二話 出発、大峡谷へ
オレの父が死んだ、と母が言う。
しかし、オレに父親の記憶は無い。今更亡くなったと聞かされても、何の感慨も無い。
この館に、オレ以外の子供はいない。厳密に言えば、オレも館に住んではいないが、それでもオレは、アクトの世継ぎのはずたが、父の死んだ今となっては、オレの事は、更なる邪魔な存在になっているのだろう。
オレは、アクトの世継ぎなどと思った事は一度として無い。まして、二度も殺されそうになった家だ。
それに、オレは、この世界の人間というより他所の世界から紛れ込んだ人間、という思いが強い。
そんなオレにとって、母とだけが、この世界との唯一の繋がりであり、母だけが大事であり頼りだ。
もし、 母が居なくなった赤子のオレは、この世界で生きて行けるかどうか分からない。
能力が使える事が分かってからのオレは、出て行く為の準備に余念は無かった。だから何も準備する必要は無い。準備は既に出来ていて、出て行く機会が必要なだけだった。
オレは外の世界をまだ見たことが無い。
だから、母のここを出て行くと言う言葉を聞いた時、実は、母には悪いが、外の世界を思うと、オレの心はわくわくと高鳴った。
・・・やっと外の世界が見れるぞ・・・
父の死を言われたのは昨日の昼頃、今は日の変わった早朝。
古い二頭引きの馬車でアクト家の館を出る。
見送りは誰も居ない。心残りはない。
オレには、祖父、祖母、叔父、叔母が居るはずなのに、誰とも顔を会わせた事がなかった。
館の使用人もルミナとエレナ以外、オレに、偉そうに文句を言った男に一回会っただけだ。
寂しい出発だが、今更現れても対応に困るだけだ。
馬車の馭者台に、見慣れない老年の男シーザスとその息子で壮年のゼルト、馬車の前の従者席にルミナとエレナ、後部の主席に母とオレ。
『六人でノルデノルンまで行くのよ。』と母が言う。
シーザスとゼルトは、母がアクトに入る以前からの従者だったらしい。格好はアクトの従者の儘だ。
エレナとルミナは、オレが生れた後に、アクトの領主に雇われた。着衣は粗末な黒っぽい私服に替わっている。
母は、オレと二人で館を去るつもりでいたようだ。
しかし、シーザスは息子のゼルトを無理やり連れ、お嬢の居ない館にはいられないと言って、付いて行くと、聞かなかったらしい。息子のゼルトは、仕方なくといった様であったようだ。
ルミナとエレナも、オレの世話をする為に雇われたから、連れて行ってくれと。
オレが居なくなれば、この態だから、館からはもう必要無いと言われるだろうし、そうなっても帰る家は無いからと、母に泣いて頼んだようだ。
流石に、母も無下に断れなかったのだろう。
ノルデノルンは母の祖父母の地で、昔は人が住んでいたが、今は住む人はおらず、荒れているはずと、母が言う。
そんな所に行くのだ。二人ならともかく、他に四人も連れて行くのに、母は不安であるだろう。
・・・オレに何の不安もないが・・・母者はどうだ?・・・
ノルデノルンへは、ここより南下すること四日の旅になる。まず、アクトの領都アクトアスの街へ向かう。アクトの領主館と領都は離れている。
馬車に揺られながら、
『母者、大丈夫か?領地を出る事に心配はないか?』と、抱いてくれている母を見ながら尋ねる。
『ジオ、大丈夫よ。何の心配も無いわ。』と、母の顔は硬い。
母は、三歳の幼子が言う言葉では無い事にも気が回らない程、何かを気にしている。
『ジオはどお?』と、硬い顔のままの母が聞く。
『母者、オレは何の心配もしとらん。これからの事を思うと、心は浮き浮きしとるぞ。』と、笑って母を見る。
『そうね・・・』と母は上の空だ。
母の表情は相変わらず硬い。母も皆も、荷はほとんどない。
・・・母を安心させるか・・・
『母者!これ、あげる。』
魔袋から岩場で抽出した金棒を出して渡す。
『これは・・・どうしたの?』
母の顔が戸惑っている。
金棒一本で家が買えるし、大人四人が一年は暮らしていける。
そんな金棒を三歳に満たない幼子が持っている。母の顔が戸惑いから怒りに変わり始める。
アクトの家から持ってきたのではと母の顔が言っている。母の切れ長の目が吊り上がり、口が尖る。
初めて見る母の怒った顔はとても恐い。
『母者、顔が怖いぞ!盗んでないぞ。三歳児には無理だぞ・・・』
と呟き、半べそを作って母親の顔を見ることにする。
母は金棒を見ながら、暫く考えている。
母のつり上がった目は元に戻るが、口は尖ったままだ。何か言いたそうだが、言葉は発せられない。
・・・まだ怖いぞ・・・
三歳児未満はべそをかく。
アクトの館は山の中腹より、アクトアスの街を望む。
その中腹より、馬車は低い緑の木々の中の、街へのなだらかな一本道を、ゆっくり、ごとごとと、揺れながら下って行く。半刻程掛かって街に着く。街に近づくにつれ、畑と民家が点在しはじめ、増えていく。
アクトアスはアクトの領地の最大の街で、外壁も、門も、検閲も無く、特に区切りは無い。
街の中を通る石畳の主要道路は広く、馬車道とその両側に歩道が続く。
馬車道と両側の歩道のそれぞれの間には、赤、青、黄他、色とりどりの花が植えられた花壇で隔てられている。
また、両側の歩道の脇には店舗が連なる。そしてその店舗の裏側には広い庭が有り、馬車が止められるようになっている。
通りから見える店舗の壁の色も、緑、黄、赤、青、白など華やかだ。店舗の造りは木造の柱に土壁が多い。屋根の傾斜は片方で、穏やかだ。
オレは街というものを見るのは初めてだ。色々、珍しく見ている。しかし、町並みや店舗の造りについて初めてという気がしない。
・・・大きな観光地か・・・
ある街の風景が頭に浮かぶ。
街の中は商売の店舗地域、造作の作業場地域、それらで働く人々の一般居住地域、街の中心に執政館と富裕層の居住地域、とあるようだ。
馬車は主要道路を街の入口から続く商業地域を進む。両替商は数店並んでいる。金棒では買物が出来ない。金貨に両替する必要がある。
母が、最初の両替商に馬車を止まらせようとするが、オレは母の手にオレの手を置き、首を振って母を止める。
母は、不思議そうにオレを見たが、声を出すのを止める。
・・・良心的な店は・・・ここは雑貨商か・・・
『母者、ここ。』と通りかかった店を指す。
母が、また不思議そうにオレの顔を見たが、何も言わずに、爺に声を掛ける。
『シーザス。止めて』
馬車を店舗裏の馬車止めに入れて、皆で雑貨商に入る。店内は広く明るい。食料品、衣類、雑貨、整然と通路で別けられている。何でも置いているが衣類は少ない。店長らしき五十代の男性より声が掛かる。
『いらっしゃいませ。何か御用はありますか?』
店長らしき男は、母者の顔を見ている。
俺は母者の傍らで、母者のお尻にくっついている。店長に悪い感じは受けない。
・・・母者を知っている顔だ・・・当然か、母者は領主の長男の妻だからな・・・
『金貨に両替をお願い出来ますか、それと少々の買物を。』
母が金棒を見せる。
『買物をして頂ければ両替は無償で致しております。両替のみであれば一分でございます。』といって純度と重さを計る。
・・・うん、一分は良心的なのか・・・
母は金貨百枚を受け取ると、
『支度金よ、必要な物を買いなさい。』と皆に五枚ずつ渡す。
四人は驚いていたが、嬉しそうに受け取り、店内を廻る。
皆が買物をしている間、店の裏入口脇で椅子に座って、自作の果実水と、小麦に果実を混ぜ砂糖を塗して焼いた丸片を食べながら待っている。が、目蓋が落ちる。三歳未満児は疲れ易い。
眼が醒める。
裏入口の外、その脇に積まれた買った物を見る。食料、雑貨が積み上がっている。
・・・うん、尻が痛いぞ。譲られた馬車は古くて、ガタがきている。長く乗れそうもない。こんな馬車ではノルデノルンまで行けそうもないし、皆も、着の身着の儘のようだし・・・母者何かあったか?・・・まぁ、いい・・・
・・・う〜ん、そうなると、テントも、大きな水甕もいる・・・
『母者!』
オレは離れていた母を呼ぶ。
傍らに来た母に、オレは誰れにも見られないように金棒二本を渡し、
『馬車と馬は一番いいやつ。テント大一つに小二つ、それに水甕とコンロも!』と耳元で言う。
母は呆れた顔でオレの顔とオレの巾着を見るが、あらためて注文に行く。
母も魔石袋は知っているだろう。しかし三歳児のオレが何故持っているか不思議だろうが、今は聞いて来ない。
馬車は八人乗り、赤色に、四面の縁に金の蔦と葉の模様が囲む、三頭引き長距離用。
テントは四人使用ーつと二人使用を二つ。コンロは八基の魔石付き。
戻って来た母に悔しそうに頬を抓られる。
『母者、痛いぞ・・・』
幼児に指摘されたのが、悔しいらしい。
『母者、これ・・・上げるから・・・』と、母を睨むオレ。
母に自作の菓子を渡して、頬から指を離してもらう。母は菓子を見ても驚かない。驚くのは止めたらしい。
『おいしいわね。』と、うれしそうに頬張りながら片手で抱いてくれる。
皆の買物も終った。
頬を撫でながら、作っておいた魔石袋の一つを母に渡し、魔石袋の認知を母に移す。その使い方も話す。
母は、渡された魔石袋に驚くも、魔石袋を持って荷造りに行った。
雑貨店近くの食事処で、遅い昼食を取って出発する。
吹き抜けの食事処が出す料理は、オレの初めての外食の記憶に残らない程度のものだ。
しかし、新しい十人乗りの赤い重厚な馬車は快適だ。古い馬車との差は天と地だ。母も、お尻の痛さを気にしなくなった。
朝から夕方まで馬車に揺られ、農村地帯の街道を南下する。退屈な三歳児は母の豊かな胸に凭れ、不安の取れた母の顔を見上げる。
頭にふと浮かぶ。
・・・スタンバイミー・・・
思わず、口から言葉が出る。
母が不思議な顔でオレを覗き込む。
母の瞳が銀色なのに、改めて気が付く。瞳も髪もオレと同じだ。
母は、館では髪を真っ直ぐ垂らしていた。今は、後ろに回して太く編んでいる。
オレは耳に掛からない長さの右からの七三分けで、後ろを刈り上げている。
『母者!オレの右目が母者と同じ色だ。左は父と同じ色か?』と聞いてみる。
『あの人の色は茶色で、ジオより濃かったわ。』と普通に答える。
そんな母の屈託の無い返事を聞いた後に、母の胸に凭れて眠る。
目が覚める。
・・・やはり誰かが着いてくる。魔人眼ゆえか。目を隠すか・・・
『オレは教会に売られるのか?』
と、寝起きのオレは、行きなり母に尋ねた
『誰が、ジオを売るの?』と、凄い顔で睨まれた。
『人、人攫いの話じゃ!母者、顔が恐いぞ、美人が台無しじゃ・・・』
母は、オレの言葉に困惑している。
・・・美人は不味かったか・・・
『人攫いの話ね・・・。どうしてそう思うの?』戸惑いながら、母が応える。
『館の本に書いてあった。教会がオレのような子供を攫うって。だから片目がみえないように、これを作った。』
火傷痕のような赤い膜を左目の回りに張り、母に見せる。
『どうじゃ!これなら目も見えんし、顔も見えん。オレは母に似ていい男だからな。』と笑う。
『・・・そうね。でも馬車の中でつけては駄目よ。』と、母は不審げにオレを見るが、素っ気ない。
確かに、オレは左右の目の色が異なる。だから、教会の考えるように能力が強いのかも知れない。しかし、アクトの館の蔵書部屋には、この左右目の色の違う者の事について、特に書いてある書本は無かった。だから、教会の話は、偶々そんな人物が居たのだろうぐらいにしか考えていない。
また、昔の人は魔力や聖力などとは言わずに、内力とか気、または気配と、その状態で使い分けて言っていた。オレは魔人などでは無いから、魔力という呼び方はしない。
この能力は、火、水、風、雷を起こす力、そして、物を動かす力、それらを組み合わせて使う力が基本だ。個人により、出来る、出来ないはあるようだ。しかし、オレは出来ないと思った事は無い。
馬車は順調に進んで行く。
この辺りは、アクトの南部の穀物地帯で、人々も村も豊かだ。しかし。旅人はほとんどいない。
二つの村で宿泊する。宿はあるが、個室の部屋は無い。いずれも大部屋だ。
最後のアクト領内の街サンダリアに夕方到着。
この街の先、南西には断崖絶壁の大渓谷とそれを跨ぐ岩の橋が待っている。その岩の橋を渡ればノルデノルンの地だ。
サンダリアの街に入り、まず宿を探す。馬車の止められる中級の宿が広場の近くで見つかった。
街では火傷痕を付けて、母に隠れるように歩く。母もオレの手を握っているが、特には、心配していないようだ。シーザス他、皆が顔の痣に驚いている。が、特に何も言わない。
この街でも大部屋だ。夕食は食堂で、皆で一緒に取る。料理は芋と猪肉の煮込みと硬いパン。硬いパンを汁につけて食べる。パンの味が汁の味に変わる。
・・・柔らかいパンは無いのか、小麦の風味が台無しだ、それに三歳児に硬いパンは難儀だ・・・
アクトアスの街から見張られている気がしていたが、この街に来て、その感じが強くなっている。
・・・三歳児をつけ狙うとはとんでもない奴だ。・・・
オレは、オレの気配を、気付かれない程弱くして、周囲に張り巡らす。その継続に魔石を置いて眠りにつく。
翌朝、目が覚める。特に変わりは無かった。監視の感じも変わりなく有るが。
街の朝は早い。店が開くのも早い。朝食を済ませ、皆で買物に出る。
頭に浮かんだフードのある上着であれば、顔が見られないだろう。そんな服がほしい。
瞳の色を気付かれないような深いフードを探す。見つかったのはグレーの薄い生地で足首までの長さだ。余計に目立つが、仕方ない。
普段の服も買った。厚手の白のシャツにグレーの膝下丈のズボン。赤のズボン吊りに赤の靴下。それにしっかりした革の靴。
母も高級なドレスから、長袖の白のシャツと革のベスト、厚い生地の緑のズボンに着替える。勿論、替えも買っていた。
・・・母の腰に剣?母は剣が使えるのか?・・・
他の四人も、着替えを買っているようだ。
午前半ばに街を出る。大峡谷へ向かう途中から荒地にかわる。人は、この辺りから先へは行かない。
そのまま暫く進む。
向こう側の絶壁が目に入る。岩の橋も表われる。岩の橋の手前へ進む。馬車を止め、皆で馬車から降りる。目前に赤い岩の地肌が横に走る大峡谷が広がる。岩の橋は、余裕で馬車―台がすれ違えるくらいの幅で長々と続いている。先が小さくしか見えない。
勿論、この橋は魔力で支えられている。相当の魔力使いが、造ったのであろう。オレなら壊せる気がしたが・・・
すると、険呑な気配が漂ってくる。
そちらを見る。黒いフードの男が二人、右手後の高台に見える。母と他四人は眼前の風景に気を取られている。まだ何も起こらない。
『誰かがおるぞ。行くぞ』
皆を促して馬車に乗り、ゼルトに岩の橋の上を向こう側に向けて馬車を進めさせる。
『だ、大丈夫か・・・壊れることはないか?』
馬を御しながら、ゼルトが言う。
『大丈夫よ。昔も使っていたし、相当な魔力者が作ったのよ。まだその力は残っているわ。』と、母が言う。
・・・うん?母は魔力が分かるのか・・・
ゼルトは、橋の上を馬車を進めて行く。
オレは、警戒のため、音を耳に集める。
橋の真ん中に差し掛かった頃、一人の詠唱が聞こえる。馬車の回りに、魔力か聖力か知らぬが湧き始める。
・・・ちっ、やはりオレが目当てか・・・
オレは急ぎ、オレの力を詠唱している男の喉に送る。そして、その喉を掴む。
男の詠唱が止む。馬車の回りの力が消える。掴んだ喉を離す。
喉を掴まれた男が、その場に倒れ、喉を押さえて驚いた顔をしている。
もう一人の男が詠唱を始める。また、馬車の回りに力が湧き出す。
オレは、喉を締め上げた力を、二人目の男の下の土に向ける。そして、その男を土ごと、大人の背の高さまで持ち上げ、落とす。詠唱していた男は、落とされた拍子に倒れ、倒れたまま呆然としている。
馬車の回りの力はすでに無い。
母だけに聞こえるように声を飛ばす。
『我らを殺したいのか?』と、オレが言う。
『・・・』相手は無言だ。
『我の父が誰か知っているか?』
『知っている・・・』
『我の父は死んだ。お前らがしたのか?』
『わ、我らは知らない・・・』
彼らは何故か、ひどく怯えているのが分かる。
母にも聞こえている。母を見る。母の顔が不快げだ。
『そうか、知らんのか・・・』
『なら、去れ。去らねば、谷底へ落とす。』
二人は慌てて去っていく。気配も消える。
『母者、あの二人は誰か分かるか?』
母は暫く考えてから言う。
『・・・知らない人達だわ。』
『そうか・・・』
『ジオは、いつから知っていたの?』と、母が訊く。
『最初の街から居た。』
『そう・・・』母はオレを抱きながら何かを考えている。
オレは今回の事を忘れる事にした。三歳児は面倒事が苦手だ。
ゼルト達に気付いた様子は無い。
只々、馬車を進めるのに、前と横に注意を払っている。
橋を渡り終えたので、橋を覆う力に自分の力をぶつけて見た。
橋を守っていた力が消える。
と、橋が崩れ、下に落ちて行く。
『あっ!』思わず声が出た。
あんな簡単に、橋を保持していた力が消えるとは思わなかった。
・・・落として良かったのか?・・・
母も皆も下を覗いている。
『母者、聞いてもいいか?』
『ジオ、何?』と母はまだ下を覗いている。
『他にも道は有るか?』
『それならグランツ領に行く道がある筈よ。』
母が、下を見たまま答える。
それを聞いて少し安堵した。
『判った。』
・・・試しに、オレの力をぶつけてみたら、橋が落ちた、とは言わないでおこう・・・
三歳児は後先を考え無い。
二話 出発、大峡谷へ 完