ホースマン 第4章 再起
飯塚の暴力事件から数週間後。
新しい年を迎え、レグルスは3歳馬になっていた。
早朝の美浦トレセン。寒空の中、飯塚の姿があった。
「テキ、こんなもんでいいすか?」
矢野調教師に声をかける飯塚。
その髪は金髪ではなく、まるで高校球児のような坊主頭になっていた。
「ミチル、素晴らしい仕上がりになったよ。じゃあ次はこの子をお願い。」
矢野が指差した馬に、飯塚は静かに歩み寄る。
騎乗停止中とはいえ、調教には乗れる。飯塚は積極的に馬にまたがっていた。
そんな中――。
「矢野先生、お疲れ様です。」
「おはよー矢野先生。」
都中とニエルが現れた。
二人が美浦に来た理由は、レグルスの今後について話すためだった。
調教用スタンドに案内され、ホットコーヒーを手に話が始まる。
「オーナー、猫宮さん。寒い中わざわざ北海道からご足労いただきありがとうございます。
今回はレグルスの代役騎手についてですよね。」
矢野が切り出す。
「どうなりましたか?」
都中が尋ねた。
「……実は、フリーの騎手何人かに声をかけてみたんですが、断られてしまって。やはりあの一件は衝撃的だったようです。」
――あの一件。
飯塚が名門・剛原厩舎の息子に拳を振るった事件だ。
「“清々した”と言ってくれた関係者もいますが……やはりフリーの騎手は剛原厩舎や弟子の厩舎の馬に乗ることが多いので、関係を壊したくないようで。」
元々、剛原騎手は傲慢な態度で知られ、一部から嫌われていた。
しかし親が剛原調教師である以上、フリーの立場では逆らえない。
「……どうするんですか、矢野先生?若駒ステークスまであと2週間切ってますよ。」
焦る都中に、矢野が言った。
「うちにもう一人、所属している騎手がいるんですよ。
もうすぐケイコを終えて、こちらに来るはずです。」
そう言っていると、小柄でおとなしそうな男が現れた。
「テキ、遅れてすみません。この方たちがレグルスの?」
「そうそう。ター坊、レグルスのオーナーさんと秘書の方だよ。」
矢野が紹介すると、男はヘルメットを脱ぎ、丁寧に頭を下げた。
「初めまして。矢野厩舎所属の河野隆弘です。みんなからター坊って呼ばれてます。」
「初めまして、河野騎手。俺はレグルスの馬主、都中蓮です。こっちは秘書の猫宮ニエル。」
「ニエルです。よろしくお願いします。」
「ター坊でいいですよ。馬主の方にもそう呼ばれてますし。」
河野は柔らかな笑みを浮かべた。
その穏やかな目が印象的だった。
「ところでテキ、僕を呼んだ理由は……?」
「……実はな、ター坊。うちのミチルが騎乗停止中だろ。
だからその間、お前にレグルスに乗ってもらおうと思ってな。」
「……!」
河野は驚き、そして俯いた。
「僕はもう、レースで馬に乗る資格なんてありません。……失礼します。」
彼は背を向け、そのまま去っていった。
「ター坊!待て!……行ってしまったか。」
都中が問う。
「矢野先生、彼はなぜ……?」
「……あいつ、剛原と同期なんです。競馬学校時代、剛原はアイルランド賞を取るほどの実力者。
一方のター坊は、ギリギリで騎手になった男でした。」
矢野は少し懐かしむように続ける。
「けど、卒業後うちに所属してからはメキメキ力をつけた。
まるで馬と会話できるような、不思議な才能を持ってた。
新人の年、8勝と勝ち星は少なかったけど、そのうち重賞3勝。
“勝ち星より価値のある勝利”で新人賞を取ったんです。」
嬉しそうに語る矢野。だが、都中の問いが続く。
「……それなら、なぜあんなことを?」
矢野は静かに答えた。
「……自分のお手馬の死を、目の前で見たんですよ。
しかもそのレースに、剛原が関わっていたんです。
日経新春杯。ター坊が初めて重賞を取った“ナイトクイーン”という馬でした。」
無理な騎乗で落馬。剛原はその後、2ヶ月の騎乗停止。
だが、ナイトクイーンはもう戻らなかった。
―――
ナイトクイーンの死。その瞬間を今でも夢に見る。
河野は、あの日からずっと馬に跨がることが怖くなっていた。
「僕は、あの子を守れなかったんだよ……」
誰にも言わず、何度も呟いた。
そんな彼の心を揺さぶったのは――厩舎の一角で見た、レグルスの姿だった。
脚光を浴びながらも、震えながら立つその馬。
弱い身体でも懸命に息を吐き、前を向いていた。
――ああ、この子は、生きようとしている。
その瞳に、ナイトクイーンの面影を見た。
「……テキ、もう一度だけ、チャンスをください。」
矢野は頷いた。
「ター坊。お前がレグルスに乗るんだ。もう一度、馬と向き合え。」
―――
数日後、リブラファームの事務所に届いた若駒ステークスの登録名簿。
そこには「レグルス(騎手・河野隆弘)」の文字が刻まれていた。
だが、都中とニエルは驚いた。
「……⁈ 剛原⁈」
未勝利を勝ち上がったラインボックスの騎手欄に、剛原の名があった。
「ケガの療養中のはずじゃ……」
その時、電話が鳴った。
「はい、こちらリブラファーム……オーナー、矢野先生からです。」
「矢野先生、都中です。」
『オーナー!やられましたよ。
谷藤君は剛原厩舎出身で、息子にも騎乗を依頼してる。
おそらくター坊が復帰すると聞いて、無理やり出てきたんでしょう。』
「……なぜそこまで?」
『噂ですが、息子が新人賞を逃した時、父親に失望されたそうです。
それ以来、剛原は騎乗スタイルを変え、ター坊を目の敵にしているとか。
でも大丈夫。ター坊君なら、レグルスと共に戦ってくれます。』
―――
若駒ステークス当日。
冬の中京競馬場。
今年は京都競馬場が改修中のため、中京で開催された。
曇天の下、9頭の3歳馬がパドックを歩く。
その中に、因縁の二人の姿があった。
「……剛原君。」
河野が呟く。
向こうは薄笑いを浮かべ、口を開く。
「まだやってたのかよ。お手馬が死んで騎手辞めた調教助手。」
顔の包帯を隠すようなバットマンマスク姿。痛々しい剛原。
「僕はもう一度信じたいんだ。馬と、自分を。」
「へっ、頭お花畑かよ。俺は“剛原の息子”として勝たなきゃならねぇんだ!
たかが10勝の三流が、俺に勝てると思うなよ!」
係員の合図。
騎手たちが乗り馬に向かう。
「決着をつけよう、剛原君。」
―――
ファンファーレが鳴る。
9頭がゲートに収まった。
静寂。
――スタート!
ラインボックス、好スタート!
レグルスは五分の発馬。中団5番手で脚を溜める。
3コーナーを過ぎ、直線。
先頭・ラインボックス。
その外から、レグルスが襲いかかる。
「さあ!ラインボックス!レグルス!2頭の叩き合いだ!」
「俺は負けねぇんだよ!」
剛原の鞭が、レグルスの顔すれすれをかすめた――が。
「読んでたよ、剛原君。」
レグルスがわずかに身をよじり、避ける。
バランスを崩した剛原は後退していった。
――レグルス、ゴールイン!
一年ぶりの騎乗で、河野隆弘、見事な復活勝利!
「うぉぉぉっ!!」
叫び、拳を突き上げる河野。
おとなしい彼には似つかわしくないほどの、熱いガッツポーズだった。
その拳は、まるで“死を乗り越えた魂”のように、まっすぐに空に突き上げた。
会場が揺れた。
――レグルス、復活の勝利。
「よくやった……レグルス、ター坊君!」
都中は拳を握り、涙をこらえた。
矢野は静かに呟く。
「これが、再起だ。」
◇ ◇ ◇
春、クラシックシーズン。
ニュースは一つの衝撃を伝えた。
兄・グローリア、スプリングステークスを完勝。
クラシック戦線の主役へ。
そして――。
『レグルス!弥生賞を制覇!ついに皐月賞で兄弟対決なるか!?』
実況が叫ぶ。
弟が、兄の背中に手を伸ばした瞬間だった。
その晩、小料理屋での祝勝会。
都中たちは湯気立つ鍋を囲みながら語らう。
「次は皐月賞……か。」
「ええ。今度は“挑戦者”として、レグルスが走る番ですよ。」
ついに訪れる――
宿命の皐月賞。“兄弟対決”の幕が上がろうとしていた。
「ホースマン」第4章「再起」までお読みいただき、ありがとうございます。
今回の章では、物語の中心が“走る”ことそのものよりも、“再び走り出す”ことにありました。
騎乗停止という重い処分を受けた飯塚、そして心の傷から騎手としての誇りを失いかけた河野。
彼らの姿は、どこか「レグルス」自身と重なって見えたのではないでしょうか。
競馬という世界では、馬も人も、一度つまずけば簡単には立ち上がれません。
それでも――誰かの想いに背中を押され、もう一度ターフへ戻ってくる。
その一歩にこそ、“ホースマン”としての魂が宿るのだと思います。
第4章は、兄・グローリアが“頂点”へと駆け上がる一方で、
弟・レグルスと彼を支える人々が“底”から這い上がろうとする物語でした。
そして次章――ついに、避けては通れない「兄弟対決」が訪れます。
最強と、伝説の血を受け継ぐ二頭。その戦いは、ただの勝負ではなく、
“運命”そのものとの戦いになるでしょう。
ここまで読んでくださった皆さん、本当にありがとうございます。
次回、第5章「皐月、そして世界へ」で、物語はいよいよ兄弟対決へと踏み込みます。
その瞬間、どんな風が吹くのか――どうか見届けてください。




