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第3章 デビュー

 レグルスが矢野厩舎に決まってからというもの、彼はメキメキと鍛え上げられ、今や厩舎一推しの2歳馬と呼ばれるまでに成長していた。

 そして6月——新馬戦の季節がやってきた。


「デビュー、いつかな……?」


 事務作業の手を止め、ニエルがぼんやりとつぶやく。

「手、止まってるぞ」

 都中が声をかけ、冷たい麦茶を差し出した。

「ご、ごめんなさい! オーナー! どうしても気になってしまって……!」

 慌てて謝るニエルに、都中は笑いながら答えた。


「来月の2週目、土曜。福島でデビューだってさ」

「ほんとっ!?」


 ニエルの声が弾む。

 その夜の夕食時——。


「オーナー、ついにレグルスのデビュー日が決まりましたね!」

 大河原が嬉しそうに話す。

「えぇ。レグルスの第一歩目です。みんなで見に行きましょう。ビックマムは他の牧場のスタッフが見てくれるそうですし」

「無事に走り切ってほしいですね……レグルス」

 桜子が小さくつぶやいた。



 そして迎えたデビュー当日。

 夏の福島競馬場は、盆地特有の蒸し暑さに包まれていた。

 今日の第5レース、芝2000メートル——レグルスがついにデビューする。


「いかんいかん、パドックに遅れちまう……!」


 慣れないスーツ姿の都中は小走りで向かう。

 すると、プレス証を下げた小柄な女性が声をかけてきた。


「レグルスの馬主さんですか? 私、名駿の記者の望月と申します。リブラファーム再スタートの件で取材をお願いしたいのですが、今お時間よろしいですか?」

「今からパドックに向かうんで、歩きながらなら大丈夫ですよ」

「ありがとうございます、では早速——」


 取材を受けながらパドックに向かうと、すでにサラブレッドたちが静かに周回を始めていた。


「オーナー! おそーい!」

「ごめんごめん、取材受けてたんだ」

「ありがとうございます、都中オーナー。それではこの辺で——」


 望月が頭を下げようとした時、都中が声をかけた。

「ちょっと待って」

「はい?」

「今日、レグルス勝つから。その後の取材もよろしく」

 その一言に、望月は思わず笑みをこぼす。

「かしこまりました、都中オーナー」



 パドックを見渡すと、観客の熱気が一気に押し寄せてきた。


「レグルスは6番人気か。もっと人気あってもいい気がするんだけどな」

 大河原がつぶやく。


「まぁ、騎手と調教師でそこそこ人気してるんですよ。どっちも違ったら、しんがり人気ですよ」

 桜子が答える。


 飯塚騎手は重賞勝ちはまだないが、すでに年間40勝。

 矢野調教師も先週、福島重賞を制覇していた。


「それにしても、なんで福島なんです?」

 桜子が首を傾げる。


「それはね——これだよ」

 都中が新聞を広げると、そこには一面に兄・グローリアの記事。


《グローリア、ついに明日デビュー! 騎手は名手・丹下翔! 函館5R・芝1200mを見逃すな!》


「兄貴の方が函館デビューで全国注目だからな。こっちは静かに始めたかったのさ」

「なるほど……。でも“静かなデビュー”で終わる気はなさそうですね」

 桜子が笑った。



 ファンファーレが鳴り響く。

 スタートゲートが閉まり、緊張が走る。


「さぁ、12頭ゲートインして——スタートしました! 8番外のレグルス、好スタートを切りました!」


 レグルスは序盤からスムーズに先行集団の2馬身前へ。

 道中も落ち着いて折り合い、4コーナーで鞍上・飯塚の手が動く。


(いくぞ、レグルス。お前の力、見せてやれ!)


 飯塚の鞭が入る。


「さぁ直線に入った——レグルス先頭! 内の各馬、必死に追う! しかし、伸びが違う!」

「残り200! レグルスだ! レグルス先頭! 後続、全く届かない!」


 そして、ゴール板を駆け抜けた。


「やったー!」

 ニエルが万歳しながら喜ぶ。

「やりましたね、都中さん!」

 大河原が握手を交わす。


「ここからだ……。ここからお前は兄貴より強いって証明してやれ!」



 レグルス、2着馬に6馬身差をつけての圧勝。

 勝利後の姿は、まるで「自信」を体現したようだった。


 しかしその翌日——。



 昼食後、都中たちはテレビ中継に釘付けになっていた。


『さぁ、ここ函館で伝説が始まります! グローリア、単勝1.1倍の文句なしの1番人気です!』


「・・・やはり凄まじい人気ね」

 桜子が呟く。


「でも、人気で結果は決まらないよー。昨日のレグルスみたいに!」

 ニエルが自信満々に話す。


 だが——その予想は裏切られた。

 兄・グローリアが衝撃のデビューを飾る。

 後にG1馬が6頭も出るこの新馬戦で、グローリアは後続に10馬身以上の差をつける圧勝。

 しかも、まるで「もう1レース走れる」と言わんばかりの余裕だった。


 翌日の新聞各紙の見出しは——。

 『グローリア、怪物誕生!』



 数日後。

 矢野調教師から連絡が入る。


『オーナー、すみません。レグルスが夏負けを起こしてしまいまして。しばらく放牧した方がいいです』


「……そうですか」

 都中は優しくレグルスの首を撫でた。


「焦らず行こう、レグルス」


 トレセン復帰までに、3ヶ月の休養を余儀なくされる。


 一方の兄・グローリアは快進撃を続け、札幌2歳S・東スポ杯2歳Sを連勝。

 そして——。


『朝日杯もなんのその! グローリア! 名だたる名馬にも引けを取りません!』


 ついに朝日杯を制し、“世代最強”と呼ばれる存在にまで登りつめた。


「……こんな化け物と戦うんですか、レグルスは」

 大河原が息を殺すように言う。


「相手が強ければ強いほど、燃えるんですよ。レグルスは」

 都中が静かに答えた。



 年末、有馬記念。

 日本中の視線が集まる中、都中たちはテレビの前で固唾を飲んでいた。


「あ、飯塚さん」

 画面の中で、夕日に照らされた飯塚の姿。

「飯塚さんもすごいよねー。重賞2勝、年間100勝だもん」

 ニエルが誇らしげに話す。


 しかし、そのレースで悲劇が起きた。


『あーっと! 一頭が競走中止! 無理なムチ入れで骨折——!』


 犯人は、西の名門・剛原厩舎の息子、剛原騎手。

 誰が見ても一目でわかる骨折。

 ニエルは絶句した。



 その夜。

 牧場スタッフと食卓を囲んでいた都中のスマホが鳴る。


「もしもし、矢野先生……?」


『大変です! 飯塚が、ミチルが剛原騎手を殴ってしまいました! その結果、騎乗停止処分に——!』


 有馬の後、剛原が放った一言が全ての発端だった。


『あの程度で骨折れるなら、死んで正解だよ』


 周囲の人間が凍りつく中、飯塚だけが怒りを抑えきれなかった。


「……おい、テメェ、もういっぺんその言葉を言ってみろ」

『あぁ? あぁ、あんた、地方から来たやつでしょ?地方上がりが俺に向かって何言ってんだ?』

「死んでよかった? 本気で言ってんのか?」

「そうじゃん、サラブレッドは勝つために生まれて来た。そのためなら馬潰してでも勝てれば本望でしょ。それにあんたも地方でお手馬の何頭か潰したんでしょ。南関東の死神サン」

「・・・!お前なんでそれを!」

飯塚は驚く。

「知ってんだよ、後のない馬を勝たせる代わりに、その後どうなったか」

「それでも、ここまで来た馬なら、後はある。ここで潰して何になるんだよ!」

飯塚は怒り、声を荒げる。

『そうさ。勝てない馬なんか、さっさと潰れて新陳代謝・・・』


 ——次の瞬間、飯塚の拳が剛原の顔面を捉えた。


「お前みたいな奴に、馬を任せる資格はねぇ!!」


その後、飯塚は剛原に拳を振い続けた結果。

 剛原は鼻と眼底を骨折、さらに全身打撲の全治3ヶ月の大怪我。

 騎手として致命的な損傷だった。



「……そんなことがあったんですか」

 都中は重く呟いた。


「矢野先生、暴力はいけません。でも、あの発言は……馬に携わる人間として、あってはならないし、そんな事があっても俺はレグルスから飯塚くんを降ろす気はないですよ。馬をあんなに愛する人間はなかなかいませんから。」


『……ありがとうございます、オーナー』


 数日後、処分が下された。

 飯塚には本来1年の騎乗停止が見込まれていたが、関係者の証言により、剛原にも非があると認められ——。

 5ヶ月の騎乗停止 に減刑された。



 ——レグルスの再起の影に、またひとつ新たな波乱が生まれようとしていた。

 ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

 第3章「デビュー」では、ついにレグルスがターフへと駆け出しました。

 兄・グローリアとの“運命の差”が鮮明になる中で、レグルスを取り巻く人々——都中、矢野、飯塚、それぞれの想いが少しずつ交錯していく章になったと思います。


 特に今回は、華やかな競馬の裏にある「人の情熱と葛藤」を描きたくて書きました。

 馬は走る。けれどその一走には、人の夢、執念、そして覚悟が宿っている。

 そんな“生き物としての競馬”を少しでも感じていただけたなら幸いです。


 飯塚騎手の一件は衝撃的な結末でしたが、彼の中の「馬への愛情」は本物です。

 次章では、彼とレグルス、そして都中たちが再び立ち上がるための物語が動き出します。

 “敗北”を知った者たちが、どう立ち向かうのか——。


 次章「再起」も、ぜひ見届けてください。

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