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ホースマン 第1章 朝日

 早春の北海道。まだ冷たい風が頬を刺す季節。

 しかしその朝、「プリムス・ノース・ファーム」は慌ただしく動いていた。


「もうすぐ産まれますね……!」


 若い男が緊張した面持ちで牝馬を見つめる。

 その横で中年の男が低く呟いた。


「……ああ。」


 やがて、牝馬がいななく。

 次の瞬間、仔馬が産まれ落ちた。


「出ました!」


 若い男が声を上げる。

 しかし中年の男は、すぐにもう一頭の存在に気づいた。


「もう一頭は? どうだ!」


 覗き込んだその先に――もう一頭の小さな命があった。


「……やっぱりか。初産だったから、本当は産ませたくなかったんだがな。」


 牝馬の名はフェーリークス。

 無敗のまま三冠牝馬となり、BCターフをも制した名馬。G1を六勝した女傑だ。


 その父は、アクィラサン。

 日本の芝三冠を制し、凱旋門賞では惜しくも二着。有馬、宝塚、天皇賞(春・秋)、ジャパンカップを制覇した「伝説」の名馬であり、今や最高の種牡馬として注目を集めていた。


 アクィラサンとフェーリークス――その配合は日本のみならず、世界中から注目を浴びていた。

 だが、双子だった。


「双子馬になっちまったか。弟のほうは潰すしかないな。」


 中年男は冷静に言い、獣医師を呼ぼうとした。


 双子馬。

 競走馬の世界では極めて珍しいが、同時に忌避される存在。

 馬は基本的に一頭しか産めない。双子だと母体への負担が大きく、産まれた子も栄養が足りず虚弱になりやすい。

 足が曲がっていたり、まともに立てなかったりすることも多い。

 だから、潰す――それが「競馬の世界の常識」だった。


 しかし。


「待ってください。その弟馬を、私に売ってもらえませんか?」


 若い男が声を上げた。


「あなたは……リブラファームのオーナー、都中さん? 見学に来ていた方ですね?」


 男の名は、都中蓮となか・れん

 牧場を経営しながら、自らも馬主として活動する“牧場馬主”という珍しい存在だった。


「双子馬は潰すしかないんですよ。兄馬のほうに母体の栄養がいく。弟は生きるだけで精一杯。走るなんて無理です。」


 中年男が諭すように言う。


 だが、蓮は静かに言葉を返した。


「……それでも、走ると思うんです。ほら、今、立ち上がりましたよ。」


 その仔馬は――立ち上がっていた。

 震える脚で、それでも確かに。母の乳を求めて、よろめきながら進む。


「……こりゃ驚いた。こんなこと、あるんだな。」


「脚部不安もなさそうですし、足も真っすぐ。血統も申し分ない。きっと丈夫な子になります。」


「しかし……」


 中年男が迷っていると、牧場主・野々宮慎太郎が姿を現した。


「都中さん、この馬を買いたいと?」


「ええ。」


「構いません。ただ、兄馬は来年のセリで億はくだらない名馬になります。仮に三億としたら……弟はその十分の一、三千万円。――用意できますか?」


 蓮は間髪を入れずにスマホを取り出し、電話をかけた。


「もしもし、俺だ。そう、安平町の――今すぐ持ってきてくれ。」


 電話を切ると、野々宮に向き直る。


「こちらで話を続けましょう。」


 応接室へ通された。

 壁には、この牧場で産まれた名馬たちの写真とレイが誇らしげに飾られている。


 やがてノックの音。

 金髪ツインテールの若い女性が入ってきた。


「失礼します! オーナー、朝から無茶言わないでくださいよ! この雪道、免許取ってまだ一年なんですよ!」


 彼女の名は猫宮ニエル。

 父は日本人、母はイギリス人。最近、都中の秘書になったばかりだ。


「ごめんごめん、ニエル君。でもこのタイミングを逃したら終わりだと思ってね。帰りは私が運転するから。」


「当然ですよ!」


 野々宮が咳払いし、話を戻した。


「都中さん、この女性は?」


「秘書の猫宮です。今回呼んだのは、こちらを用意するためです。」


 ニエルがジェラルミンケースを開く。

 札束がぎっしりと詰まっていた。


「仔馬の購入金額三千万円、育成費と迷惑料を含めて五千万円。これが私どもの精一杯です。」


 野々宮は目を丸くした。


「……なぜそこまで? 双子馬なんて、走るかどうかも分からない。」


「境遇が、似ているからですよ。」


 蓮は静かに言った。


 もともと蓮は普通のサラリーマンで、競馬はただの趣味だった。

 だが、兄・都中努は違った。生粋の競馬ファンであり、株式投資で資金を作って馬主になった男。

 牧場を立ち上げ、所有馬で一年間のG1をすべて制覇するという伝説を作った。

 だが、その後は勝てず、心労の果てにこの世を去った。


 牧場は解散し、馬たちは他の馬主の元へ。

 それでも蓮の心には、兄の言葉が残っていた。


「――お前は俺を裏切らない。だから、何かあったときは馬たちを託す。」


 牧場の名「リブラ」は、ラテン語で「九月」。

 それは、蓮の誕生月でもあった。

 兄は、自分の死後に弟が継いでも違和感がないよう、その名を選んでいた。


「……そうですか。では五千万円でお譲りします。書類は後日郵送いたします。」


 野々宮はバツの悪そうな顔で部屋を後にした。

 蓮とニエルも、静かに牧場を後にする。


 途中、サービスエリアで朝食をとる。

 ニエルが口を開いた。


「オーナー、どうしてあの馬を選んだんですか? 他にもたくさんいるのに。」


 蓮は蕎麦を啜りながら、穏やかに答えた。


「兄貴の日記に書いてあったんだ。あの馬の両親に、一度も勝てなかったって。だから、あの血を引く仔が産まれたら、真っ先に買いに行くって。」


 そう言って、静かに笑った。


 リブラファーム――

 海を望む丘の上に建つその牧場は、かつて多くの名馬を育てたが、今では年老いた牝馬が一頭だけ残っている。


「ただいま、ビッグマム。」


 蓮が優しく撫でると、馬は嬉しそうに嘶いた。

 競走馬名マインアンソニー。オープン馬として活躍し、エリザベス女王杯五着。だが繁殖に上がってからは仔を産めず、牧場解散時も引き取り手がなかった。


「おかえりなさいませ、オーナー、猫宮さん。」


 出迎えたのは初老の男性――大河原脩。

 牧場創設時から支えてきた牧場長だった。


「仔馬は無事に決まりました。」


「それは良かった。楽しみですね。」


「大河原さんが残ってくれて助かりました。俺ひとりじゃ、何もできませんでしたよ。」


「いえいえ。前オーナー――努さんには感謝してもしきれません。」


 大河原がこの牧場に戻ってきたのは、かつて家族の病の際、兄が治療費を全額負担したからだった。


「ちょっと! 私もいますからね!」


 ニエルがむくれる。


「ごめんごめん、ニエル君。さ、母屋に戻って話そう。」


 母屋には事務所、応接室、スタッフの住居、繁殖用馬房、放牧地が整備されている。

 その一角で、中年女性が笑顔で迎えた。


「おかえりなさい、オーナー、ニエルちゃん。寒かったでしょう? お茶入れますね。」


 彼女は大河原桜子。脩の妻で、牧場の生活面を支える存在だ。


 温かいお茶を飲みながら、桜子が尋ねた。


「他に購入予定の仔馬は?」


「いえ、一頭だけです。」


「一頭? なぜ?」


「今の人手では複数頭を育てるのは難しいです。一頭に全力を注いで、丁寧に育てたいんです。」


「なるほど……。かつてのスタッフたちは?」


「みんな、他の牧場に就職しました。」


「そうですか。でも大丈夫。私たち夫婦ももう子どもが独立しましたし、生活できれば問題ありません。」


「ありがとうございます。」


 蓮は小さく息をつき、微笑んだ。


「実は、もう名前を決めてあるんです。」


「名前? なんて?」


「――『レグルス』。ラテン語で“小さな王”って意味です。

 父が伝説、母が最強なら、子どもは王様になってほしくて。」


「レグルス……いい名前ですね。」


 桜子がそう呟いた瞬間、

 牧場の窓から、朝の光が差し込んだ。


 かつて輝いていた牧場に、再び光が戻り始めていた。


『ホースマン』第1章「朝日」をお読みいただき、ありがとうございました。


この作品は、競走馬と人間の絆、そして血統や運命に翻弄される世界を描きたいという思いから生まれました。特に、弱くても可能性を信じる心――それが、主人公・都中蓮と仔馬・レグルスの物語の根幹です。


競馬という世界は華やかに見える一方で、命や運命に厳しい現実もあります。双子馬という珍しい存在を通して、読者の皆さんには「才能や環境だけでなく、信じる心や努力が未来を変える」というテーマを感じ取っていただければ嬉しいです。


この第1章では、物語の始まりとして、レグルスとの出会いや牧場の再生の兆しを描きました。これから彼と蓮がどのような挑戦に向き合い、どんな絆を築いていくのか――その旅路はまだ始まったばかりです。


読者の皆様には、この物語を通して「希望」と「情熱」を少しでも感じてもらえたら幸いです。

これからも、レグルスと都中蓮の成長を見守っていただければ嬉しいです。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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