最終話 旗手
1年後、フロウ37歳のある日、彼女は心臓発作により病院に運ばれた。
直接死に直結するまでにはいたらなかったが、その後すぐに別の慢性的な病に掛かってしまった。
それまで元気に動き回っていたフロウの姿は見る影もなく、これ以降はベット上で生活を送る時間が増えていく。
そんなある日、フロウの元にリズとシドニーがお見舞いに訪れた。
客間のテーブルに2人を誘導したフロウは、紅茶を差し出しながらこんな言葉を漏らした。
「もう昔みたいに動けなくなっちゃった。今の私にできることといえば、少しでもみんなの迷惑にならないよう、部屋でじっとしていることだけ。情けないでしょ?」
シドニーは、覇気を無くしたフロウを見つめながらこう言った。
「確かに。夜通し看病を続ける『ランプの貴婦人』はもう卒業してもいいかもしれないね。ただし、キミ自身はそれで終わっていいなんて思っていないんだろ?」
彼はカバンから紙とペンを取り出して話を続けた。
「キミが今まで学んだり経験したことは、いつか奉仕の活動に憧れる人が現れたときの手本となる。恐らくキミはベッドの上に居ても『看護の道標』を築いていくことをやめないだろう。ならば、僕もリズもそれを手伝っていきたいと思っているんだ。もちろん、一緒にやってくれるよね?」
シドニーは紙とペンをフロウに手渡した。
その後、フロウは多くの著書を残すと共に、数学の知識を活かして世界初となる統計学を発明、医療と科学の融合を進めていくこととなる。
――― 数年後 1859年 イタリア 野戦病院近郊
イタリア統一戦争(ソルフェリーノの戦い)の最前線であるこの町には、前日に行われた戦闘の影響で、数えきれない数の死体が地面に投げ出されていた。
「この人、まだ息があるぞ」
商業取引の関係でこの地を訪れていたアンリーデュナンは、生存者に気付くと彼を引き起こし、肩を貸しながら近くの野戦病院を目指して歩き始めた。
血の滲んだ軍服に目を向け、ゆっくりと歩みを進める2人。
やがて開け放たれたドアが2人のすぐ目の前まで迫ってくると、入口に立っていた門番が彼らの前に立ちはだかってこう言った。
「ここから先は入れない」
扉の奥に目を向けると、大勢の傷ついた兵士たちがまるで重なり合うように押し込められていた。
「治療が必要だ。1人くらい何とかなるだろう?」
デュナンが食い下がると、門番は傷病者の軍服を指差した。
「オーストリアの軍服を着ている。ここはフランス連合軍のための施設だ。敵兵を助ける義理はない」
さらに門番はオーストリア兵の足元に唾を吐いてこう言った。
「こいつらのせいで俺は友人を亡くしたんだ。ベッドがガラガラだったとしても、入れてやろうとは思わないぜ」
デュナンは、抱えた傷病者の軍服から階級章をはぎ取った。
「軍服を捨てれば、敵も味方も関係無い! ただの人間だ!」
デュナンが構わずに門番の横を通り抜けようとすると、チッと舌打ちした門番が両腕で2人を突き飛ばした。
バランスを崩して地面に倒れ込むデュナンとオーストリア兵。
顔を上げて門番を見上げると、男は肩に掛けていたライフル銃を構えてデュナン眉間に向けた。
カチャリと音を立てて解除される安全装置。
「民間人が首を突っ込むことじゃない! グダグダ言ってないであっちへ行け!」
険しい表情を浮かべたデュナンが膝を立てて立ち上がろうとすると、隣で倒れていたオーストリア兵が彼の服を引っ張って動きを阻止した。
「いいんだ。俺のことはいいんだ。ここは連合軍の支配下。どうせもう助からない」
「し、しかし」
「それよりも、空が綺麗に見えるところに連れて行ってくれ。その方が気持ちよく最後を迎えられる」
デュナンはやむなく彼を連れてその場を立ち去り、近くの街路樹の根元にオーストリア兵を横たわらせた。
「どこか休める場所と救援を見つけてくる。それまでここで待っててくれ」
仰向けになったオーストリア兵はわずかに微笑みながらデュナンを見上げている。
「そうだ、これを預かっててくれ」
デュナンはカバンから1冊の本を取り出した。
「私が最も敬愛する人物が書いた本だ。大切な本だから絶対に失くすなよ!」
そう言うと、兵士に本を握らせてそのまま胸の上に乗せた。
本を握りしめるオーストリア兵。
その後デュナンは傷病者を休ませてもらうための家を探して町中を走り回った。
苦労の末、家を避難所として使用してもいいという住民が見つかり、他にも救助活動を手伝ってくれる数名の同士も見つかった。
彼らの一部は、後にデュナンが立ち上げる赤十字の初期メンバーとして活躍することになるのだが、それはまだ先のことである。
やがて仲間を引き連れたデュナンがオーストリア兵の元へ戻ったのは、空が赤く染まりはじめた夕暮れ時であった。
「戻ったぞ! さあ行こう! 薬も手に入れた!」
デュナンはオーストリア兵に駆け寄って跪いたが、凝視した先の顔は青白く、瞳は開いたままであった。
動きの無くなっている胸部に目を落としながら首筋に指をあてがうも、反応は感じられない。
兵士の死を確認したデュナンは、地面に落ちていたフローレンスナイチンゲールの著書を拾い上げ、再び彼の胸に乗せた。
「今日、あなたに約束する。あなたのような不条理な犠牲者がでないよう、私はこれからの人生を捧げる」
その後、デュナンが設立した国際赤十字は、次のことを世界に認めさせた。
『赤十字は、どのような戦時下においても敵味方の区別なく傷病者を手当すること』
『赤十字の旗を掲げる者には、いかなる者であっても危害を加えてはならないこと』
ナイチンゲールとデュナン、同時代に生きた2人の想いは、今でも世界中の人々の心の中で生き続けている。
戦場の貴女は天使たちの道しるべ 終わり