いつわりの食卓
食卓とイスと、ケーキは変わらずにある。けれど、両親がいない。
先ほどまで両親がたっていた場所には、真っ白な物体があった。
ひとつはパレットナイフを持ったもの。左手は崩れており、テーブルの上にはボウルがひっくり返っていた。
もうひとつはテーブルに肘をついているもの。指のあたりがとれており、足もとに苺が落ちていた。
──あれは、なんだろう。
竹琉は、つぶれたものに目を凝らした。
白の中になにかが混じっている。
淡い黄色、白、赤、橙色の個体。
眉をひそめる。
ぐちゅり、と粘着質な音が響いた。
父側に立つ物体が、くずれはじめたのだ。細く長い足の部分が崩れ、腰、首の順にひび割れていく。それはだんだん、竹琉の方へとかたむいてきた。
止まって。竹琉の心の願いはむなしく、白い物体は崩れて──、
弾けた!
飛び散った白は、竹琉の足元まで飛んできた。靴とジーンズに白いものが付着し、口から手をはなす。
あたりは甘い香りにみちていた。
竹琉は驚愕する。
(この香りは)
つぶれたものを、じっと観察する。
黄色いものはスポンジ。赤いものは苺。橙色のものはビワ。
『苺とビワのケーキは10月2日にしか作らないものよ』
頭の中で母の声が響く。
『竹琉の誕生日限定のケーキだからね』
『お母さん、お父さんみたいにお料理が上手じゃないから、この日のために世界一美味しい野菜とくだものを育てたの。ほめてくれるわよね? ね?』
わかっていた。
つぶれた左腕を見たときから、ぼんやりとわかっていた。そして、香りで確信した。
鳥居の外にいる両親は、幻だということを。
「また泣くの?」
ふりむくと、少年は背後に立っていた。いつ注連縄から解放されたのだろう。
「あれぇ? 泣いてないの? つまんね」
竹琉は少年を睨みつけた。
「馬鹿にしないでください。なんでそんなことをいうんですか」
「えへへへ、だってだってぇえええええ……嫌いだからだよ」
目の前に少年の顔がきた。ふり上げた右手を、視界にとらえた。その手には、包丁が乱暴に握られていた。
(刺されるなんてこと)
あるわけない。
『甘ったれの愚か者』
不意に左腕が引っ張られた。石畳に足をつっかけ、しりもちをつく。
左腕には注連縄が巻きついていた。顔を上げると、柱には深々と包丁が突き刺さっていた。その場所は、竹琉の頭があったところ。
あそこに、ずっと立っていたら――。
こめかみに汗がつたった。首を横にふる。
そんなわけない。だって、人を刺すことは犯罪だ。やってはいけないことだ。
『こいつに豊葦原の常識などある訳がない』
桃色の月は嘲笑う。
『愚かすぎてわからなかったか? こいつが本気でお前を殺そうとしていたことが』
ぱしん。注連縄が、傷だらけの少年の横っ面をたたいた。
『どんなに優しくしても、こやつの心は変わらんよ』
少年は包丁で応戦するが、注連縄は鳥居の隙間から次々と飛び出し少年に襲いかかる。
圧倒的に不利だ。
戦いを知らない竹琉でもわかる。
注連縄は手数が多いうえに早いし、無駄がない。
『捕獲成功だ』
いきなり少年は倒れた。竹琉もなにが起きたと、目を見張った。気付いていなかったのは、少年も同じだったようだ。上にばかり気がいっていて、下からの注連縄に気付いていなかった。
『そうだそうだ、言い忘れておったわ』
少年の足をいましめる注連縄は上に移動し、少年の体をさかさ吊りにした。
『こやつは青草人ではないからな?』
竹琉の顔の高さに少年の顔がきた。
あらわになった少年の顔を見つめる。
目を見開く。体がふるえる。
引き結んでいた口をあけて、口内に空気をいれた瞬間だった。
声にならない悲鳴が爆発した。
情けないから、今まで必死に我慢していた絶叫だった。でも、その顔を見てしまったら、もう我慢なんてできなかった。
どうしよう。声が止まらない。
『なかなか好ましい絶叫だが、うるさい』
注連縄が竹琉の頬を叩いた。
地味に痛い。おかげで声を止めることができたけれど。
竹琉はふたたび少年の顔をみた。
血まみれの白い顔。その顔をとめどなく汚す血が、どこから流れているか、ずっとわからなかった。
それが今、ようやくわかった。
少年の顔には、深紅のくぼみがふたつあった。くぼみがある場所は、本来ならば【眼球】が埋め込まれている場所。
彼は、眼球がなかった。
少年は、にたぁっと笑いかける。口端をつりあげたせいで、くぼみが圧迫され、たまった血液がこぷこぷとあふれた。
「ぼくの、目玉、どっかにおとしちゃったんだぁ。竹琉は知ってるよね? どこにあんの?」
「……知らない……です」
「うそつき」
「嘘じゃありません!」
「嘘つき! 泣き虫! ふざけんな!」
笑っていた少年は、いきなり怒鳴りだした。竹琉はすっかり怯えて、立ちあがることができなくなっていた。必死に尻を引きずりながら、うしろにさがる。
『にげんなっつってんだろうがぁあ!』
狂った怒声に、体と思考が停止する。
『おれはぁああ! いたいんだぞ!? くるしいんだぞ!? なんでわかんないんだよ!?』
僕はあなたじゃないからです!!
言いたい言葉がつばと一緒に飲み込まれる。竹琉は体を後退させ続けていた。もう無意識に近かった。
『竹琉って、バカだね』
少年は怒りの表情を、また笑顔に変えた。
『ついでに言うと、お前もな』
言うなり少年は勢いよく上体を起こした。月をめがけて物を投げた。それは一瞬だった。だが、わかった。それは彼の血で真っ赤になった包丁。
竹琉は顔をあげた。
紅梅色の月がいない。
そう認識したときだった。
げぇえぁああああああああああおああ!!
凄まじい轟音とともに地面が揺れた。
外の世界で巨大なものが暴れまわっている。白い毛におおわれた巨大な爪が鳥居を強くひっかく。鳥居の破片と爪の破片、血液が落ちてくる。強烈な血のにおいが、甘い香りをうち消した。
ブチン。
轟音の中でとらえた音に、竹琉は戦慄する。
少年の体が、石畳に落ちていた。
『えっへっへへへへっへへへ』
血の雨をあび、笑う。
『邪魔はきえたねっ!』
その姿は無邪気で、狂気。
彼はゆっくりと竹琉に近づいてきた。
『でもね、ほんとうに消えなきゃならないのは、おまえだよ。僕じゃない。【竹琉】だ』
逃げろ。逃げなければ。殺される。
わかっているのに、動けない。
立つことよりも、逃げることよりも、全神経は血まみれの少年に集中していた。
あっという間に少年は、竹琉の目の前にたった。制服の襟をつかまれ、軽々と持ち上げられる。
『えっへっへへへ。だからさぁ?』
少年の笑みが、消えた。
『死んじまえ』
包丁が、大げさな動作で振りあげられる。竹琉はきつく目をつむった。