第三十三話 ライカには知っておいてほしいことがある
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「こんなもんかな」
机の上に広げた日記に軽く目を通して独り言ちる。
フォルゲンスタリアにきてから始めた日記は、ヴェルデーナの「日記は書く練習にもなるし頭の整理もできる。それに過去を振り返りたいときに当時の感情を鮮明に思い出せる」という言葉に倣って続けている習慣だ。
始めは書ける文字だけで書いていたために、文章としてとても読みにくい部分もあったが、ヴェルデーナに勉強を見てもらうようになってから語彙力が増えてそれらしくなってきたように思う。
読み書きの勉強を始めてまだ半月程度だが、短期間でもしっかりと目に見えて成果が現れているのを実感できると、やはり嬉しいものだ。
始めたころはその日の出来事の羅列ばかりで読み返しても面白みのない文字の並びも、今では感じたことや感情をそのまま文字に移して一つの物語のように書けている。
まだ記憶に新しい数日前のことも日記を読み返してみると結構感情の移り変わりがあることを実感する。
そういった新しい発見があるというのは嬉しいものだ。
「んっ。そろそろ寝ようか」
曲がった腰を反らして伸ばす。体のなかで鈍い音がした。
日記を閉じて簡単に机の上を片付ける。そして、蝋燭の明かりを消そうと燭台に手を伸ばした瞬間、控えめに扉がノックされた。
「はい」
「私だ。今いいか?」
「……ヴェルデーナさん? 待ってください。開けます」
扉越しに聞こえてきたのはヴェルデーナの声だった。
夜が深まってから訪ねてくるなど始めてのことだ。
ライカは逡巡してから答え、静かに扉を開くとそこには純白の肌着姿のヴェルデーナが立っていた。
「もう寝るところ?」
「はい。日記も書き終わったので」
「そっか。あの、ちょっとだけ話したいんだけどいい?」
「ええ、どうぞ」
ライカが半身避けて招く。お邪魔します、と一言断りを入れてから足を踏み入れたヴェルデーナは、始めて物珍しそうにきょろきょろと視線を巡らせていた。
始めて入るわけでもないだろうに、なにか興味を引くようなものがあるのだろうか。
「ヴェルデーナさんはベッドに座ってください」
ライカがベッドに座るよう促すと、ヴェルデーナは一瞬だけ躊躇った後に腰を下ろした。
ライカも先ほどまで座っていた椅子に腰を下ろす。
「こんな時間に珍しいですね。どうかしましたか?」
「ジェシカの話の続きを、と思ってさ」
「ジェシカさんのですか?」
「うん。ほら、エラがいたら話せないこともあるから」
唇だけで作った笑みは中身のない空虚なものだ。
「それにライカには知っておいてほしいことがあるんだ」
そんな切り出し方に嫌な気配を感じて、思わずライカは椅子の上で身じろぎをする。
ヴェルデーナは少しの間目を瞑り、それから重い口を開いた。
「ウォーヴィスがしてくれた話のなかで、ジェシカがバゲンズの影を見ていると言っていたでしょ?」
「ええ」
バゲンズの死を受け入れられなかったジェシカの見た影は、あり得た未来の姿だった。
「実はさ、ジェシカはバゲンズが亡くなったことを理解はしてたんだ」
「え……」
「エラの依頼を受けてジェシカに接触したとき、彼女は心と感情が乖離していたというか、自分をコントロールできない状態だったんだ。不意にやってくる制御の効かない激情に突き動かされてしまうというか。自分でおかしな行動をしていることの自覚はあったらしい。でも、まるで誰かに操られているかのように体が勝手に動いてしまうらしいんだ」
「どうしてそんなことに」
「人の心っていうのは未だに解明できていないから断言することはできないけど……きっと一時的な心の負荷に耐えられなくなったジェシカ自身が作り出したもう一人の自分がウォーヴィスの言っていた奇行を起こしたんだと思う。自己防衛のための一時的な発作とても言えばわかりやすいかな。ただ、他人から見ればそれは異常に見えるだろうね。気が触れたと思う人もいるだろう」
「となると、市場で錯乱を起こしたのはそのもう一人の自分が?」
「これは推測だけど、怪我が快方しつつある漁師を目撃して、申し訳なさと助けてほしかったという気持ちが混ざり合い、心に急激な負荷をもたらした結果、感情を制御できなくなって……とかはあり得るかもしれない」
実際のところはジェシカに聞いてみるしかない。ただ、ヴェルデーナの推測はそこまで外れていないようにも思えた。
「ジェシカは私にバゲンズが死んだことはわかっていると言った。ただ、わかっているから受け入れられるということは簡単には繋がらないのさ。子供の頃からずっと一緒だった人間を愛し、子を成して、家族になれたんだ。そこには他人には理解しえない海よりも深い想いがあるだろうさ」
「それじゃあ、ジェシカさんが立ち直るにはバゲンズさんのことを整理できる時間が必要ってことですか」
「うん」
死を理解するのと受け入れるというのは似ているようで違う。
理解には感情は必要ない。ただ、あるべきものをあるように納得しそのように行動するだけ。しかし、受け入れるというのは、受け入れる側の感情や理性に大きく依存している。
特に今回のように愛する夫が非業の死を遂げてしまった場合はより顕著だろう。
変えられない結果としてバゲンズは死んでいる。それはもう確定したことで、拒絶したとことで結果が変わるわけではない。しかし、その死を受け入れるということは、理性的にも感情的にも逃げ道を失くし、バゲンズが死んだという意味を納得しなければならない。
ウォーヴィスはバゲンズとジェシカは子供の頃からの付き合いだと語った。もしかすればその辺の夫婦よりも長い時間を幼い頃からすごしてきたのかもしれない。
人生で隣にいるのが当たり前の存在がある日、理由もわからず無慈悲に奪われて永遠の別れとなる。
そんなこと誰だって簡単には受け入れられない。
「でもね、問題はそれだけじゃないんだよ」
ライカは視線だけで疑問を投げかける。ヴェルデーナは、水底に沈みこんでしまいそうな重い溜息を吐きながら続けた。
「ジェシカはエラと顔を合わせることをとても恐れているんだ」
◇◇◇
「……はい?」
「一度南へ行くことを諦めたバゲンズの尻を叩いたのはジェシカだったでしょ。ジェシカは今でもそのことを悔やんでいるんだ。一度は行かないと決めたバゲンズの決意を受け入れてやればよかった。あたしが余計なことを言わなければエラから父親を奪うことにならなかったんだって」
「それは……」
当事者でないライカが、それは意味のない後悔だとは口にできない。
「家にいると至る所にバゲンズの残した思い出がある。それを見ていると、どうしても後悔の念に襲われてしまうそうだ。どうしようもなくなって、叫び出したい衝動に駆られるらしい。そこで気のすむまで狂えればまだ違うんだろう。でも、エラがいるからそんな姿は見せられない。だから、声を殺して泣くしかない」
ああ、待って。それ以上は聞きたくない。
「でも、泣いていればエラは励ましにくる。バゲンズは日頃から、泣いている人に手を差し伸べられる優しい人になりなさいってエラに言ってたらしい。だから、きっとバゲンズの言葉を守っているんだろうね。ただ、そんなエラを見ていると、申しわけなさで頭がおかしくなりそうになると言っていた。貴方の父親を奪った愚かなあたしは、手を差し伸べられていい親じゃないって」
そんなことはない。全ては最悪のめぐり合わせを偶然にも引いてしまったことが原因であり、本来誰かを糾弾すべき、という話ではない。
本当なら父親を、夫を亡くした二人は支え合っていかなければいけないはずだ。
決して罪悪感を覚えて自身を責めるべきではない。何故なら、その選択の先に待つ未来は一つの家族の破滅しか待っていないからだ。
「ジェシカはエラを心から愛しているが故に、その愛に押しつぶされそうになっている。そう判断した私は一時的にでもいいから気持ちが落ち着くまでエラと距離を置くように助言した」
「エラちゃんをウォーヴィスさんのところに預けられるようになったのはヴェルデーナさんの言葉があったからなんですね」
「うん。できるだけジェシカが罪悪感を覚えない形で安全に距離を取るにはそれしかなかったからね。それにエラもウォーヴィスと一緒にいれば気がまぎれるだろう。そうすれば、エラの体調も次第に回復していくと思った」
「その回復っていうのはエラちゃんの病のことですか?」
「ああ。もう言っちゃうけどエラは病になんて罹っていないんだよ。熱を出すようになった原因は単に心身にかかる負荷が許容できる範囲を超えてしまったからだ」
「どういう意味ですか?」
「ジェシカに香草を渡すようになってから本当に短い雑談をするようになってそのときに聞いた話なんだけど、バゲンズの南への長期出張の話が出たのは大体一年前のことらしい。そのときにバゲンズから相談をされたみたいなんだけど、ちょっと揉めてしまったそうだ。ジェシカとしてはバゲンズに夢を追ってほしかったそうだけど、バゲンズはエラのことがあって素直に喜べなかったみたいだからね。多分、その様子をエラが目撃して普段仲のよい両親のぶつかり合いに強い恐怖と不安を感じたんだと思う。子供の体は敏感だからね。心身的な負荷は高熱や嘔吐や下痢を誘発したりと、体調面が不安定になることがある」
「でも、そうかもしれないですけど違う可能性もあるんじゃ」
「確かに可能性はあるかもしれないけど私はないと思っている。実はここ二月ほどは大きく体調を崩してないんだ。たまに咳をして熱っぽくなったりすることがあるらしいから、ウォーヴィスとジェシカはまだ病に罹っていると思っているみたいだけど、以前のように高熱を出すことはないらしい。仮に本当に病に侵されているならもっと他に症状が出ているはずだ。子供の病っていうのは大人よりも早く進むからね。でも、その兆候は見られない。もちろん経過観察はしなくちゃいけないけど、十中八九エラの不調は心身の負荷からくる至って普通の体調不良だよ」
ヴェルデーナの説明にすっと体の芯が消えてなくなるような感覚があった。椅子に座っていなければその場でひっくり返っていたかもしれない。
「じゃあ、エラちゃんは大丈夫なんですね?」
「うん。薬師として、今現在はエラが病だと断言できるものは一つも見当たらない」
その一言にライカは顔を覆って俯く。
震える手で顔を何度も拭う。胃に溜まっていた不安や恐怖を全て吐き出したくて、何度も深呼吸を繰り返した。
よかった。本当によかった。
落ち着くまでそうしていると、ふとあることに気がつく。
「でも、エラちゃんが病じゃないって知っているなら、どうしてそれをウォーヴィスさんに教えてあげないんですか? ウォーヴィスさんは、今も古い伝手を使ってエラちゃんのために薬草を買い集めているんですよ」
少し批難の色が混じってしまったが、ヴェルデーナはそれすらも受け入れて頷いた。
「それにも理由がある。ウォーヴィスの奥さんはね、心の病が原因で亡くなっているんだ」
ここまでお読みなってくださりありがとうございます。
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