100年筆子塚
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
世界一、とはなんとも聞こえのいい言葉だ。一度は自分に縁があってほしい言葉候補の、ひとつにあがるだろうね。
個人単位では難しい、世の中の一番。実は日本は、江戸時代後期の時点で、すでに2つ世界トップにのし上がった項目があった。
ひとつは、「町にする人口」。もうひとつは、国民全体での「識字率」とされている。
当時、イギリスのロンドンでは、下層の庶民となると一割ほどしか、文字を読むことができなかったという。
しかし日本においては、庶民のおよそ半数が文字を読み書きできた。武士にいたってはほぼ全員だ。全国で見ても6割、江戸の町中だと7割ほどの識字率を誇ったとか。
この功績は、寺子屋の存在が関係しているという見方も多い。当時の庶民たちが、読み書きそろばんを覚える場として知られ、のちの学校の前身になったともいわれる。
学び舎として、意図的に多くの子供たちが集まる、特殊な環境だ。
のちに学校の怪談が広まったのと同じように、寺子屋の時点から、すでに不可解な話がいくつか生まれていたのだとか。
そのうちのひとつ、聞いてみないかい?
当時、現代の義務教育にあたる制度がなく、庶民の子供は、幼いころより働きに出ることは珍しくなかった。
そのため、寺子屋の先生が生涯、最初で最後の師となる場合もままあり、感謝の意を示そうと、先生の死後に塚を立てることがあったという。
「筆子塚」と称されるこのお墓は、かつての生徒たちがお金を出し合って用意するもので、師への最後の恩返しと見られ、現代でも多く残っている。
これより話す寺子屋もまた、代々の先生の塚を有する一軒だった。
元幕臣と伝わる初代先生は、とある廃寺を、許しを得たうえで私財を投じ、改修。寺子屋として、何代にも渡り、庶民たちの読み書きを教え続けていた。
教師は代々、元幕臣の一族が就いた。教育熱心ではあったものの、先生一代で務められたのは長くて10年ほど。現役を退いてからほどなく、息を引き取ってしまう短命な家系だったとか。
通う途中で師の代わってしまう生徒たちもいたが、彼らも慣例にならい、人生最初の師をいたむべく、筆小塚を作っていったそうなんだ。
そうして、寺子屋が開かれておよそ10代。100年近くのときが過ぎたころのこと。
かの寺子屋が、ゆえあって10日ほど閉所した時期があった。
これまでほぼ毎日、開いていたものだから、親の中には手習いから遠ざかることを不安がる思いもあったという。
しかし当の子供たちは外から帰ってより、暗くなるまでのあいだ、自らこれまで使った半紙を広げ、すき間に小さく字を書きつけていたらしく、相当なのめり込みようがうかがえたとか。
その子供たちが、寺子屋の再開を迎えて喜ばぬはずがなく、開所時間の半刻(約一時間前)から、ぞろぞろと寺子屋の敷地まで集まっていたとか。
この10日間、寺の四方は天幕に包まれ、人が立って見張るほどだった。
相当、大掛かりな工事かと思われていたが、いざ明らかになってみると、茶色が中心だった壁や屋根が薄桃色になっていること以外、さして違いは見られなかったという。
――ただの塗り替えのためだけに、あそこまで厳重な「かくし」を行う必要があったのだろうか?
親も子供たちも首をかしげつつも、再び始まった授業の時間へ打ち込んでいく。
最初に気づいたのは、書写の時間中だった。
ひとつの長い文机に、子供数人が座って自分の名を半紙に書き、できたら先生の元へ持っていくようになっている。しかし一番西の隅に座った子は、先ほどから一枚もまともに駆けないまま、次の半紙、次の半紙へと手を伸ばしていた。
墨汁が紙の上を滑ってしまうためだ。
彼の硯に出された墨汁はいくらか水っぽかったが、これまではしっかり紙が受け止め、字を成してくれた。
それがいまは穂先を離し、しばらく置くと、とめ、はね、はらいと、少し力が入ってしまった箇所を中心に、汗をかくように黒い筋が垂れていってしまうんだ。半紙の右側へ向かってね。
他の子による、机の揺れもなくはない。しかし、それは今までにもあったことで、原因とは思えない。
その子は席の変更を申し出、それによって垂れなくなった墨を用い、その日の手習いを終える。
やがてこの訴えを、他の子もぽつぽつ表に出してきたらしい。実際、先生が朱筆でもってする添削にも、同じようなことが見られ始めたんだ。
先生はいったん筆をおき、子供たちをいったん部屋の中央へ集める。そのうえで、自分の後について回るよう指示を出し、室内をジグザグに練り歩き始めたんだ。
子供たちの意見は、おおむね一致する。
いわく、部屋の中央部分はさほどでもないが、外へ向かうにつれて、わずかながら足元も身体も傾いているように思える、と。
教師が小さくうなずき返した時、不意に地揺れが襲ってきた。
揺れそのものはさほど大きくなかったが、室内の傾斜はいよいよ顕著になってしまう。
奇妙な光景だった。中央部は先ほどまでと、さほど変わらない。しかし左右の壁付近は、そうはいかない。
角ばっていた屋内がいま、大きく丸みを帯びている。
横の壁が天井に、床の畳は左右の壁に。大きくその輪郭をたわませながら、枠といわず柱といわず、ともに溶け合い、歪んでいく。
まるで熱さに耐えかねた飴細工が、曲がっていくかのごとき景色だったとか。
先生の案内のもと、荷物はそのままに屋外へ退避する子供たち。おのおのが石畳の上から振り返ったとき、切妻造の学舎は、内がそうであるように、出入り口である正面をのぞいて、左右を大きくのけぞらせながら、その身を屋根の中央へ大きく集めていた。
「まるで、つぼみだ」
どの子から漏れたつぶやきか、分からぬままに先生はうなずいた。
「ああならぬよう、しっかり塗り直したのだがな。やはり、内からにじむ、学びの香はおさえられぬか」
先生がそうつぶやくや、学舎のてっぺん。「つぼみ」の合わさったところが、ぷつりとほどけた。
元のように、屋根と壁が降り立つかと、子供たちは思った。
しかし実際、学舎の壁はいったん地につくも、そこからみかんの皮をむくような動きで、もうひと広がり。
まくられ、落ちる学舎の内側は、土に着くやあたりに黒々とした墨汁を、大いに散らせた。
この100年。畳は変えても、中身は変えず、ずっと板などの間に溶け込んでいたものだ。それがいま、ふじな(タンポポ)の座を思わせる広がりをもって、全員の目の前へ姿を見せた。
あぜんとする子らの前で、なおも続きがつむがれる。
学舎を囲む木々の上から、羽ばたきながら、されど羽音は一切立てず、降り立ってくるものがある。
蝶だ。かすかな斑点もその羽に浮かべない、子供の半身はあろうかという、真っ白いもの。それが10匹近く降り立ち、めいめい手のように広がる墨の上へ降り立ち、その口吻を黒い池へ垂らし出したんだ。
子供たちの中には、この異様な光景に驚き、蝶へ石を投げようとする者もいたが、先生がそれをおさえた。
「あれらは我が父祖、学びに生き、死んだ者の御霊だ。始まりより100年、記されることなくこぼされ、溜まった墨をもったいなく思ったのだろう。どうか、そのままにしてくれないか」
小半刻(約30分)たつころ、蝶たちの身体はすっかり黒くなっていて、いずれの翅から、今にも墨をこぼしそうな様子だったとか。代わりに土の上の墨汁は、すっかり消えてしまっている。
やがて羽ばたく蝶たちは、一様に西の空へと消えていく。そこは、代々の筆小塚が集まる方角でもあった。
後を追う先生と子供は、やがてそこに並ぶ10の塚。それぞれの石のてっぺんに、大きな錐で開けたような深い穴ができていること。そこにあふれんばかりに注がれた、黒い墨汁の姿を、目の当たりにしたのだとか。
かの学舎は移転を決め、通う子たちも新学舎の完成とともに、そちらへ移った。
蝶たちの舞い降りた学舎は、元より半壊してしまったのもあって、完全に取り壊されてしまったらしい。
しばらくは神域とみなされ、しめ縄が渡されていたものの、しばらくして後の大火事によって焼けてしまい、明治時代には新しい家屋が建つようになったのだとか。