第六章 第二幕 墓前に咲く花の蝶
――「お前も俺と同じじゃないか!」
どうやら彼はあまり頭がよくないらしい。俺と同じと言ってしまったことで、自分が浮気をしたことを自白したようなものだ。
――悲しいことに彼を照らす街灯は、心もとなく点滅している。
「俺と同じ…ね……。」
綾乃は、勝ち誇ったような顔で、反芻する。
「つまりあなたは、俺と同じって何が言いたいの?」
あえて自分から言わない綾乃のずる賢さは、綾乃を照らす街灯の怪しさに表れている。
「そりゃもちろん、俺と同じで浮気してんじゃねえか……。」
自分で言って気づいたようだ。
「いや……俺は浮気なんてしてない…………!」
萎れたように自信を無くして放たれる言葉には何の力もない。
「別に私は、浮気なんてしてないけどね。」
はて……?今さっき”現浮気相手”といったばかりでは?
「いやさっき、そいつが浮気相手だって、言ったじゃないか!嘘つくなよ!」
どういう意図なのか、俺ですら理解しかねる。静謐な夜に彼の怒号が騒がしい。
「現浮気相手、確かにそう言ったね。
――でも、あなたが浮気をしてることを知った時点で、私はあなたと別れる予定だったから、もうあなたと付き合ってないの。」
綾乃が一息おく……。
「――だから、私と付き合っているつもりの”あなたにとっては”浮気相手になるねって話。」
んんー。随分と強引な理論な気がする。けれど、彼は気が動転して頭が回っていないようだ。
――綾乃の鋭い眼光はまだ何かを隠しているような雰囲気を持っている。
「っ……!別に俺はこの子と付き合ってるつもりはなかったんだ!」
あぁ。悲しい哉。こいつはどこまでいっても自分の墓穴を掘るばかりだ。
「私と付き合っていなかったって言うの?」
女性が悲痛な声を響かせ、強く握りしめられた手に爪が食い込んで血が出そうだ。
「そうだよ。」
急に開き直る彼。いや、彼という必要もないな。
「じゃあ……いったいなんで……。
――あんなにデートしてくれたり、プレゼントしてくれたり……してたのに。同棲しよって話は……。」
物静かな住宅街に反響していた虫の音も、女性の叫びを聴いてピタリと止む。
「お前とは付き合ってたつもりはないんだけど、勝手にそう思い込んでいただけなんじゃないの?」
はぁ。こいつ……。救いようもないほどに脳みそが腐ってる。人としてあり得ない域に達している。
――どうしてここまで変わり身ができるのだろう。
「じゃあ、私はなんだったの……。」
絶望に瀕したとき人は、自閉的になるか、その絶望に立ち向かうかのどちらかを迫られる。
――俺にとってこの女性は正直どうでもいい。けれど、絶望に呑まれて、自分の世界に閉じ込められないでほしい。そう願うからこそ、
「あなたは、あの男に遊ばれ、捨てられたのです。」
女性の心を蝕む絶望は、女性に立ち向かってほしいと願う俺の一言で、復讐心を燃やすための燃料となった。
「ふざけんじゃない……。」
女性が心からの嫌悪感を奴に向けて言う。
「あんたのためにいろいろ諦めて。それでもあなたといるのが楽しいから、過ごせてこれた。なのに
――お前のせいで全部が……!」
魂の叫びを轟かせた女性に乗じて、
「てなわけで、あんた…。今、周りに敵しかいないけど……降参しないの?」
綾乃はもう詰めに行っている。すでにこいつの手番で意味のある手はない。
「いや、だから!俺は綾乃のことが好きだよ…!その気持ちは変わらないっ……!」
嘘か本当かは、本人しかわからない。しかし、仮に綾乃のことをこいつがどれだけ本気で想っていようとも、綾乃はそれに応える気は微塵もない。
「だから?何?別にあんたのしみったれた愛なんて求めてないから。ね…?」
そう言って綾乃は完全に復讐鬼と化した女性の共感を誘う。
「えぇ。こんなゴミクズさっさと灰になって消えてもらいましょう。」
女性はかなり本気のトーンで喋っている。しかし、このままでは本気で奴が灰になりかねない……。さすがに文字通り灰になっては犯罪になる……。何か、懲罰の方法は―――
「じゃあ、この人には駅前で謝罪演説でもしてもらおうかな。」
――綾乃が突拍子もないことを言う。
しかし、精神的ダメージはかなり大きい……。
「え…………。」
奴は焦り散らかして、かいていた汗が一瞬で引いていき、青ざめた表情をしている。
――さすがは綾乃だ。
「演説内容は私とこの子で考えるから。お前にはそれを全力で演説してもらうよ。」
女性の方はそれで納得がいくのだろうか……。
「それ……。いいですね。こんな人でなしにはそれぐらいやってもらわないと。
――浮気する根性あるならこれくらいできるよなぁ?」
す……すごい気迫……。さっきまでの女性とは思えないほどに、力強い声で、凄む。
「ハ……ハィィ……!」
怯えまくって縮こまっている奴を見ると加虐心がくすぐられるのだろうか……女性はさらに縮こまって小さくなっている奴に
――ドンッ!!
壁に突きささった、パンプスをはいた細長く色白な脚は、美しくもその性格を表していた。
「お前……二度とその顔を見せるな……。二度と女性を弄ぶな。
――何よりも…………二度と女性を傷つけないと言えっ!!!」
奴は沈黙する…。
「――今っ!!!すぐにっ!!!」
塀ブロックが欠けてボロボロと音をたてそうなぐらい、足をめり込ませる。
「二度と女性を傷つけませんっ!!」
誠実そうな芯のある声ではっきりと言う。
――しかし、組まれた腕の上でずっと指を上下に動かし、つま先で地面を何度も鳴らしながら、この様子を見ていた綾乃がついに声を荒らげる。
「お前先に、言うことがあんだろっ!!」
あぁ。人として当然の礼儀。自分が間違ったことをしたときに言う言葉……。それをこいつは一言も女性に言ってない。
――それに気づいてずっと苛立っていたことに……綾乃の人間としての高さが垣間見える。
「ご……ごめんなさいぃ!!」
頭を地面につけないとは…。甘えてるとまた……
――「こういう時どうするか、言わないとわかんないのか?」
奴は地べたに這いつくばり、必死に地面に頭をつける。
「申し訳ありませんでした……二度と致しません!だから……お許しを!」
どうやら社会人として土下座をやってきたことは、あるらしい。土下座になった瞬間、奴の言葉が綺麗になった。
――綾乃は奴の憐れな姿を一瞥して女性に話しかける。
「じゃあ、まずこの人には2人の女性に二股をかけていたことを駅前で告白してもらおうか。その後の内容は貴女が考えてみて?」
「片方の女性には、義理のプレゼントとは思えないほどのものを渡し、片方の女性には同棲の話をし、また片方には付き合っていないとハッキリ言い、その一方でいまだに好きなのは片方だけとほざいた男です。――とかですかね。」
うん。誇張表現はないし、これといって奴に対する客観的事実しか入っていないから、名誉毀損といった大きな問題にはならないだろう。
「んー、それを駅前で10分間繰り返してもらおうかな〜。」
「じゅ、10分っっ?」
奴はどうやら一回言えば終わりという甘い考えだったらしい。その顔は、驚きと絶望が混じったようになっている。
――6月の湿気の鬱陶しさも、その顔には破顔であろう。
「足りないかぁ。1時間とかにしとく?」
綾乃がさらなる地獄を要求する。
そして……
――少し前の、絶望の淵にいた女性とは思えないほど、気丈な振る舞いで淡々と宣告する。
「30分にしましょう。」
それ誰がカウントするんだよ……。そう呆れていると……
「だってさ、慎一。30分カウントしてくれない?」
そうくるよな……。とはいえ、最後まで付き合うと言った以上はやり通したい。これは二人のためでもあり、自分のためでもある……。
「了解した。」
2人でやりとりしていると、女性が割って入ってくる。
「いえ、これ以上この方に迷惑をかけるわけにはいかないですし、それに、こいつの業を私が見届けないわけにはいきません。」
その目には不動明王がごとく確固たる意志を宿していた。
「だってさ。どうするの?」
綾乃がわざとらしく俺に目配せする。
――綾乃は一緒に見届けないのだろうか……。
「綾乃の代理人として、ちゃんと見届けてこようかな。」
そういうと綾乃は食い気味に、
「何言ってるの……?慎一を置いていくわけないでしょ?というか、私もこいつの恥さらし、見届けないと気が済まないしね。」
――肩を小突いていたずらっぽく語りかけるその姿は、蝶が舞うように軽やかだ。




