第四章 それでも陽は沈む 第一幕 翳って、隠して、還って。
――――――会話の途切れ目を店員が継ぐ
「お待たせしました。こちらアゴちくわの磯辺揚げとホタルイカの素揚げでございます。こちらはお好みで酢橘でお召し上がりいただけます。とこちらレモンサワーと、角ハイボールですね。」
――――「はーい。ありがとうございます。」
愛想よく店員さんへ感謝を伝えるのは誠也。さっきまでの会話である程度話したいことを話したのか、箸でホタルイカを取り、口へ運ぶ。そしてビールで流し込む。
「んにしても、高校卒業してからお前らだいぶ変わったよな。」
政一先生はわざと言っているのだろうか。
「いや。こいつはマジで変わってない。」
と誠也に対して言う憲弘。
「逆にお前は悪い意味で周りに影響されすぎな。酒、たばこ、パチンコ。次はなんだ。消費者金融か?」
「いやまだ奨学金返せてないんで。」
めちゃくちゃ現実的過ぎて聞いているこっちがつらい。
「憲弘まだメジャーデビューしてないの?」
こいつは大学からベースを始めて、ずっと続けているらしい。
「それでも150人は満席になるようになったぜ。この調子なら来年にはツアーとかできたり…」
「憲弘さん!今のうちにサインお願いします!」
と食い気味でボケる誠也。
「仕方ない、顔に彫り込んだる。」
とノリノリな返しに
「あ、やっぱ憲弘さんじゃなくてギターのあの人がいいです。」
と見事なボディブロー。
「俺あいつのサインもかけるから大丈夫やで」
となぞ返答。
「憲弘はベーシストなわけか。バンドで付き合ってはいけないメンバーTOP3を占拠するベーシストなのかぁ。」
と辛辣ボケな先生。
「まあ。これでも5人はできてるし?そこまで問題じゃないっていうか?うん。」
流石に先生の言葉が刺さったのかすこし萎れる。
「慎一はあれ以降彼女はできたのか?」
地獄のような飛び火質問をしてくる先生に
「あれは”できた”に入りますかね?」
と答えてしまう。自分の過去を否定したい思いが口走った。
「あれをカップル成立と言わないほうが無理があるだろ。みんな言いはしなかったが、知ってたからな。」
先生がどう思っていたのか、聞きたくなくて、避けてきた。しかし、
「そんなにわかりやすかったですか。」
「みーんな知ってたし、応援してたよ。」
応援されてたことに虚をつかれる。
「誰も何も言わなかったじゃん。なんで?」
それはわかっているようでわからない疑問だった。この7年縛り続ける過去から抜け出すための鍵を探し続けていた。その鍵穴が過去であることがわかった。あとは鍵だけだった。
ホタルイカを取ろうとした箸を止めて誠也が言う。
「そりゃあ、高校で1番賢かったお前に、お前の判断の良し悪しなんて言えないだろ。」
しかし、憲弘は違う反応を見せた。
「俺はね、あ。こいつ落ちるかもなって一瞬思ったけどね。でも、付き合い始めてからも変わりなく勉強してたから、流石に大丈夫だろうと思って何も言えなかった。いいか?何も言わなかったんじゃない。言う必要がなかったから言えなかったんだ。」
憲弘も俺の根本的なところを知らないらしい。あいつと付き合い始めた俺なんて、信頼が地に落ちたと思っていた。
「お前らも俺のことを信じていたのか。」
俺は自分を信じていないし、他人も信じていない。人というのはいくつもの仮面を持っていて、対面している相手ごとに仮面を変えるからだ。誰が本当の自分か、誰が本当のその人なのかなんてことに振り回されていては疲れるからだ。
「"も"ってことはあいつもそうだったんだな。」
先生は俺の言葉の端々から真意を汲み取ってくる。
「正直、俺もお前には申し訳ないと思ってる部分がある。」
急に先生が謝り始める。
「先生は何も言わなかったんですか?」
と誠也が問う。憲弘も聞くつもりだったのだろう、口を半開きにして、誠也の言葉に任せている。
「いや、言いはしたんだが、慎一なら気づくと思って、それとなくしか伝えなかったんだ。」
と本心らしいそれの解釈を試みる。そうすると、一つのドアが見つかる。
「北東大学の話ですか?」
先生は力強く頷く。
「俺が北東大学を提案したのは、理性的なお前が判断すれば、北東大学を選んで受験すると思っていたからだ。」
しかし、俺はそれを断った。それも、いずれ別れる彼女から離れたくないという衝動的な理由で。
「慎一には言っていなかったが、お前の進路先、特に国立の前期にどこを受けるのかについて進路会議があった。職員間でのみな。」
それは…なんとなく予想できる。
「その会議は、一番大変だった。共通試験の結果と、これまでのお前の記述模試の結果から一番合格可能性のある、一番高いところを目指せる大学。それが北東大学だったんだ。」
はじめて自分の進路について、誰かがどう思って、どういう意図で、提案したのかを知る。自分の意思を貫くこと、背景を知らずに進むこと、その罪深さと愚かさに気づかされる。
「お前なら気づくかもしれないと思って、当時直接は言わなかった。何より、これを話すことが、当時のお前にとっては確実に負担になることは明白だったからな。」
気づいていた。先生がどういう意図で北東大学を奨めたのかも、なんとなく気づいてはいた。けれど、それを無視…したかった。
誰もダメな自分を知らない。ダメな自分を誰かに知ってもらって、それを肯定してほしかった。
『だめな慎一も良いじゃん』
そんな優しい言葉が欲しかった。その言葉を最初に言ってくれるだろうと思った相手には拒絶された。そして目の前にいる友人と先生は、ダメな自分を肯定も否定も未だしていない。
「でも僕は、あの時、断りました。」
「あぁ。しかも、俺には気づかないよう迂遠な言い回しでな。さすがにお前らしくなさ過ぎてすぐ気づいたよ。」
気づくのは無理もない話だ。目も泳いでいただろうし、何より言葉に力がなかった。
「でも、俺は、それでも慎一を信じようと思ったんだ。」
静かだった憲弘が口を開く。
「俺も、慎一なら大丈夫だと信じてた。まあ、自分のことで精一杯だったけど。あの時は。」
口を開くたびに紡がれる「信じる」という言葉。俺が一番嫌う言葉。
「信じる」には二つの解釈がある。一方的な意味としての信頼と双方向としての信頼。前者は理想の押し付けを、後者は相手に対する現実の理解を。
「どうして信じてくれたんだ。」
俯きながら聞く。まるで自分に問うように。
「お前、自分がどれだけ頑張っていたのかわかってないのか?」
「誰よりも前向きに、誰よりもひたむきに、少しずつ努力していたお前を、お前の努力を、俺らは近くで見ていた。だから、その努力が実ってほしいと願った。だから信じた。」
「どうしてそう願ったんですか。」
否定してほしかった。自分の高校三年間を。三年間でなくとも、あの判断をした俺を否定して叩き潰してほしかった。
「お前は俺らが頑張る理由になってくれたからだ。」
誠也と憲弘もうなずく。
「隣で一生懸命勉強している奴がいたら、俺もやんなきゃってなるだろ。」
あの時の自分に還ってくる。俺もそうだった。二人と勉強していたら、俺がもっとやらないとって思ってた。
「俺も慎一の進路考えるの楽しかったんだぞ。調べて、悩んで、相談して、会議して。もっといい進路を教えようと頑張れたのは、慎一だったからだ。」
――カランッ
ハイボールが音を立てる。グラスの水滴が垂れる。
――――自分の何かが崩れる音がした。