしかない
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息も絶え絶えになりながらようやくたどり着いた先で見たのは、岬状になった漁港の先端で膝を抱えて座るエラの後ろ姿だった。
薄着で寒いだろうに、エラは震えもせずただ海を眺めている。
「エラちゃん」
ライカは息を整え、なるべく普段通りになるよう意識しながら声をかけた。それでも小さな背中はびくりと大きく跳ねた。
「こんなところでなにしているの? 寒くない?」
「急にいなくなったから心配したんだぞ」
少しでも下手に刺激すると海に飛び込んでしまうかもしれない。互いに目配せをして頷くと、ライカとヴェルデーナはできるだけゆっくりエラとの距離を詰めると、二人で挟み込むように隣に腰を下ろした。
「ごめんなさい」
寒さで血色を失いつつある唇は人の温かみはなく、まるで人形のような無機質感のあるものだった。
「ちょっとびっくりしちゃったよ。ここでなにしてるの」
「パパとね、お話したくて」
ゆるゆるとした潮風が頬を撫でる。エラはなにかを守るように更に強く膝を抱いて呟く。
「パパがね、言ってたんだ。もしパパが帰ってくるのが遅くなったら、その時はママとおじいちゃんと仲良く暮らすんだよって。ママはああ見えて寂しがり屋さんだから、エラが傍にいてあげて、もしママが困っていたり悲しんでいたら助けてあげるんだよって」
それはまるで遺言のようだった。実際、そういう意味もあったのかもしれない。
「そう、なんだ」
「うん。パパが遠くにお出かけする前の日に約束したの」
感情の読めない口調でエラは淡々と続ける。
「最近のママね、お仕事から帰ってくるとね、パパのお洋服をぎゅっとしてパパのベッドでずっと泣いてるの。きっと寂しいんだよね。だからね、エラもね、パパと約束したから頑張ったんだよ。ママが泣いてたらぎゅってしたり、パパが好きだったお歌を歌ってみたりもしたの。でも、エラじゃ駄目みたいなんだ。だってママが泣いちゃうのはパパがいないからじゃなくて、エラが側にいるのが嫌だからなんでしょ?」
やはり聞かれていたか。ヴェルデーナは痛みを堪えるように顔をしかめた。
「昨日、ライカと話しをしているのを聞いたからそう思うの?」
「うん」
「そっか」
エラからの淡泊な返しにヘーゼルの瞳が大きく揺れる。
「ごめんね。でも、あれはエラの思っているような意味じゃないんだよ。あれは──」
ヴェルデーナは咄嗟に釈明を使用として、はたと言葉に詰まる。真意を説明するというのは、つまり全てを詳らかにするということだ。
バゲンズは死にジェシカはその死を受け入れられずに苦しんでいるのだと。そして、父親を奪う結果を作り出してしまったことへの責任を感じてエラと向き合うのを恐れていると。
受け止められるだろうか。重すぎる現実に、果たして五歳のエラは耐えられるだろうか。
「エラね、どうしたらいいかパパに聞こうと思ったの。困ったときパパはいつも助けてくれたから。でも、やっぱり駄目だったみたい。声なんて聞こえないし、寒いだけだし」
ヴェルデーナは唇を噛みしめながら小さく頭を横に降った。
「ほんとはママに聞けたらいいんだけどね。でも怖くてできないんだ」
半端者でも薬師でもエラにしてやれることにそう変わりはない。もし、してあげられることがあるとすれば、それはこれ以上体を冷やさないようにそっと抱きしめてやるくらいだ。
「エラ!」
背後で女性の叫ぶ声がした。ライカが振り向くと、少し離れた場所でウォーヴィスと青い顔をしたジェシカが立っていた。
「ママ……!」
待ち望んでいた声だったからこそ、顔を見ずともわかったのだろう。。
膝を抱えていたエラは、聞こえてきたジェシカの声に欣喜し、跳ねように立ちあがり駆け出そうと一歩踏み出す。しかし、次の一歩が踏み出せなかった。まるで足が地面に縫い付けられてしまったかのようにその場で硬直してしまった。
ライカとヴェルデーナもエラの後に続く。立ち止まったままのエラの背中をそっと押してやるも、地中深くまで根を張った大木のようにぴくりとも動かない。ただ、代わりに忘れていた寒さを思い出したかのようにひどく震えていた。
怖いのだ。大好きな人を前に駆け寄りたい気持ちはあれど、拒絶されるかもしれない恐怖が心と体を強く抑え込んでしまう。
そして、ジェシカもそれは同じだった。エラの名を叫び、抱き留めようと両手を広げてはみたものの、手は震えて表情は強張っていた。
「ママ……探したよ。おとう──じいじに聞いて、エラがいなくなっちゃったって。びっくりした。怖かった」
それでもなにか言わなければと、曖昧な気持ちのまま中身のない空っぽの言葉を投げかける。しかし。
「それでね、あのねエラ……。あの、あの、ね。エラ……」
暗闇を手探りで進むような呼びかけは次第に細くなり、潮風に揉まれて消えていく。
抱き留めようと広げた両手はいつの間にか胸の前で恐怖に怯えるように強く握られていた。
ほんの少しだけ歩み寄り手を伸ばせば届く距離にいながら、二人の間には見えない溝があり、時間の経過と共に深い谷へと変貌しようとしている。今ならまだ間に合うはずが、互いに飛び越えようとする勇気が湧いてこない。
「聞いて、エラ」
ヴェルデーナの声にエラが振り向く。ヴェルデーナは腰を落として視線を合わせるとエラの冷え切った両手を自身の手で包み込み、更に口元で息を当てて温めた。
「ごめんね。昨日は私のせいでエラに変な勘違いをさせちゃったみたい。本当はね、お姉ちゃんもなんて伝えればいいのかわからなくて、もっと時間が経ってからエラにお話ししようと思ってたんだ」
ヘーゼルの瞳に映るエラの表情は暗く、今にも両目から涙が零れてしまいそう。
「エラが私に助けを求めてくれたとき、とても嬉しかった。エラは私の数少ない友達だからね。友達の、エラの頼みならなんだって叶えてあげたいと思った。でもね、こればっかりは私にも無理そうだ」
「え……ヴェルお姉ちゃんでもママは治せないの……?」
「うん、ごめんね。でも、新しい治療法が見つかった」
「そうなの? それってどんなの?」
「それはね」
ヴェルデーナは温めた両手をそっとエラの胸に押し当てる。
「エラの正直な気持ちを伝えることだ。きっとエラとママはお互いのことを大切に想いすぎて遠慮し合ってるんだと思う。本当はママに伝えたいことたくさんあるんでしょう?」
始めは拒絶するように力なく首を横に降った。しかし、ヴェルデーナの優しいヘーゼルの眼差しは覆い隠していた本心を解きほぐした。
「……うん。ママに言いたいことある」
「それはきっとママも同じだと思うな」
「そうなのかな」
「うん。お姉ちゃんはそうだと思う。だからさ、ここで気持ちをぶつけちゃえ。エラがどれだけママのことを想っているのかわからせてやれ」
「……それがママを治す方法になるの?」
「うん。きっとそれしかない」
ヘーゼルの瞳が弧を描く。それは歳の離れた妹を励ますかのような慈しみのある笑みだ。
怯えていたエラの瞳に力が宿る。
「頑張って、みる」
それでも最初の一歩は勇気がいるもの。だからヴェルデーナはエラをジェシカの方へ向かせると背中を支えるようにほんの少しだけ押してやった。
ついさっきは全く動く気配のなかった足が、ぎこちないながらも確かに一歩を踏み出した。
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