After Eden
かつて地球には人類が存在していた。彼らは火を操り、道具と武器を作り出し、やがて文明を築いた。民族や国家という枠組みを生み出し、社会は複雑に発展していったが、その果てに国家同士の対立が激化し、ついには核兵器という最悪の兵器を生み出すに至った。相互抑止の名のもとに保有された核兵器は、2089年、第三次使用を皮切りに連鎖的に発射され、地球全体の破滅が始まった。
2103年。一部の富裕層や科学者たちは宇宙コロニーへと脱出した。しかし地上に取り残された人類と多くの生命体は、放射線と環境の急激な変化に晒され、急速に絶滅していった。鳥類は上空に充満する放射線により早期に姿を消し、海洋生物も酸性化と有毒物質の蓄積により壊滅、森林は焼失し、草原は風化し砂へと変わった。
それでも、いくつかの生命は絶滅を免れた。中でもゴキブリは、極めて高い放射線耐性と雑食性により、生存を果たした。さらに、湿地にわずかに残ったコケ類、藻類、そしてアメーバやゾウリムシといった微生物・原生生物も、静かに命をつないでいた。
2200年。人類の消えた都市の廃墟に、高放射線耐性を備えたCladosporium sphaerospermumが繁殖を始めた。この菌はゴキブリの体に付着して各地へ拡散し、光も水も届かない原子炉跡や地下構造物に定着した。やがて、ゴキブリと菌類は無意識のうちに共生関係を築き、移動する腸として利用されるようになった。
一方、わずかに残ったコケや藻類といった光合成生物は、菌類に覆われた環境で保護されつつ生き延び、菌類に有機物を提供するという相互関係を築いた。一部の菌類はメラニンを生成し、放射線をエネルギーに変換することで黒色の胞子膜を形成し、極限環境にも耐えられる「菌類文明」の萌芽が誕生した。
3500年。Cladosporiumの一部が変異し、胞子の内部に簡易的な化学的記憶構造を持つ新種が現れた。Mycoderma lucidaという透明な菌類は、建築物や廃墟に広がり、旧人類の記録媒体から微弱なデジタル信号を吸収し、それらをかすかな発光として再現する能力を持った。
同時期に出現したC. sphaerospermum novaは、さらに高効率で放射線を代謝し、ゴキブリの体内に共生した。まるで移動する発電機のように振る舞い、宿主に代謝エネルギーを供給した。また、アメーバは菌糸の先端に寄生し、ゾウリムシは胞子の媒介者として機能し始めたことで、菌糸間で微弱な情報伝達が起こるようになった。
湿地の生態系には、季節ごとの温度や湿度変化に応じて呼吸のようなバイオリズムが現れ、菌糸ネットワークが環境情報を中継する情報媒体としての構造を帯びていった。
6000年。菌類と原生生物の群体は、化学信号や微弱な電気的変化を通じて、環境の変化を互いに伝達するようになった。気温はゆるやかに上昇し、大気中の酸素濃度も0.5%から2%程度にまで回復した。湿地はもはや単なる生息地ではなく、地形的記録体として情報を保持し、反復し、模倣する構造となった。
菌糸インターフェースが広がり、菌糸は地中や廃墟内部を覆い、ゆるやかな神経網のように働き始めた。彼らは言語ではなく、形、配置、化学反応によって意味を伝え、人類の記録の断片を模倣・再構築し始めた。
この頃、新たな複合生命体が出現した。緑藻、放線菌、アメーバ、そして菌類の複合体であるMycogestaltia vegetaは、視覚や聴覚ではなく、圧力、温度、pH変化といった物理・化学的刺激に反応し、太陽の動きや風のリズムを模倣して集団行動を起こした。
9000年。酸性雨の頻度は減少し、放射性物質もほとんど半減。地球の気候は緩やかに安定へ向かった。森林の再生には至らなかったが、地表の大部分は菌糸とコケによる広大なネット状構造に覆われていた。菌糸網は風、気温、音、湿度の変化を取り込み、かつての季節や生物の行動を模倣する記憶劇を演出するようになった。
12000年。地球は菌類を主として構成された、ひとつの巨大な有機的ネットワークに包まれる惑星となった。山、谷、湿地には季節や地形のリズムが刻まれ、風や胞子の流れ、微生物の振る舞いによって、かつて存在した音や光、生命の動きが断片的に再現されている。
都市の遺構は黒い菌糸に覆われ、宇宙から見るその姿は、まるで静かに光を帯びた球体のように映るだろう。かつて人類が築き、そして滅ぼしたこの地球に、もし再び誰かが訪れたならばきっと、こうつぶやくだろう。
「これは、私たちが壊した、あの地球だ」と。