十四話 おはよう……ございます
次の章までの繋ぎです
幕間
14
ライカの一日は太陽が空に昇り、夜の匂いが薄くなり始めたころから始まる。
ベッドに残る名残惜しい温もりとの別れに時間を割き、心を鬼にしてようやく這い出ると未練を断ち切るために窓を開けて外の空気を取り入れる。
「うっ……さむぅ」
飛び込んできた外気が顔に触れて次に服の襟や袖から侵入して、瞬く間に全身に鳥肌が立ち体の熱を強制的に下げて、頭にしつこくこびりついていた眠気を完全に追い払う。
季節は春を迎えているとはいえ、早朝はまだ寒い。やはり人間は寒さに耐えられるようにできていないので、これは軽い拷問だと歯を食いしばって朝を迎えている。
着替えをすませて、一階に下りると顔を洗い、髪を梳かして後ろで括る。このとき一種の願掛けをしている。
例えば髪を一度で綺麗に整えられればその日は調子がよく、二回目だと普通、三回目だと今日は運が悪い日だから気をつける。
これがライカのジンクスだった。ポルカで働き始めたときから続いているもので、他人にこんなことをしていると言うと馬鹿にされるがこれがよく当たる。思い込みと言われればそれまでだが、一日を占う運試しをライカは結構真面目に信じている。
「ふん……。今日は二回か」
普通である。
身支度が終わるとまず外の共用の井戸に水を汲みに行く。今の時間であればまだ利用する人が少ないため、冷えた空気に長々と晒されて凍える心配はないが、あともう少し時間が進むと主婦や工房の徒弟たちと井戸の順番を競わなければならなくなり、面倒なのだ。それに出遅れるとその後の予定に重大な遅延が発生してしまう。
今日はまだ誰の姿も見えず、どうやら一番乗りだったようだ。
桶二つ分の水を汲んで家に戻ると台所の炉に火を入れる。ヴェルデーナの家は炉が大きく、一度に二つの鍋を温めることができるので一つは汲んできたばかりの水を。もう一つの鍋には牛のミルクを湯煎するための湯を沸かす。
どちらも人肌程度に温めると、用意した二つのカップに注ぎトレイに乗せて主の元へ。
さあ、ここからが大仕事だ。
我が家の主ヴェルデーナが眠る寝室の前に着くとまず一声かける。大抵返事はないが、女性の寝所に足を踏み入れるのだから最低限のマナーとしてこれは欠かせない。
応答がないことを確認してからゆっくりとドアを開けると、聞こえてくるのは二日酔いに苦しむうめき声と、顔をしかめたくなる酒の臭い。およそうら若き(歳は知らない)女性の部屋から漂ってきて欲しくないものばかり。しかし、ライカはこの状況にほっと安堵の息を吐いた。
「今日はキラキラしてないみたいだな」
酒の臭いに別のものが混じっていなければ、仕事が一つ減る。混じっていれば増えるわけで、つまりそういうことである。
「おはようございます。朝ですよ」
二日酔いに苦しむヴェルデーナはあられもない姿でいることが多いので、視線はベッドから少し下に固定。間違ってもベッドの上を見てはいけない。もし間違って見てしまえばしばらく行動不能になってしまうほどの光景が広がっている。
一度ベッドの脇に飲み物を置くと、毛布を掛け直す。それから乱れた白銀の髪をそっと整えてやると、半開きの口と死んだ魚の方がまだ生き生きしていると定評のある目をしたヴェルデーナとご対面だ。
「ヴェルデーナさん、ライカです。朝ですよ」
ここで注意しなければいけないのは、間違っても大きな声を出してはいけないということで、最適な選択は低めに囁くように言うこと。ここで失敗すると、仕事が増える。
「気持ち悪い……。もう酒は飲まない……約束する」
ヴェルデーナは酒臭い息で毎度おなじみの台詞を吐く。
「そうしてください」
そして、ライカはそんな言葉に相槌を打ちつつそっとヴェルデーナの背に手を回して体を起こしてやり、まずは白湯の入ったカップを口元まで持って行く。
ヴェルデーナがカップに口をつけると少しだけ傾ける。こくり、と喉が小さく動く。
「ん……んむう」
これはもう一口の合図。
「はい、どうぞ」
白い喉がもう一度小さく動く。それで満足したのか、ヴェルデーナはカップから口を離すと首を右側に振った。
これはミルクを寄こせの合図。
人肌の飲みやすい温度になったミルクの入ったカップを差し出すと、先ほどと同じ様にゆっくりと飲む。ライカはミルクがあまり好きではないのだが、ヴェルデーナ曰く、二日酔いに牛のミルクが効くらしく、毎朝これを飲むのが習慣なのだ。
時間をかけてミルクを飲み干し小さなげっぷをすると、再び横になるヴェルデーナに毛布を掛けて一旦引き上げる。二日酔いがそこまで酷くないときはしばらくしてから起きてくるので、それにまでに間に合うように朝食の準備を始めるためだ。
朝食の内容は毎日決まったものを出すように言われている。といっても、手間や入手が難しいものを要求されているわけではなく、ミルクとパンに少量のチーズを添えたものを出すことになっている。なのでそれほど準備に手間取るということはなく、過去の徒弟時代を思えばほとんどなにもしていないようなものだった。
「おはよう…………ございます」
「おはようございます」
階段の手すりに体を預けるようにして起きてきたヴェルデーナの声は酒でやけ気味で、あまり体調は思わしくなさそうだった。
「朝食はやめておきますか?」
「ミルパンいち」
「わかりました」
ミルパンいちということは、暖かいミルクに一つパンを落としてくれという略語で、チーズの追加があれば「ミル」の後に「チ」がつく。
今朝の顔色から注文を先読みしていたライカは、煮込んだミルクに一口大の大きさにちぎったライ麦パンを落とし、その上に刻んだチーズを散らせる。
そうして準備を終えてテーブルの上に出しても、まず食べ始めない。
ヴェルデーナは二日酔いに限らず寝起きが悪く、頭をふらふらとさせて夢うつつといった様子であることが多い。なので大体はライカがミルクを匙で掬って飲ませて、ミルクの染みたパンにチーズを絡ませて食べさせてやるのだ。
徒弟が師匠の身の回りの世話をすることはそれほど珍しくはないが、ここまで甲斐甲斐しく世話を焼いてもらうのは礼を見ない部類かもしれない。はっきり言ってもうほとんど介護の域だが、これが当たり前になってしまったライカは一切愚痴を言うことなくやり遂げるのだった。
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